Safely Lgnored
甘い匂いがする。バターの香りが空気に溶け、小麦の焼けた香ばしさが奥行きを添えている。
どうやら、その匂いは給湯室から漂っているらしい。
給湯室と名付けられているだけで、もはや、ここは簡易キッチンだ。ガーランドの面々がティータイムをするために、設えたらしい。給湯室という名目である以上、一般職員の使用も許可されている。そうは言われても、職員からすると、気軽には使いにくいというのが正直なところだ。
匂いに誘われるように、ヴァートは給湯室を覗き込んだ。
柔らかな金色の髪をした青年が、エプロンをつけて作業台の前に立っている。彼の丁寧な性格を表すように、袖口はきっちりと折り返されている。
オーブンの中に、何かがある。熱を帯びた橙色の光の中に、数個の塊が等間隔に並べられている。きっと、あれが匂いの正体だ。
ケトルで湯を沸かす傍ら、青年──セオドア・ブラックレイは計量スプーンを手に持つ。きっちりと計ってポットに入れる姿を眺め、思わず感嘆の息を吐いてしまう。
ヴァートも紅茶に対し、それなりの拘りがある方だとは思っているが、そこまで几帳面に支度はしない。精々、茶葉や湯の温度、蒸らし時間を少し意識する程度だ。そこまでするなら、計量をしても同じじゃないかと誰かに言われるかもしれない。
言わんとすることはヴァートも理解する。しかし、そのひと手間がヴァートには面倒なのだ。
「……用があるなら、入ってきていいよ」
視界が翳るのと、頭上から声が降ってくるのは、ほぼ同時だった。
気配がしなかった。いつの間にか、セオドアがヴァートの正面に立っている。静かな眼差しで見つめられ、ヴァートの背筋が伸びる。
ガーランドの中でも、セオドアの纏う雰囲気は柔らかい方だ。それでも、彼の纏う空気に滲む、わずかな圧が消えるわけではない。
「盗み見をするような真似をして申し訳ございません」
「気にしなくていい。ここにいるのは、僕だけだから」
セオドアの言葉に含まれた意図に気付き、喉が鳴った。
この場にいるのが、彼だけではなかったら──もし、この場にミラがいたら。様子を窺い続ける猶予など、与えられなかったのだろう。
「ありがとうございます」
言葉が少し硬くなってしまったような気がする。セオドアもヴァートの声質に気付いていないはずがない。しかし、彼はヴァートに再度視線を向けてくるだけで、なにも言わずに部屋の奥へ戻って行く。
浅く息を吐き出し、ヴァートは自分が緊張していたことに気付く。思わず苦笑してしまったのは、新人の緊張を笑い飛ばした自分を思い出したからだ。
偉そうなことを言っておいて、自分もガーランドを前にすると身を固めてしまう。アストラレイの一員となって、数年経つというのに情けない。
ガーランドと対面して、緊張しない職員なんているのだろうか。いたとしても、彼らの秘書や直属の部下といわれている数名くらいじゃないのか。その数名が彼らの空気に圧されないのだって、アストラレイ創設時からのメンバーだったというのが理由だと噂されている。
ポットから立ち上る湯気とともに、柑橘を帯びた紅茶の香りが混ざり、室内の甘い空気と静かに溶け合った。
創設時というのが、具体的に何年前のことを示しているのかはわからない。思えば、この組織がいつからあるのかも、ヴァートは知らない。
秘匿性の高さは、この組織の在り方そのものだ。内部の人間でさえ踏み込めない領域があり、設立時の経緯は機密情報として厳重に封じられている。興味本位で近づけば、痛い目を見るのが関の山だ。
軽やかな金属音がひとつ、室内に弾んだ。思考の海に沈んでいたヴァートの意識が、現実に引き戻される。
先ほどまで室内に漂っていた紅茶の爽やかさを押しのけるように、濃密な甘い香りが鼻孔いっぱいに広がった。鮮明になった視線の先で、セオドアがオーブンの扉を開けたのが見える。
この場にミラが来るのか、はたまた、ティーセットを手にセオドアが執務室へ向かうのかはわからない。どちらにせよ、いつまでもここにいるべきじゃない。
ヴァートは少し足早に、その場を後にした。