Codex: 03
異国の言葉を話す少女。彼女は頭上で飛び交う言葉を理解しない。誰も、教えないから。
言語が通じないということは、世界から隔離されることと同義だ。情報を与えられないままでは、滑稽な存在に貶められるだろう。無知が罪であるということを、体現するかのように。
「なんで、あの子は日本語なの」
好奇心からの質問だった。若しくは、大人たちの腹の底を探ってやろうと思ったのかもしれない。
レイに問いを投げられたサクネは冷ややかな視線を落として、いかにもつまらなそうに答える。
「犬と同じ言葉を使いたいと思うか?」
「あの子は人間だろ」
レイの後ろからアレックスが毅然とした態度で返す。普段は朗らかに笑う彼の瞳が、鋭く細められた。
サクネの物言いに、反感を抱いたのはこの二人だけではないらしい。たまたまアレックスが最初に発言しただけで、そうでなければ、他の誰かが口火を切ったことだろう。
戸惑いもあれば、嫌悪もある。中には観察に徹する者もいた。三者三様の視線を浴びながら、サクネは手に持った書類の端を指で撫でる。
「愛られているだけの存在に相応しいカテゴライズじゃないか?」
抗議を重ねようとする少年たちを制するように、サクネは掌を見せる。
「俺だってオーレリアを貶しめたいわけじゃないよ。俺が皮肉っているのはこの環境。……まあ、皮肉を説明させられるほど、無粋なこともないと思うけれどね」
彼の言葉に、誰も口を挟めなかった。
少年たちは愚かではない。ゆえに、理解はしているはずだ。この環境の異質さを。
初対面を終えてから、オーレリアは彼らの過ごす場に姿を見せるようになった。アマランスの腕に抱かれ、もしくは、サクネに手を引かれるようにして、彼女はその空間に在った。
彼女は、ただ、その場に在るだけだった。
少年たちと共に勉学に励むことも、体を動かすようなこともない。豊かな色彩を宿す双眸は鏡のように彼らを映し──それだけ。ときおり、何かを囁くアマランスに瞬きを返すことはあるが、彼女が自発的に発話することはなかった。
サクネのいう『愛玩動物』という比喩を否定するだけの材料を、少年たちは誰も持っていない。だからと、聞き流せるほど、彼らの精神は成熟していなかった。
オーレリアは人間だ。まだ年端もいかない少女だ。親の腕に抱かれて微笑むだけでも許されるような、幼い子どもであるはずだ。
「俺は、そういうの嫌だ」
率直な言葉が、レイの口から落ちる。本人も自覚していなかったのか、はっとした様子を見せたのちに、気まずそうに視線を外す。
感情を露わにするのは、恥である。幼いながらに、彼らの中に叩き込まれている価値観なのだろう。
サクネは改めて少年たちの表情を観察する。こぞって感情を隠そうとしているようだが、漏れ出ている者も多い。それがまだ子どもであるからと断じるのか、はたまた──サクネの視線が、わずかに、彼らの後ろへと向けられた。
「それなら、君たちがオーレリアを『人間』にしてやればいい。そのための学習だろう」
浅く、息を吐く。
もとより、彼らのプログラムには日本語の学習が含まれている。多国語への理解を深めることを目的としているわけではない。難なくオーレリアとの意思の疎通をするためだ。
「覚えたって、話す機会がねえじゃん」
不貞腐れたような声音は、レイの未熟さゆえだろうか。
その言葉に、サクネはわずかに首を横に傾けた。
「話しかければいいんじゃないか……?」
サクネの声が、わずかに戸惑いに揺れた。
サクネを含め、研究者たちは少年たちがオーレリアと接点を持つことを禁じた覚えはない。機会損失と言われたら否定はできないかもしれないが、それは、彼らがタイミングを掴み損ねていただけにすぎない。彼ら自身、待っているだけで、欲しいものが与えられるような環境ではなかったはずだ。
事実、オーレリアは彼らと同じ空間に身を置いていることが多い。周りにアマランスをはじめとした大人たちが常に控えているが、あくまでも、保護の観点からだ。オーレリアが実験個体とはいえど、その身体はまだ幼子のものだ。ひとりだけにするわけにもいかないだろう。
『オーレリアだって、話したいと思うよな?』
少年たちにとって、聞き慣れ始めても、理解のできない言語が紡がれる。彼らは最初、状況が理解できなかった。しかし、数秒と経たずに、サクネの視線の先が自分たちより、ずっと後ろにあることを理解する。
咄嗟に振り向けば、オーレリアがアマランスの腕に抱かれていた。大きく丸い瞳はぼんやりと室内を映し、少年たちを見ているのかどうか判然としなかった。
少年たちは、サクネに対する感情など忘れ去ったかのように、一心にオーレリアの反応を見つめていた。まるで、その一瞬さえも、逃すまいとするかのように。
やがて、彼女は重たげに頭を横に倒して、アマランスを見上げる。
『……いいの?』
『もちろんだよ、オーレリア。この世界では、君の望みが全て叶うのだから』
『それは誇張がすぎるんじゃないか、ラン』
少年たちの間を縫って、サクネが二人に歩み寄る。アマランスはオーレリアの頬を愛しげに指でなぞるばかりで、サクネの言葉など聞こえていないかのようだった。
数度、彼女が瞬いた。長い睫毛が、柔らかに光を弾く。
そうして、彼女は少年たちを見つめて、ひとつだけ、頷いた。