Codex: 09



 オーレリア──改め、ミラと名付けられた少女は、静かに瞬きを繰り返した。
 彼女の前には一人の少年が立っている。名をユリシス・グレイヴァベル。今し方、アマランスに『兄』だと紹介された少年だ。
『オーレリアも、家族がいなくて寂しかったでしょ? 今から、彼が君のお兄さんになってくれるからね』
 観察するような視線が、ユリシスから注がれる。
「彼女が言葉を持たないままなら、こちらの呼びかけはただの音でしかないのでは?」
「君が彼女に言葉を合わせるんだよ」
 何かを、二人が話している。具体的に、彼らが話している内容まではわからない。
 アマランスとユリシスの扱っている言語が『英語』と呼ばれること。不思議そうなアマランスとどこか納得がいっていないようなユリシスの声音。ミラにわかるのは、それくらいだ。
 頭上で交わされる知らない音律の交差に、ミラは小さく欠伸を噛み殺す。
『……ん、んん……おにーさま?』
 兄とは、そう呼ぶものだと何かの書物に書いてあった──ような気がする。もしくは、誰かが読み聞かせてくれたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
 そのどちらでも、構わなかった。ミラにとっては、どうでもいいことだ。
 するりと、ミラの両腕がユリシスの首に絡む。弱い力で引かれ、彼は自然と身を屈めた。
 至近距離で、視線が交わった。
 数秒の瞬きの間さえ許さず、ユリシスの唇に柔らかな熱が伝わる。驚きに目が丸まり、反射的にミラの体を突き飛ばそうとして──意思に反し、その腕が彼女の腰に回る。隙間さえ埋めるように抱き寄せ、確かめるように子どもの無邪気な温もりに触れる。
 ユリシスの口から、淡い吐息がこぼれ落ちた。外交の家系として鍛えた理性が、一瞬の熱に溶かされたのを彼自身が自覚する。生涯で初めて、理性が役に立たない瞬間に直面した。
『ん、おにーさま。これで、わたしのことば、わかる?』
 無垢な声音が、彼の鼓膜をなぞる。耳馴染みのない言語が、彼の脳裏に染み渡っていく。
 ユリシスの戸惑いなど、ミラは気付かない。
『──兄妹で、キスはしないよ』
 余韻を残して桃色に色付くミラの頬を、ユリシスの指先が確かめるように撫でた。
『そうなの? あにと、いもうもは、したしいひとでしょ? ごほんで、読んだよ』
 不思議そうにミラが首を傾けた。
 キスはミラにとって親愛表現だ。兄妹──家族というものは、親しい間柄である。彼女にとって、ユリシスの指摘は、理解の及ばないものだった。
 ユリシスの視線が、ミラから外された。その先には、黙ってこちらを観察するアマランスが立っている。
「……教育方針に、少し歪みがあるようだな」
「オーレリアの自主性を重んじていただけだよ。それに、接触によって言語の理解に影響を及ぼすなんて、俺は教えてない。彼女の意思だ」
『……おにーさま?』
 ミラに袖口を引かれ、ユリシスは自然な動作で彼女を抱き上げた。抵抗することなく、ミラはユリシスに体重を預ける。
『兄妹のキスは、こういうものだ』
 せめてもの矜持を守るように──教えるように、それはどこか、愛情を滲ませて静かに、ユリシスはミラの額に唇を寄せる。
 物足りなさそうに瞬き、ミラはユリシスを真似て頬に唇を押し当てた。
『──こう?』
『ああ、そうだ。いい子だな、ミラ』
 ミラは満足げに目を細めた。その様子を、アマランスが静かに観察していた。

    §

 腕の中に小さな温もりを抱き留めながら、ユリシスは違和感の正体を探る。
 突然、兄だと紹介された自分を受け入れるオーレリア。キス──接触をすることで、言語に対する理解力が鮮明に高まる現象。
 ユリシスはオーレリアの言語を理解し、扱えるに至ったというのに、彼女自身はユリシスの言語を理解しない。つまり、この橋渡しは一方通行に行われている。
 もしくは、能動者に起因するのか。だとするのならば、ユリシスから彼女に口付けを贈れば、あるいは──
 無垢にこちらを見上げる妹を見る。
 理性は知りたがっていた。だが、兄としての矜持が、それを拒んだ。たった今、突如として与えられただけの、兄としての立場が。
「──いや、君は、知るべきじゃないのかもしれないな」
 知らない言語を扱う兄にも、ミラは柔らかな眼差しを返した。