りんサンはすごいね』
 そう言って笑った男の顔を思い出す。真っ白い髪で顔を半分隠して、その隙間から真っ直ぐに竜を見つめていた。口元に綺麗な三日月を浮かべて、無邪気な声で、無垢な賛辞を竜に贈る。どれだけ突き放しても、時には暴言を吐き捨てても、その真白の男――瑚々ここは変わらない態度で竜に接していた。
 あれだけ自分に執着していると思った久馬きゅうまでさえ、新しい男を見つけて竜の手をあっさりと離したのに。何度も竜の名前を呼んでいたくせに、いとも簡単に他の男に目移りしたというのに。
 瑚々だけは、竜のことを見つめ続けた。同じ温度で名前を呼んで、同じ温度で竜を見つめて、同じ温度で竜に触れた。
 だから、思ってしまったのだ。両親から、兄から見放された自分のことを、瑚々であれば、手放さずにいてくれるのではないかなんて。そんな生温いことを、考えてしまった。普段の竜であれば考えるはずもない、思考の片隅に埋もれて見えなくなってしまっていた期待のようなものを、まるで一筋の希望のようなものを、抱いてしまった。
 そんなこと、あり得るはずがないのに。
 瑚々が竜を大切にしていたのは、竜がほたるの弟だったからだ。竜自身を大切に思っていたわけではない。瑚々に言わせてみれば、そこに大きな違いはないのだろう。彼は大切にしたいと思ったから大切にしていただけだ。その思いに偽りはない。裏があるわけでも、下心があるわけでもない。それどころか、それは建前や世間体を守るためのお飾りですらなかった。理性では理解している。けれど、どうしても、受け入れられなかった。自分を大切にする理由に、兄という存在があることに。結局、誰も自分を見てくれていないという事実に――
 
 目を開ける。視界の端にちらつく白色に無意識に手を伸ばしかけて、寸のところで引っ込めた。指先が掠めた先にあったのは、あの白色ではない。それでも、この白い色も見慣れてしまった。
「ああ、起きた?」
 声音ばかりは柔らかだった。視線を流すと、桔梗ききょうが足を組んで座っている。先ほど視界に入り込んだのは、この男が着ている白衣の色だ。
 いつの間に寝ていたのだろう。頭が痛い。そういえば、いつものようにバーに行って、そこで見つけた桔梗を付き合わせていたような気がする。竜がそうして欲しいと強請ったわけではなく、気付けば、桔梗が隣に座っていたのだ。
 この男のそういうところが気に食わなかった。さも当たり前みたいな顔をして、竜のテリトリーに土足で踏み込んでくるような男だ。瑚々がそうしていたような無邪気さはない。作られたような柔らかさしかないのに、気付くと隣には桔梗がいる。桔梗しか、いない。
 ああ、イライラする。腹が立ち、沸き起こる感情のままに舌を打つ。
「連れて帰ってあげた僕にお礼のひとつくらい言えないの?」
「は? 誰も頼んでねえし、お前が勝手にやっただけだろ」
 ベッドから起き上がり、視線の少し上にある桔梗の顔を睨みつける。吐き捨てるような竜の言葉を、桔梗が気にするようなそぶりを見せることはなかった。事実、彼に竜の言葉など何も刺さらないのだ。何を言ってもどこ吹く風。暖簾に腕押し。それを虚しいと――思った方が負けだ。
 竜の悪態に、桔梗が怒ることはない。当然、傷付くことさえない。受容する瑚々とは違い、彼には何も響かない。何を言っても、意味がない。竜の怒りも、憤りも、嫌悪も、何もかもが、桔梗にとっては等しく『人間が抱く感情の発露』でしかない。
「短気は損気って、三葛くんのためにあるような言葉だよね」
「黙れよブス」
「いい加減、眼科か脳外科か行った方がいいよ」
「うるせえ」
 心配そうな顔が癪に障る。何もかもが、気に食わない。
 桔梗は竜の顔を見下ろして、なにも言わずに立ち上がる。背を向けるように翻された白を見て――今度こそ、手が伸びた。無意識に、裾を掴む。まるで、引き留めるように。
 咄嗟に手を離しても手遅れだ。桔梗から何かを言われる前に、と開いた口から、言葉が出てこなかった。
 振り向いて、竜を見下ろす桔梗の目に浮かぶ感情を、見てしまったから。その色に怯えたわけではない。観察者としての桔梗の目を見て、その視線を結い合わさって。
 ただ。……ただ、己の空虚さを、叩きつけられたような心地がしてしまったのだ。
 そんな竜を見て、目の前の男は愉快そうに口角を擡げた。
「心配しないでいいよ。僕は、君の隣にいてあげる」
 その言葉には、なんの感情も籠っていないというのに。なにも、言えなかった。