風が吹く。ネモの長い髪を、優しく揺らす。頬を撫でる風の冷たさに眉を寄せ、ナナは視線を眼前へ放った。
月の明かりがわずかに届くだけの海辺で、ネモは素足を海水に浸している。深夜に海に行くなどと正気の沙汰じゃない。海難事故に遭ったらどうするんだと苦言を呈しても、彼は「君がいるんだから、大丈夫だろ?」とまともに取り合ってくれなかった。
少し離れた場所にいるのは、濡れるのが嫌だったわけではない。海が怖いなどと生温いことを言うつもりもない。 ただなんとなく、海に向かって砂浜を歩くネモの後を追うことができなかったのだ。
海と空の境目のない真っ黒い空間を前に、ネモが立っている。写真やテレビで観るような青い海の方が、彼には似合うだろうに。頭の隅っこで、そんなことを思う。日頃の騒がしさなど嘘のように、その場は静寂に包まれていた。
彼がなにを思って海に行こうなどと言い出したのか、ナナにはわからない。理由は聞かなかった。聞いたら答えてくれるのかもしれないが、どうしてか、聞く気になれなかった。
「すべての命は海から始まったというのはよくある定説ではあるけれど、だとするのなら、俺も海からはじまったと思う?」
波が寄る。引く。ネモの足を濡らす。風が吹く。
「それを俺に聞いて、お前はどうするんだ?」
「興味だよ。好奇心と言い換えたっていい。君は、俺をどう定義しているのかと思ってね」
一歩、足を前に踏み出す。僅かに足が埋もれ、靴の隙間から砂が入り込んだ。不快感に眉が寄る。暗くてこちらの表情など見えるはずもないのに、ネモは見ているかのように、静かに笑った。
「お前がお前であれば、俺はそれで構わない。他に、何か必要か?」
手を伸ばすと、ナナが思っているよりも容易に、ネモの手首を捉えることができる。確かに感じる質量に、無意識のまま、息が漏れ出した。掴んだ腕を引き寄せれば、彼の身体はいとも簡単にナナの胸に倒れ込んだ。
「何を、……考えているんだ」
言葉を探し、口の中で転がして、吐息に交じって漸く問いかけた。
ほんの少しだけ低い位置にあるネモの双眸が擡げられる。左右で異なる色彩を持つふたつの瞳が、ガラス玉のようにナナを映し出した。
「君は言葉を選ぶのが下手だね、ナナ」
はぐらかすようにネモが笑った。喉の奥で笑声を殺し、彼の細い指先がナナの首筋に触れ、鎖骨を撫で、胸板に手のひらが振れ――拒むように、小さな力を加えられる。
身体が強張った。息が、上手くできない。視界が、歪む。手首を捉えたままの指先に力が籠り、それを寸で押し留める。頭からの命令を、信号を、拒絶しようとする体に無理やり従わせ、ナナは一歩だけネモから身を離した。
時間にして、ほんの数秒の出来事だ。その数秒の隙間を、ネモが愉快そうにわらう。
「君は愚かしいほどの従順だ。それで、自分の身を守ることができるのかい?」
「俺、は……お前がいれば、それで……」
それだけを望んでいる。それだけを求めている。それだけを、信じている。
行き場の失った手が空間をさ迷い、力なく垂れる。
ナナの心情を知ってか知らずか。否、知っても尚、彼はただわらっていた。
「うそつき」
優しい声で、彼がいう。ネモの指先が、そっとナナの手を取った。
彼のぬくもりに、はじめて、自分が熱を失っていたことに気がついた。