Codex: 08



 冷たい無機質な白い廊下を抜けた先に、その部屋はあった。革張りのソファ、分厚い絨毯、木製の大机――すべてが調和し、上質な空間を演出している。だが不思議なことに、灰皿には煙草の灰ひとつなく、机の上の書類も一枚として手を触れられた跡がない。
 ユリシスとアマランスは、向かい合うようにしてソファに座っていた。
「今、なんと?」
 重厚な空気の中、ユリシスは怪訝そうに眉を顰めた。
 対してアマランスは、にこやかな表情を崩さずに、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「君には、オーレリアの兄になってもらうことにしたんだ」
 予告でも、確認でもない、断定。そこに、ユリシスの意思など介在する隙はない。
 眉の皺を戻した瞬間には、もう無表情の仮面を被っていた。
「──ああ、最終個体オーレリアなんて標識じゃ味気ないか」
 ユリシスが口を閉ざしている理由を、アマランスは身勝手に解釈する。口元に指先を添え、思案げにぶつぶつと呟いている。
 否定をする気は、起こらなかった。何を言っても無駄であることを、ユリシスは本能的に理解する。幼いながらもグレイヴァベルの嫡男として、あらゆる教育を施された身だ。眼前の男の言動から、汲み取れる情報も少なくない。
 この場において、ユリシスに拒否権は存在しない。どれだけ論理や理屈を並び立てようとも、この男には通用しないだろう。ユリシスにできることは、観察しかなかった。
「もっと素敵な名前をつけてあげたいよね。オーレリアもとっても素敵な響きだと思うけれど、オーレリア・グレイヴァベルだと、彼女の愛らしさを表すには少し厳かすぎるし……」
 ユリシスにとって、名前は交渉の武器であり、血統の証明だ。上流階級に身を置く人間であれば、誰もが等しく持つ共通の認識であるはずだ。
 だが、アマランスにとっては、名前など文字列でしかないのだろう。口の中で複数の言葉を転がす姿は、玩具を選ぶ子どもそのものだった。
「あなたには、家名の重さがわからないのか?」
 それは、幼いながらも抱く、矜持による問いかけだった。ユリシスは静かに、空気にメスを刺し入れるように、言葉を重ねる。
「軽々しく、扱うべきものではない。あなたの名だって、同じだろう」
 わずかな期待さえも、あったのかもしれない。同じ立場に属する人間であれば、理解のされる発言であると。
 理解が示されるのであれば、ユリシスの論理が通じる。
 そう期待して──あえなく、打ち砕かれる。
「君、まだ子どもなのに、そんな古くさいことを考えているの? 確かに、貴族社会において名前は重要だし、この先、君たちの家名は意味を持つ。だからこそ、俺はある程度、家柄が担保された子どもたちを集めたわけで──でも、それが何?」
 ユリシスの瞳が、ごくわずかに細められる。
「あくまでも、それは外的に必要な要因であって、内的には取るに足らないものだよ。この場──オーレリアン・セルにおける秩序は、オーレリアしか持ち得ない」
 冷ややかな言葉の羅列に、ユリシスは思わず息を呑んだ。
 そこにいたのは無邪気な研究者ではなく、冷徹な信者だった。
「だからこそ、もっと愛らしい響きの名前をつけてあげたいんだ」
 アマランスは子どものように微笑んだ。気を取りなおすように。先ほどの出来事など、錯覚であったかのように。
 膝上においたユリシスの手に、無意識に力が籠る。背筋の冷えた心地さえも隠し、表情を変えずに見つめ返した。
「──どのような、名前に?」
 淡々と、続きを促す。
「そうだな」
 アマランスは指先で唇をなぞるように思案し、不意に瞳を輝かせた。
「『M.I.R.A.』──ミラ・グレイヴァベル。プロジェクトの象徴であり、世界の中心に据えられる彼女に相応しい名前だと思わないかい?」
 形ばかりの問いかけに、返答は期待されていない。アマランスの視線は確かにユリシスへと向けられているはずなのに、その奥には、別の幻像だけが宿っている。
 彼の眼差しが捉えているのは、オーレリア──ミラ・グレイヴァベルと名付けられた偶像だけだった。