ドアの隙間から漂う甘ったるい香りに、微睡んでいた意識が鮮明に色付いていく。重たい身体を起こして、上着を肩に引っ掛けて寝室を出た。
「おはよう、成海」
 エプロンを身につけた霞花が、成海の気配に気付いて振り向いた。窓から射し込む朝の日差しの中で微笑む彼女の姿を、可愛らしいと思ってしまうのは、恋人の欲目だろうか。無意識のうちに口元が緩む。
「おはようございます。早いですね。休みの日くらい、もう少し寝ていても構わないのに」
「たまたま目が覚めちゃっただけよ。ね、今日の朝ごはんは、どっちがいい?」
 霞花が視線で示した先には、ベーコンや野菜と共にフルーツが並んでいた。どうやら、この甘い香りはパンケーキのものらしい。
 朝食であれば、ベーコンなどと共に食べるのがいいだろう。しかし、せっかくの休みであれば、贅沢をしてもいいのではないだろうか。
 ――食事ひとつ選ぶことを、『贅沢』だなんて思うようになるとは。
 実家であれば、成海が何かを考えるまでもなく、完璧な朝食がテーブルに並んでいた。裏返せば、成海に選ぶ隙なんてものは存在しなかった。決められた食卓。会話もなく粛々と時間が進み、それはどこか、作業めいたような時間だった。
 成海が過去をなぞっている間も、次々とパンケーキが焼かれて皿の上に重ねられていく。大きさも形も均等ではなく、焼きめの色も不揃いだ。
「どちらも、というのは?」
「いいよ。成海、たくさん食べるものね」
 決めかねて躊躇いがちに提案する。成海がわずかに抱いた不安など吹き飛ばすかのように、霞花はなんてこともなく頷いた。それどころか、軽く弾むような声音だ。
 いまだに、霞花は成海を大食漢だと思っているらしい。普段、一緒に外食するときに成海が食べている量は、一般的な成人男性のものであるというのに。
「霞花が作ったものだからですよ」
「本当に?」
 成海が素直に告げてみても、霞花は信じているのか信じていないのかわからない調子だ。どうやら、同棲前に、素直に言えなかったことが尾を引いているらしい。過去の自分の言動を恨めしく思ったところで、どうしようもない。「本当ですよ」と返すのが精いっぱいで、そのまま口を閉ざす。
 彼女の勘違いをいつかは正したいと思っている。しかし、今、無理に矯正しようとは思わなかった。
 霞花がいま、ここにいる。その事実を噛み締めてからでも、遅くないだろう。
 そんな生温い思考を抱いて、そんな自分も悪くないと思っていることを、どこか他人事のように自覚する。

 成海が初めて欲しいと思った相手が、霞花だった。生まれたときから定められていたレールから逸れたとしても、成海を見上げて笑う霞花のことが、どうしようもなく欲しかった。気付いたころには、それほどまでに、彼女を愛しいと思うようになっていた。
 霞花が非の打ち所がない完璧な女性かと問われたら、答えは否だ。成海からの印象がどうであれ、世間からの評価はそう生易しいものではない。
 大城家に見合うような家柄の生まれでもなく、何か突出した才能を持っているわけでもない。平凡な家に生まれて、成海の知らないような穏やかな世界を生きてきたような女性だ。初対面の成海にワインを引っ掻けて慌てふためく姿は未熟であり、成海が緻密に計算し尽くした計画を思い付きで壊してしまうところなんて、見る人によっては無礼だと顰蹙を買うかもしれない。けれど、成海は霞花のそういったところを気に入っていた。なにひとつ成海の思いどおりにはなってくれないところに、やきもきしたことがないとは言わない。しかし、それ以上に、彼女は成海を惹きつけて仕方がなかった。
 彼女はいつだって成海の目を見て会話をしてくれる。些細な言葉に笑って、小さな呟きにも耳を傾けてくれる。成海では見慣れてしまったような光景にも嬉しそうにはしゃいで、その小さな手で成海の手を引いた。食卓に並ぶ食事の品数が少なくても、不格好で焦げ目がついていても、霞花が成海のために作ってくれたそれらは、今まで食べたどの食事よりも美味しかった。
 成海にとって、霞花は魅力的な女性だった。霞花以上の女性なんて、存在しない。そう確信したから、家に反対されても、彼女と一緒にいることを選びたかった。その選択が正しかったかどうかなんて、今の成海にはわからない。もしかしたら、親の敷いたレールに沿って歩き続ける方がよかったと思う瞬間があるのかもしれない。実際、その方が成海の人生は絵に描いた順風満帆なものだっただろう。けれど、その人生の霞花はいない。成海の名前を呼んで、目を見て笑って、抱き締めてくれる女性だけが、欠けている。
 そんな人生は、きっと、今の成海にはもう、考えられないのだ。

「霞花」
「ん? なあに」
「朝食を済ませたら、出掛けませんか」
「ふふ。今日はどっちにする?」
 くすくすと肩を揺らして、霞花が笑う。揶揄われているのだということは、すぐに分かった。
「あなたと出かけられるのであれば、どちらでも」
 顔にかかる霞花の髪を指先で避けて、顔を覗き込む。視線が結ばれた先で、霞花は愛しそうに目を細めて微笑んだ。
 口元に添えられた霞花の薬指には、成海と揃いの指輪がはめられている。