Codex: 06
本を抱えて、ベディヴィアは廊下を歩いていた。目的も、誰かとの約束があるわけでもない。気の赴くままに、歩みを進める。宛てもなく歩くというのは、家にいたころには、許されなかっただろう。
授業と訓練、マナーレッスンなどの時間割はある程度存在している。しかし、オーレリアン・セルでの生活は、これまでよりもずっと自由だった。言動を逐一観察し、律してくる大人はいない。見られてはいるが、研究員たちの目が捉えているのは、家柄でもなければ個性でもない。データだ。彼らが求めているのは、何かに対する少年たちの反応だ。身体的であれ、精神的であれ、彼らは何かを計っている。
庭園を模した空間を通りがかる。自覚としては何気なく──実際には無意識のうちに、ベディヴィアの視線が吸い寄せられた。
紛い物の月明りの下に、彼女はいた。小さな体を丸めて、屈みこんでいる。
呼吸が浅くなる。ベディヴィアは自然と、庭園に足を踏み入れていた。
「なにをしているの?」
オーレリアがベディヴィアの声に反応を示した。ゆっくりと振り向き、色素の薄い彼女の双眸がベディヴィアひとりを映し出す。瞬きをすると、淡い光を孕んで豊かな色彩が揺れた。
オーレリアは口を閉ざしたまま、ベディヴィアのことを見つめていた。見るということ以外のリアクションが、彼女から何も返ってこない。
指先に力が入り、本の背がわずかに軋んだ。声をかけるべきではなかったのかもしれない。そう思いかけて、彼は先ほど自身が発した言葉を胸中で繰り返した。
──What are you doing…… right now?
オーレリアが扱っているのは、日本語だ。彼女の周りにいる研究員たちも、それ以外の言語で話しかけている姿は見たことがない。オーレリアが英語から遠ざけられていることは薄々気がついていた。
オーレリアはもしかしたら、英語に対する知識が一切ないのかもしれない。
『あ、……えっと、なに、してる?』
教わったばかりの日本語で、たどたどしく問いかける。すると、オーレリアは一度大きく目を丸めた。
『おだんご。……いっしょに、する?』
ベディヴィアにだけ向けられた言葉だ。
オーレリアは足元に視線を落とし、小さな両手をベディヴィアに広げて見せた。透き通るように真っ白い手を、泥が汚している。
オーレリアの手を見てから、視線の軌跡を辿るようにして、彼女の足元を見下ろした。少しだけぬかるんだ土と、そのそばに丸められた土の塊が数個並んでいる。
断るべきかどうか──悩んだのは、数秒にも満たなかった。本を膝上に置くように、オーレリアのとなりに屈む。
『……ぼく、も……』
不慣れな言語で意思を伝えようと言葉を探す。
不意に、オーレリアが泥だらけの手をスカートの裾で拭った。躊躇いのない所作にベディヴィアが驚いた、その瞬間にも、伸ばされた両手が彼の頬を優しく挟んだ。
指先の温もりに、息が止まった。
真正面から視線が交わる。月の色を映したかのようなオーレリアの瞳に、甘い蜂蜜色が重なる。有彩色のきらめきを宿す双眸は、宝石のようだった。
『……きれい』
するりと、口から言葉がこぼれ落ちた。
ベディヴィアの声に反応するかのように、オーレリアは静かにひとつ瞬いた。
ベディヴィアがオーレリアに目を奪われていたのは、数秒にも満たなかった。もし、彼が違和感に気付かなければ、我に返るのが遅れていたのかもしれない。
しかし、ベディヴィアは彼女に意識を奪われながらも、自身が零した言葉を無意識のうちに反芻していた。
だから、気付いてしまった。自分がまるで、オーレリアに合わせるかのように言葉を選んでいたことを。
違う。異質なのは、そこではない。
ベディヴィアの母語は英語だ。日本語は学び始めたばかりで、知っている単語は限られており、日常で扱われる基礎的な言葉しかまだ教わっていない。それなのに、彼はオーレリアを褒めた。彼女の、母語で。
まだ、知らないはずの言葉で。
『君は、いったい──』
続きは告げずに、ベディヴィアは言葉を飲み込んだ。代わりに、胸中で呟いた。
──何者なんだろうね。
口にできなかったのは、ベディヴィアも知っていたからだ。
オーレリアが、その答えを知っているはずがないと。