Merely Ink and Paper



 無音の会議室。中央の長机を挟んで、ルシアンは背凭れに深く身を預け、視線だけで資料の束を追っていた。机の端には、アリステアが持ち込んだ戦略図が整然と並んでいる。
「第三案を選ぶのであれば、経済的な負担は軽くなります。ただ、その代償として、東側の供給網は少々……風に揺れやすくなりますが」
 あくまでも穏やかな口調でアリステアが告げる。彼はペン先で地図をなぞり、短い沈黙を挟んだ。
「……あなたは、どう思いますか? ルシアン」
 視線がルシアンへと向けられる。
 ルシアンは即答せず、わずかに眉を寄せて図面を見つめる。
「脆弱性は許容の範疇でしょう。ですが、東側の外交カードを一枚潰すことになります。……それは、この局面では惜しい」
 低く落ち着いた声。机上の地図に触れず、ただ静かに結論を告げる。
 アリステアは小さく息をつき、別の案を引き出した。
「なら、第四案を主軸に。資源調整は私が引き受けましょう。あなたが余計な火種を拾わずに済むように」
「……外交線は私が。相手が誰であれ、動かせるのは私でしょうから」
「交渉なら俺が出た方がいいんじゃないか?」
 会議室の扉が開き、軽やかな声音が静謐な空気を緩くかき混ぜる。アリステアの視線だけが声の主──リアム・ヴィスカーを捉えた。
 リアムは笑みを含ませながら扉を閉め、ゆったりと歩み寄る。
「二人とも堅すぎる。……相手が東側なら、机上の理屈より、まず懐に入った方が早いだろ?」
 軽く笑いながら、リアムが椅子を引く。机上の書類を一瞥し、何かを測るように二人の顔を見た。
「お言葉ですが、リアム。あなたは現在、別件の案件も抱えていましたよね。……そろそろ陽の目を見る頃合いでしょうか。それとも……まだ温室の中ですか?」
 アリステアの言葉に、リアムはわずかに片眉を上げた。
「温室育ちでも、出すタイミングを間違えれば枯れる。……だから、まだ水やりの最中ってことにしておいてくれ」
 リアムは口元に笑みを残したまま、書類の端を指で軽く叩く。
「……そういうことにしておきましょう」
 黙って聞いていたルシアンが口を開く。視線は書類から逸らさず、淡々とした声音には、わずかな皮肉が滲んでいた。
 会話を途絶えさせるようなルシアンの言葉に、アリステアとリアムは顔を上げ──視線が入口に向く。その数秒後。重たげな音と共に、扉が開いた。
 ふわりと、柔らかな髪が揺れる。甘いミルクティー色の髪が、光を浴びて白銀のきらめきを散らす。
「ミラ」
 名前を呼んだのは、誰だったのか。三人が同時に席を立ち、張り詰めた空気が緩んだ。静謐な世界に、音が弾む。
「……お仕事中だった?」
「いいや、仕事はもう終わりだ」
 歩み寄りながら腕を伸ばし、いち早くリアムがミラをその腕に抱き上げる。指先で前髪を避けるように撫で、露わになる額に唇を寄せた。視線だけを、一歩出遅れたルシアンとアリステアに流す。
 先を越されたことに、少しの悔しさを滲ませる。それも、瞬きをする一瞬の間に、穏やかな表情に隠された。
 リアムの背中越し、ミラがルシアンとアリステアを見る。
 ふと首をかしげ、瞳の奥をわずかに揺らす。その色が問いかける──ほんとうに終わったの、と。
 彼女が口にするまでもなく、彼らは意図を汲み取って口元に笑みを乗せる。ルシアンは穏やかな笑みを。アリステアは少し意地の悪い、それでいて、愛しさを隠せない笑みを。
「……あなた以上に優先することなどありません」
「次は、リアムよりも先に俺の腕に抱かれに来てほしいものだけれどね」
 緩やかに瞬くミラの睫毛が、電灯の無機質な光を弾く。次いで、花開く彼女の笑みに、机上の資料はただの紙でしかなくなった。