深い理由があったわけではない。
蛍の兄弟なのだから、それは瑚々にとっても『大切なもの』だ。『家族』というのは、そういうものなのだろう。それくらい、常識がないと言われている瑚々だって理解している。血は水よりも濃いというじゃないか。蛍に渡された『辞書』という読み物にだって書いてあった。
事実として、蛍と
瑚々とて、それに気付いていないわけではない。蛍と竜が、少なくとも仲良しではないということは、見ていればわかる。人の胸の内など見えないが、察する能力がないわけではない。人間観察ができない殺し屋など、いないだろう。
しかし、それがどうしたというのか。
蛍と竜の仲が悪い。それが、瑚々になんの関係があるというのか。何も、二人に仲良くしろだなんて説教じみたことを言うつもりはない。蛍の人生も、竜の人生も、言ってしまえば、瑚々にはなにひとつとして関係ない。
そのうえで。それを理解したうえで、瑚々は竜と一方的に仲良くすることにしていた。
もし、彼の心中を言葉として表すのであれば、兄弟というものに対する憧れが――ひいては、家族に対する憧憬が、彼の中にたったの一欠けらでも残っていたということになるのかもしれない。
❖
「竜サン!」
薄暗い路地裏に、瑚々の弾んだ声が響く。その場にいた視線が一斉に瑚々に向き、流れるように名前を呼ばれた男――竜に注がれた。
ライブハウスの裏口のある路地だ。出待ちのようなことをする瑚々を咎める人間は、この場にはいない。
誰も口を開かない中、軽い足取りで瑚々は竜に歩み寄る。
「お疲れさま〜。今日もかっこよかったね」
含みのない、真っ直ぐな褒め言葉がその口から吐き出される。竜は片眉を吊り上げて、口の中で悪態を転がし、音にはせずに飲み込んだ。
帰り支度を済ませていたバンドメンバーは、瑚々の称賛に顔を見合わせる。照れくさそうに笑う者もいれば、茶化すように軽口を投げかける者もいる。どのような反応であっても、瑚々という存在を疎ましく思っている者はいなかった。彼らは瑚々には好意的な、竜には事務的な言葉を残して、その場を離れていく。
メンバーである竜よりも、瑚々に対する対応の方が友好的なのはどうなんだ。そんなことを内心で思ってしまったのは、調子が狂わされている証拠なのかもしれない。忌々しそうに舌を打ち鳴らす。
「……おまえ、兄貴はいいのかよ」
蛍は瑚々と竜が関わることに対して否定的だ。こうして彼がここにいることから禁じてこそいないのだろうが、いい顔をしないだろうということは、容易に想像できる。
そのことを、瑚々は気付いていないのだろうか。蛍の表情から、声から滲む、小馬鹿にしたような色を。
意味もなく指を擦り合わせて、隠すようにポケットに突っ込む。
瑚々は緩く瞬きをしてから、軽やかに笑った。
「ちゃんと竜サンのライブ行ってくるって言ってあるよ」
――そうじゃねえよ。兄貴がおまえを心配するかどうかなんて、俺には関係ない。そうじゃなくて。
頭の中にはいくつも言葉が浮かぶのに、なぜか、口にする気になれない。瑚々の含みのない視線が苦手だった。建前や世辞、端々に滲む媚びのない言葉が、竜の調子を狂わせる。
「あっそ」
言葉を探して、竜が告げられたのは素っ気ない一言だった。それにも、瑚々は気にする素振りひとつ見せない。
「帰ろ。家まで送ってあげる」
「要らねえよ」
「えー……だめ? ね、いいでしょ?」
するりと、瑚々の腕が竜の腕に絡められた。竜は振り払おうとして――顔を覗き込む瑚々と目が合った。
断る気が失せ、代わり帰路に向けて歩き出す。
「兄貴に見られても知らねえぞ」
苦し紛れに吐き捨てた言葉にも、瑚々はきょとんとして、ただおかしそうに笑うだけだった。