「私、成海なるみさんが好きですよ」
 ピアノの音が響く空間に、ぽつりと私の声が落ちる。はっとして顔を上げると、カトラリーを持つ成海の手が止まり、呆けたような表情で私を見つめていた。
 しまったと思ったときには既に遅く、すべての音が遠のいていくようだった。そういえば、成海と出会ったときも、そんなだったなと、現実逃避をする脳が勝手に過去を思い出す。
 躓いて、成海のスーツにシャンパンをかけてしまったのが、私と成海の出会いだった。企業のお偉いさんが大勢来るパーティなのだから粗相のないようにと散々言われていたのに、これである。相手が成海だったのはある意味、幸運だったのかもしれない。成海以外の人であったなら、職を失っていたかもしれない。それとも、ある程度、お金があって余裕がある人は、寛大なんだろうか。
『このスーツ、幾らすると思いますか?』
 血の気が引く私に、成海はそう言って笑った。脅されているのかと思って慌てていたら、「冗談ですよ」と続けて少しだけ困った様子を見せたことを覚えている。今にして思えば、あのころから成海は不器用な人だった。
 デートの誘い方も、褒め方も。自分が好きなものを伝えることでさえ、下手くそな人だった。
 自分で決めることはもちろん、選ぶことでさえ躊躇ってしまう彼のことを、愛しいと思うようになったのはいつだっただろう。明確なきっかけがあったわけではないように思う。
 ただ、この人の傍にいたいと思った。彼が笑ってくれる瞬間が好きだった。傲慢で、不遜な態度でさえ、愛しいと思った。自分を大事にすることが下手な彼が、ほんの少しでも、安らげる時間を与えたいと。そんなことを、願っていた。
 忘れてくださいだとか、気にしないでくださいだとか、そんな言葉を言ったらいいのだろうか。沈黙が耐えられなくて、誤魔化すようにワイングラスに手を伸ばす。ここがファミレスみたいに騒がしければ、聞き間違えじゃないですかって笑ってなかったことにできたかもしれないのに。高級レストランでは談笑する声が聞こえても、笑い声すら上品で、声をかき消してくれるようなことはない。
 ステムに触れた指先が、阻むように掴まれる。無意識に逸らしていた視線を戻すと、成海が真っ直ぐに私を見つめていた。
「よろしくお願いします」
 絞り出すような声だった。喉の奥から押し出すような、彼の柔らかい声を、数拍遅れて理解する。その意味を飲み込むのに時間をかけていたら、現実であることを教えるかのように、強く手を握られた。
「いいんですか?」
「何度も、僕に同じことを言わせないでいただけますか?」
 どこから恨めしそうな目を向けられて、困ってしまう。素っ気ない言葉を使うくせに、私の手を握る成海の手は、熱かった。

 あの日、成海は私に告白しようとしてたんだよね。それを、私が先を越しちゃったから、すべて計画が壊れちゃって。だから、成海は頑なに「僕が先だったんですよ」と言って譲ってくれない。どちらが先かなんて些末な問題だと思うけれど、子どもみたいなことを言う成海が可愛くて、私はいつだって「そうだね」と笑って。それで。
 プロポーズも、成海の計画を駄目にしちゃったんだっけ。でも、あなたがそうしようと思った日に同じことを言っていたんだから、私たちの相性はよかったんじゃないかな。
 ねえ、成海。
 
 あなたは、どう思う?

 ゆっくりと、目を開く。どうやら、私はまだ、死ねていないらしい。
 ――長い夢を、見ていた。
 全てを焼き尽くすような赤い色を視界の中に収め、崩れ落ちる瓦礫の音が響く世界で、ぼんやりとそんなことを思う。
 もし、本当に、これが長い夢であればよかったのに。成海の言うとおりに目を覚ましたら未来に戻っていて、となりには成海がいて、思い描いていた幸せが続いていたらどれだけよかっただろう。
 どれだけ渇望しても、現実は残酷だ。私はこの場で燃え尽きるか、二酸化炭素中毒になるか、瓦礫に潰されるか、はたまた、ティンダロスの猟犬に食い殺されるだろう。死ぬことが怖いとは思っていない。そう思うだけの、正常な精神はもう残っていない。
 成海はもう、外に逃げられただろうか。
 私を好きだと言ってくれたあの子は、この先、どのような人生を歩んでいくのだろう。私というイレギュラーを知ってしまった彼の人生は、少しでも、幸せになってくれるだろうか。
 あなたが愛してくれた時間を、あなたが私にくれた愛情を、ほんの一欠けらでも、成海に渡してあげることはできたのだろうか。
 この先も、成海はたくさんの辛い経験をするのかもしれない。彼は私のために、お父様と違えてでも、私との人生を選んでくれたけれど。今の成海にも、そう思えるような出会いが、あるだろうか。
 その相手が『私』であればいいというのは、都合の良すぎる願いだろう。けれど、もし、そうであるのなら、きっと私は成海を愛するのだろう。
 私よりも年上の癖に、少しだけ子どもみたいで。甘いものが好きで。食べることが、実は、好きで。自分で言った言葉に落ち込んで、ほんの少しだけ世間知らずで。だけど、誰よりも一生懸命で、優しい、いとしい人。
 彼のこの先の人生が、どうか、……どうか。成海にとって優しく、温かいものでありますように。
 そんなことを思って、私は今度こそ目を閉じた。目を覚ましたら、そのとなりに、成海がいることを信じて。

 私、たくさん頑張ったのよ。だから、だからね。
 少しは、私も褒めてもらえるかな。それとも、『あなた』も私を馬鹿だなって笑うのかしら。