忙しない日々が続いている。感染者ホロウは俺たちを待って事件を起こしてくれるわけじゃない。あちらの事件が片付いたかと思えば、次の事件に駆り出される。統率者ハンドラーになれる人間が少ないのだから仕方ないのかもしれないが、だからと、こうも連日事件に駆り出されば疲労だって溜まる。
 絶え間なく現場に駆り出された次は、報告書の山が待っている。どうにか休憩時間を捻出し、凝り固まった肩を解すように回して、自販機のボタンを押す。ガコン、と無機質な音がふたつ。取り出し口から缶コーヒーとココアを取り出して、後ろに振り向いた。
 忠犬よろしく俺の後ろで背筋を伸ばして立っていた水鈴みすずが、俺の視線に気付いて僅かに首を横に傾ぐ。パートナーとはいえ、庁舎の中でくらい自由にしたらいいのに。馬鹿がつくほどに真面目な男だ。
「ほら。お前もたまには休め」
「ありがとうございます」
 缶コーヒーを投げ渡すと、水鈴の視線が俺の手に残ったココアを見た。上下関係というものを必要以上に意識するこの男は、疑問を瞳の奥に浮かべておきながら口にする気はないらしい。わざわざ答えることでもないが、このままだとこいつは俺がこれを飲むまでプルタブに指を伸ばすことさえしないだろう。いつの時代を生きてるつもりなんだ。
 追いかけてくる視線を遊ぶようにココアを揺らす。
「俺のじゃなくて、惺空しずくにやるやつだよ。だから、お前は冷める前にそれ飲んじまえ」
「マスターの分がないようですが」
「俺はお前が椅子に張り付いてるから、散歩がてら自販機に来ただけだからいいんだよ。お前も惺空を見習って、もう少し肩の力を抜いたらどうだ?」
雪沫ゆきまちには私が言い聞かせておきます」
「そうじゃないんだよなあ」
 真面目一辺倒な答えを返されて、思わず苦笑が漏れる。
 こいつが、俺の前とそれ以外で顔を使い分けていることは知っている。俺がこいつの先輩で、こいつは俺の後輩で。それだけじゃなく、統率者と執行者リーシュなんていう余計な立場までくっついちまったものだから、こうまでテンプレートのような堅苦しさを演出しているのだ。
 惺空に触れたとき、水鈴は淡々と固く冷たい声で返したつもりだろうが、その眦は柔らかく綻んでいた。詳しい事情は知らないものの、水鈴は惺空のことを大切に思っているらしい。彼らのプロフィールを漁ればわかるのかもしれない。しかし、そこまで詮索するつもりはない。
 この代行室においては、執行者たる二人が俺に歯向かいさえしなければいい。少なくとも、俺はそう思っていた。
「戻るか。少しでも早く帰れるように尽力しようぜ」
「承知いたしました」
 神妙な顔で頷く水鈴を背に、執行室に向けて歩みを進める。
 早く終わらせてさっさと帰ろう。というより、さっさと帰してやろう。それも、俺の役目だ。
 
  ◇
 
 水鈴の変化にいち早く気付いたのは、惺空だった。彼女は普段通りに見える水鈴の顔をじっと見つめ、「熱ですか?」と脈絡のない言葉を投げかけた。
 代行室にした面々は、俺も含めて彼女の言葉に疑問を抱いた。惺空の前に立つ水鈴はいつもどおりであり、顔色ひとつ変化はないように見えたからだ。
「急になに言ってるんだ? ふざけたこと言ってないで、さっさち仕事に戻れ。報告書じゃなくて始末書を書く――」
「『感染』していたらアラームが鳴りますし、たぶん、ただの風邪ですね。私は医務官じゃないので、詳しいことまではわかりませんけど」
「は? 俺は風邪なんて引いてない」
 怪訝そうな顔をする水鈴の冷ややかな視線にも、惺空は気にした素振りを見せない。それどころから、するりと躱すように俺に近付いてきた。
「マスター権限で、雪tゆきひらさんを医務室に連れて行ってあげてください」
「水鈴、お前……本当に具合悪いのか?」
「マスターのお手を煩わせるようなことは――」
「ダウト! マスター、お願いしますね。代わりに、報告書はまとめておきますから」
「不本意なのはわかってるが、こういうとき惺空が頑固なのもお前は一番知ってるだろ。行くぞ」
 深く息を吐き出して、水鈴に声を掛ける。いつもは間を開けずに返ってくる返事に、妙な間をあく。思わず振り向けば、なんとも言えない顔をする水鈴と「ね?」と得意げに微笑む惺空がいた。
 
 惺空の言ったとおり、彼は発熱しており、それを隠していた。
 休暇を取らなかった理由を聞けば「仕事がひと段落してから申請するつもりでした」と返され、無理をするなと叱っても「体調管理をできず申し訳ありません」と謝罪される。俺が言いたいことはそういうことじゃない。そうは思っても、完璧主義者のきらいがある水鈴には響かないだろう。彼を無理やりベッドに押し込めたのが数分前のことだ。
 医務室のベッドで眠る水鈴の顔を見つめる。
 執行者だって人間だ。そんな当たり前のことを忘れていた。こいつがいくら体力自慢であろうと、日々蓄積される疲労が無効化されるわけじゃない。
 相当無理をしていたのだろう。「問題ありません」の一点張りだったくせに、一度ベッドに身体を沈めるや否や、いまは寝苦しそうに端整な顔を歪めている。
 もっと早くに気付いてやるべきだった。俺は、こいつのなにを見ていたのだろう。後悔しても遅い。
 漏れ出しそうになる溜め息を飲み込む。水鈴が身動ぎをして、うっすらと目を開いたのは、ほぼ同時だった。
「……せんぱい?」
 掠れた声が、俺を呼んだ。
「お前が俺をそう呼ぶのは久しぶりだな」
「すみません。迷惑をかけて」
「いいよ。こっちこそ、気付いてやれなくてごめんな」
「先輩が謝ることじゃ、ないです」
 熱のせいで水鈴の目が潤んでいる。ほんのりと色付く頬に手の甲を添えると、水鈴が浅く息を吐いたのがわかった。俺の手が冷たくて気持ちいいのかもしれない。
「ほら、撫でててやるから、もう少し寝とけ」
「ん、……はい」
 普段であれば綺麗に整えられている水鈴の表情が崩れる。長い睫毛が光りを弾いて、そのまま静かに目蓋が下ろされた。
 もし、俺がお前にとってただの先輩でいてやれたら、お前はもっと俺を頼りにしてくれたんだろうか。意味のない仮定に思考を巡らせる。
 それを口にしたところで、水鈴は何も言わないのだろう。そういう男だ。立場と、肩書きと、プライド。そんなくだらないものを大切にしてしまう。だからこそ、俺がお前を息抜きさせてやらなくちゃいけない。
 たとえ、あのころと立場が違ってしまっていたとしても。俺は、お前の先輩でありたいのだから。