Nothing Out of the Ordinary



 十の翼を有した、ひとりの天使がいた。
 その者は語らず、触れず、ただ全てを見守っていた。

 彼が在る限り、世界は静謐だった。
 河は流れ、星は墜ちず、死は循環にとどまった。

 ある日──天使は、死した。
 その遺骸の場所に残ったものは、終わらぬ混沌のみであった。

 《Fragmentum Caeli X(天の第十断章)》より
 別名:Nucleus Angelorum(天使核の書)
 ──原典不詳/記録上初出:Anno 1132,Monasterium Vetus di Llangollen(廃修道院ラングレン写本)





 階段を下りた先に広がっていたのは、かつて礼拝施設として使われていたと思しき石造りの大空間だった。
 天井は高く、ゆるやかなアーチを描くリブ・ヴォールト構造。壁面は厚い石材で覆われ、表面には微かな金属の光沢と、風化による擦れが見られる。
 自然光は差さない。壁面を飾る色鮮やかなステンドグラスは、どこか冷たい無機質な光を空間に招き入れていた。
 会衆席にチャーチベンチはない。代わりとばかりに、職員たちが定められた間隔で並んでいる。その中に、組織に配属されたばかりの青年──テニー・ラフィールドはいた。

 オウリエイト研究機構──AUREATE INSTITUTEオーリエイト・インスティテュートは、王室系の学術機関である。幾重もの選抜を抜け、テニーは調査補佐部門のひとつに配属されることになった。
 テニーの胸を占めていたものは、まだ見ぬ世界への期待と高揚感であった。しかし、初日の迎えは、想定とはまるで違っていた。
 案内されたのは地上の研究棟ではなく、地下へと続く無銘の昇降路。その先に存在したのは、ASTRALEIGHアストラレイ──あらゆる国家境界を越えた、超法規的機密構造体だった。
 テニーの教育係となったヴァート・ハロウは、彼の戸惑う様子を見て「最初はそうなるよな」と軽く笑った。曰く、ヴァートも現在のテニーと同じように、現状を理解し、飲み込むのに時間を要したのだという。
「でも、これで動揺してたんじゃ、ここではやってけない」
「それって、どういう……」
「口で説明するよりも、見て感じた方が早いさ」
 ヴァートは腕時計を確認する。時刻はちょうど、七時四十五分を指し示したところだった。

 先ほどまで、軽やかな口調で案内してくれていたヴァートも、旧聖堂に入った途端、口を閉ざしてそれっきりになってしまった。軽口を叩くような空気感もなく、テニーも倣うようにして、背筋を伸ばして口を閉ざす。
 扉が開いたのは、まるで呼吸を合わせたかのような、静かな間だった。重たい静寂を切り裂くように、十の靴音が石床に落ちる。
 彼らは最奥に設けられた演壇に、等間隔に並ぶ。空気が張り詰めるのが、肌でわかった。
 彼らは誰ひとりとして、視線を職員に向けなかった。なのに、テニーは理解する。
 ──彼らが、“The Garlandガーランド”だ。
 ──なら、だというのなら。彼らの腕に抱かれた少女は、誰だ。
 ガーランドのひとりの腕に、この場には似つかわしくない少女が収まっていた。女性と称するにはあどけなく、少女というには息を呑むような色を帯びている。彼女は、彼の胸板に華奢な体を凭れさせていた。
 テニーはこの光景を前に、目を疑った。しかし、それは序の口であると、すぐに知ることになる。

 旧聖堂の教壇に立ち並ぶ十人の男たち。
 最奥中央──ルシアン・エヴァレット。左にレイ・ヴィスカー、ノエ・アッシュフォード、シリル・エインズワース、アリステア・グレイ。
 右にユリシス・グレイヴァベル、アレックス・レイン、リアム・ヴィスカー、セオドア・ブラックレイ、ベディヴィア・ヴェイル。
 誰一人乱れることなく整然と並んでいるのに、すべての視線はひとりの少女に注がれていた。
 ルシアンが彼女の髪に鼻先を埋めるように顔を寄せる。レイが頬に柔らかく触れ、ノエが指先に口づけを落とす。その隙間からシリルが手を伸ばし、彼女の襟元を柔らかく整え──その誰も彼もが、堂々と彼女に触れていた。
 少女がくすぐったそうに笑みを浮かべれば、つられたように他の男たちも眦を柔らげた。
 重く静かな空気と、甘く柔らかな情景に、テニーの思考が混乱を極めていく。肌感覚と、視覚情報が、どうしても一致しない。
 空間に、ひとつの声が響いた。少女の髪に唇を寄せてから、アリステアが一歩前に出る。
「本日の主要報告は三件。詳細は各ユニットに通達済みです。新規配属者の識別登録は、後ほどヴァートから処理が入ります。……そのほか、何か追加のある方は?」
「己の常識を基準にして、ここを測ろうとしないことだ。それは、何よりも危うい錯覚になる」
 アリステアに続き、ユリシスが静かに告げる。
 端的で、無機質ささえある言葉が発せられる壇上の横で、レイがルシアンから少女を奪おうとしている。
「レイ。……せめてブリーフィングが終わるまで、我慢できないのか」
「だってミラが、俺に抱っこされたいって言ってた」
「少なくとも俺は聞いていないな」
 日常の隙間のようなささやかな声さえも、響く空間だ。レイとルシアンの応酬に、アリステアが呆れたように息を吐く。
「……レイの自制心は、いつになれば仕事に臨むのでしょうね。彼の努力が無駄になる前にブリーフィングは終わりとしましょう。……以上、解散」
 アリステアの言葉が静寂に溶ける。短い間を置いて、十人は再び、足並みを揃えて扉の向こう側に姿を消した。

 数秒の間を置いて、テニーは無意識に止めていた息を、ようやく吐き出した。背筋を張っていたことすら忘れていた。膝がわずかに緩み、石床の感触が足裏に戻ってくる。
「あれは……?」
 掠れた声でテニーが、隣に並ぶヴァートに問いかける。彼は肩をほぐすように回しながらテニーに目をやり、口角を擡げてみせた。
「これがここでの日常だ。ようこそ、ASTRALEIGHへ」
 先輩からの歓迎を受け、テニーは曖昧に笑い返すことしかできなかった。そして、彼はのちに知ることになる。

 あの少女こそが、この世界の中心であるAxisアクシスなのだと。