Codex: 11



 図書室では数人の少年たちが自主学習に励んでいた。四人掛けの机をひとりで占有している者もいれば、数人で隣り合っている者もいる。セオドアもそんな少年たちのうちのひとりだった。
 整然としているが、セオドアの周りには何冊も参考書が積み重なっていた。机に広げられたルーズリーフにペン先を走らせ、ときおり、手元の本に視線を落とす。
 紙の擦れる音だけが静かに響く。静謐な空間の中にも、異様な空気を纏う一角があった。
 次の本を手に取ろうと顔をあげて、セオドアの視線がその空間に引き寄せられる。
 アージェント・ノクテスとオー・ニュイドール、ユリシス・グレイヴァベルの三人がひとつの机を囲んでいる。
「この図書室、本当になんでもあるな」
「蒐集を目的とした書庫だったんじゃないかな。学習スペースはどう見ても急ごしらえだし……」
 彼らは声を潜めてはいるようだが、静けさの中では異様に響き、セオドアの耳まで会話が届く。三人の机の上には、厚さの薄い本が数冊、並んでいた。ここからでは遠く、彼らの持ち寄ったそれらがどういった内容の本かはわからない。それでも、彼らが手に取る本としては物珍しく感じ、思わず視線を注いでしまう。
 ふいに、ユリシスの影から小さな手が本に向けて伸びた。三人はその仕草を制することなく、見守っている。
 その影が誰かなんて、考えるまでもなく答えは明白だ。ミラ・グレイヴァベル以外にあり得ない。数日前、アマランスから唐突に、ユリシスの妹という立場と共に名前を与えられた最終個体オーレリア
 直接、セオドアが彼女と会話をしたことはない。以前はアマランスが、今ではユリシスが常にミラの傍についており、話しかける機会がなかった。
 興味がないというわけではない。機会がないというのは言い訳だ。彼女と関わることを制限されているわけではないと理解している。声をかけようと動く少年たちの姿も、幾度となく見かけたことがある。
 ──せめて、もう少し……言葉も通じないまま話しかけるのは、あまりにも無作法だ。
 誰かがミラに話しかける姿を見かけるたびに、胸中で何度も言い訳を重ねた。言語の違いが現実の壁として、セオドアの前に立ちはだかっていた。
 勇気が出なかった──そう称するのが、セオドアの心理を表す言葉として、もっとも適切かもしれない。
 ユリシスの向かいに座るアージェントの目が、唐突にセオドアを捉えた。交わる視線に、セオドアの肩が小さく跳ねる。不躾に見過ぎてしまったことを内心で反省しつつ、せめてもの礼儀とばかりに小さくうなずく。すぐに視線を紙面へと戻し、胸の奥のざわめきを隠した。
 緊張をしているせいか、椅子を引く音がやけに大きく聞こえる。こちらに近付いてくる足音と気配が迫るような感覚に、ペンを持つ指先に力が籠る。
 叱責を覚悟して、小さく深呼吸をする。
『こんにちは!』
 セオドアの耳に届いたのは、予想を裏切り、鈴を転がすような甘やかな声だった。
 自分に向けられた言葉だと理解するのに、少しだけ時間がかかった。ゆっくりと顔を上げると、ユリシスの腕に抱かれたミラがセオドアを見下ろしていた。
『ミラ、図書室では静かに。大きな声を出してはいけない』
『……ごめんなさい』
 ユリシスとミラがどのような会話をしているのか、セオドアにはわからなかった。断片的な単語こそ拾えるが、文章として理解するには、知識が足りていない。その歯がゆさに、わずかに視線が泳ぐ。
 ミラに注がれていたはずのユリシスの眼差しが、一瞬だけセオドアに向けられる。
『あなた、おなまえは?』
 無理に、ミラが視線を合わせようとしてくることはなかった。彼女の声はどこまでも柔らかく、そして、蕩けるような甘さを孕んでいた。
 彼女から発せられた言葉を、自分の中でゆっくりと咀嚼して理解する。
『……テオ』
 慣れているはずの自己紹介も、言語が違うというだけで、こんなにも難しい。口の中が渇き、上手く発音できたのかもわからなかった。
『テオ! ……!』
 ミラがセオドアの名前を口の中で転がす。そして、すぐにはっとした様子で両手で口元を抑えた。先ほど、ユリシスに声量を注意されたことを思い出したのだろう。おずおずといった様子でユリシスを窺うミラの仕草は、どこにでもいる少女のように見えた。
 叱られるのを待つ子どものような目を向けられ、ユリシスは浅く息を吐き出す。吐息交じりの低い声で「怒っていないよ」と告げると、ミラは安堵したように手を外した。
『テオ、あのね。……ん、と……』
 伸ばされたミラの指先が、セオドアの額にそっと触れる。普段であれば振り払うか、そうでなくても身を固くするような無遠慮な接触にもセオドアは反応することができない。否──拒絶しようという考えが、微塵も浮かばなかった。指先の温もりが柔らかく、セオドアに伝わっていく。
 自身の中に生まれる違和感に思考が奪われそうになり、ミラの声が現実に引き戻す。正確に表現するのであれば、それ以上の衝撃を、セオドアを襲った。
『おにーさまが、えほん、よんでくれるの。いっしょに、ね』
 無邪気な声音でミラが告げる。その言葉を、セオドアはすんなりと受け取っていた。あり得ないという否定が思考の隅に生まれる。しかし、現実のセオドアは、彼女の誘いに頷き返すので、精いっぱいだった。
 つい数分前まで理解に手間取っていた言語に、もう、戸惑うことはなかった。