ステージの上は、いつもひとりぼっちだ。
ソロでピアニストをしているのだからそれが当たり前だ。眩く暑くなるほどのライトの下で、一台のピアノと向き合う。
客席にいる人たちが味方ではないと知ったのは、いつのことだっただろう。値踏みするような視線に晒され、音以外の一挙一動までが評価に結びつく。
それでも、舞台に上がらないという選択肢はなかった。二度も、ピアノから離れるわけにはいかなかった。誰が決めたわけでもない。しかし、誰かに強制されるかのように、彼女――
数日前、音楽雑誌が彼女のことを取り上げた。純粋に評価するためではなく、彼女の過去を掘り出して面白おかしく書き立てる俗な雑誌だ。音楽界にも世俗的な雑誌があるものかとも思ったが、人間というのは多かれ少なかれ、他人というものをコンテンツとして消費して生きている。その話題に相応しければ、その所在などどうでもいいのかもしれない。
その雑誌では公にされている月香の経歴から、知る人ぞ知るような内容まで記されていた。よくも調べたものだと感心する傍らで、その表題に月香は眉根を寄せた。
『一度は折れた天才が二度も花実を結ぶのか』
月香がピアノを離れたのは、まだ彼女が小学生の頃だ。当時の月香は天才とまでは評されておらず、せいぜい、少しピアノが上手い女の子だった。あの頃は純粋にピアノが好きだったように思う。思うように音を奏でられることが楽しくて、技術が上がることが純粋に嬉しかった。舞台に立つ孤独など考えたこともなく、全てが自分を応援するオーディエンスとさえ思っていたかもしれない。
挫折を味わったわけではない。けれど、本物の天才を――月香にはない才能を持った少年を前に、月香は本来その場所が孤独であることを知った。自分を見る視線が、己を品定めしているものだと理解した。そのうえで音楽を楽しむ余裕を持てるほど、彼女の精神は成熟していなかった。
彼女の最たる不幸は、彼女には才能があったことである。それは幸運であり、彼女を音楽の世界に縛り付ける呪いでもあった。
ピアノから月香を遠ざけた少年と、月香をピアノの世界に引き戻した男は、同一人物なのだが――それは、語るには掌編にも満たないほどに些細なことだ。
結果として月香は一時の娯楽として消費されるほど名を馳せるピアニストになった。
この記事が、今後の月香の人生を左右することはないだろう。スキャンダルというほどのことでもなく、誰もが経験しうることだ。
花実を結ぶかどうか、月香には興味がないことだ。彼女の意思など関係なく、世間は勝手に批評をし、価値をつける。それに見合うだけの音を提供すればいい。
月香にとってステージの上とは、孤独で、あまりにも無味乾燥な世界だった。
思考とは裏腹に気儘に指が鍵盤を叩く。慣れたように奏でられる音が空間を満たし、形を作っていく。
ステージに立つことは、あまり好きではない。月香にとってそれはただの役割だ。
ステージの上でピアノを弾くことさえ、あまり好きだと思ってはいない。月香にとってそれはただの義務に近しかった。
――その認識が変わったのはいつだっただろう。
目の前に置かれた手書きの譜面を見遣る。視線だけで音符をなぞり、鍵盤を叩くだけではばらばらに散るだけの音を集めてひとつの曲として響かせていく。
月香には純粋に音楽を楽しむ才能はない。そのような素振りをしたって、そのように音を偽ったとしても、そこに心は追いつかない。
ピアニストとして歪んでいる自覚はある。あの日憧れた少年と、今の自分とでは、やはり大きな隔たりがあるのだろう。
月香がステージに立ち続ける理由なんて、周りの押し付けた身勝手な理想だけだ。もし、世間の興味が喪われたら、彼女は少しの未練もなく音楽界から消えるだろう。
たった一夜にだけ咲く花のように。
けれど、彼女のために曲を作り続けると約束してくれた人がいるから。彼の曲を弾き続けるのだと決めたから。
彼の作ったこの楽曲に、付加価値を与えることができるのであれば。『雪鷺月香』というピアニストが弾くことに意味を見出す世界があるというのなら。何度でもステージに立とう。スポットライトの下で、何度だって、完璧にこの曲を弾いてみせよう。
今でも楽しいと言えば嘘になってしまうだろう。それでも、この曲を世界に知らしめることに一役買えるのであれば、ステージに立たされるのも悪くないと思う。