Codex: 05



 緊迫した訓練場の空気を破るように、歓声が上がる。視線が一斉に集まった。
 膝を着くアレックスの首に、ナイフの刃がぴたりと添えられている。赤髪の少年──ギュールズ・ラドクリフは柄を握り直し、荒い呼吸を整えながら彼を見下ろした。
 アレックスは降参するように手にしていたナイフを落とす。その間も、決してギュールズから視線を外すことはなかった。
「参った。ギュールズは強いな」
「運が良かっただけだ。お前が余所見しなければ、俺が負けていた」
「……バレたか」
 ギュールズはナイフを下ろし、反対の手をアレックスに差し出した。彼が立ち上がる手助けをしながら、気まずそうなアレックスを真っ直ぐに見据える。
 ラドクリフ家──それはレイン家に並ぶと称される軍門の名家だ。レイン家が絶対の守りを誇るなら、ラドクリフ家の攻勢は無双を謳われる。
 規律を叩き込まれた子息たちとはいえ、血気は隠しきれない。まだ少年の面影を残す彼らが、名門同士の組み手に胸を躍らせるのも無理はない。攻守を決するレイン家とラドクリフ家の子息が組み手をするともあれば、注目を浴びるのは、ある意味では必然だった。
「訓練中に余所見なんて、お前らしくない」
「悪かったって。お前の実力を軽んじていたわけじゃないんだ」
 地面に落ちたナイフを、アレックスは爪先で蹴り上げた。一度も目を向けずに手の内に戻し、苦笑いを浮かべる。
 ギュールズは片眉を吊り上げた。
 アレックスはどのような場面であろうとも、状況を軽んじることはない。例え訓練であろうとも、彼は本物の戦場に立っているかのように、真剣に場を読む男だ。
 ──真面目といえば聞こえはいいが、馬鹿正直すぎるんだよな、アレックスは。
 その男が、訓練中──しかも、ギュールズを相手にしているときに、余所見をしたのだ。余程の事情があったに違いない。ギュールズがそう受け止めたのも当然だった。
 片手でナイフを弄びながらも、追及するようなギュールズの視線は、変わらずアレックスに注がれる。アレックスは指先で軽く頬を掻いた。
「笑わないって約束してくれるか?」
「抱腹絶倒な理由を聞かせてもらえるなんて楽しみだよ、アレックス?」
「お前なあ」
 揶揄うようなギュールズに、アレックスは呆れたような声を返す。
 気持ちを切り替えるように咳払いをひとつした。
「…………あの子が、こっちを見てたから」
 ──あの子。
 その単語に、ギュールズは訓練場の隅に視線をやった。備え付けられたベンチに座り、足をぷらぷらと揺らしている少女。この場の空気には似つかわしくない、無垢な存在だ。
 ギュールズの視線が少女──オーレリアに吸い寄せられた瞬間、彼女の瞳がこちらを向いた。太陽を模した人工的な光を取り込み、わずかに煌めく。息が詰まり、指先がわずかに震えた。
「……ギュールズ?」
 呼び掛けに肩が震え、意識が引き戻された。
 ──訓練場で、俺が、意識を揺らがせた……?
 心配そうなアレックスの声に、ギュールズは理屈にならない動揺を振り払うように、静かに息を吐いた。肺いっぱいに息を吸い込んで、気付く。
 痛みが消えている。アレックスに力いっぱい蹴り飛ばされた腹の違和感が、跡形もなく姿を消していた。
 痛みには慣れている。多少の怪我であれば、日常生活にも支障をきたさない。しかし、それはあくまでも、意識せずに過ごせるというだけだ。すっかり痛みが引くわけではない。
「なあ、アレックス」
「ん?」
「……お前、どこか痛いか?」
「え? あー、そういえば、あんまり……もしかして、手加減してた?」
 アレックスは肩を回して、不思議そうに首を傾げている。
「俺が、お前相手に手加減なんかすると思うか?」
「だよな」
 アレックスが朗らかに笑う。その目の奥は笑っていない。
 アレックスの視線がギュールズではなく、別の場所──オーレリアを捉えていることにも、気付かないふりをした。