結婚。夫婦となること。特に、男女の間で夫婦関係を生じさせる法律行為。
辞書に書かれた項目で指でなぞり、
容姿が整っている自覚があるとはいえ、瑚々は紛れもない成人男性である。
「……蛍サンって女の人なの?」
「は?」
脈絡のない瑚々の問いかけに、蛍の口から思わず間の抜けた声が漏れる。彼が突拍子のないことを言い出すのは、今に始まったことではない。
蛍とは違う環境下で過ごしていた瑚々は、蛍の常識の外を生きている。
ある程度、蛍の世界に存在する常識というものを、知識として理解はしているようだが、それでも、やはり彼の言動はどこか外れていることが多かった。これも、その一環なのだろうとすぐ理解する。しかし、だからと、瞬間的に思考が追いつけるわけではない。
眉を寄せる蛍を見上げて、瑚々は広げていた辞書を蛍に掲げて見せた。そうして、『結婚』の項目を指でなぞる。
「男女ですることなんでしょ? だから、蛍サンって女の人なの?」
同じ質問が、彼の口から、同じ調子で繰り出される。
「俺のどこをどう見たら女性に見えるんだ」
こんな女性がいてたまるかという言葉を飲み込んだのは、ある種、センシティブな話題に触れるからだ。ここは自宅であるが故に、過剰な配慮や警戒は不要だ。とはいえ、どこで失言をするかわからない。日頃から気をつけておくにこしたことはないだろう。もっとも、瑚々を前に、そのような蛍の心掛けなど、すぐに意味をなさなくなってしまうのだが。
「第一、俺はオマエと結婚することを了承した覚えはない」
「うん。婚約者? と別れるまで、体裁が悪いんだよねぇ?」
すげなく告げる蛍にも、瑚々は気にする素振りなく笑っている。それどころか「ボクちゃんとお勉強してるんだよお、えらいでしょ?」と言わんばかりの表情だ。
言いたいこともツッコミたいことも山ほどある。それでも、瑚々が蛍と生きていくために、様々なことを覚えようと努力していることは、紛れもない事実だ。
普段の言動ひとつ。価値観や倫理観の矯正でさえも、瑚々は文句ひとつ言うことなく、素直に聞き入れていた。いまだ定着するには至っていないようだが、彼も何も知らない無垢な子どもというわけではない。これまで築いていた彼の常識の全てをすぐさま捨て去るなど、容易にできることではない。新しい価値観を身に着けるというのは、思っているよりもずっと難しい。
それを踏まえると、瑚々は寄り添おうという努力をしており、実際にその成果も少しずつだが見られている。まだ、一歩足りないだけで。
「そんなに、キミは俺と結婚したいのか?」
我ながら何を言っているのだろう。己自信に呆れながらも、蛍はそんな問いかけを瑚々に向ける。
ここは蛍の言葉を聞いて、ゆっくりと瞬きをひとつした。そうして、その口元に蠱惑的な笑みを浮かべ、はっきりと言い切る。
「うん。だって、キミはボクが好きじゃないか」
否定の言葉を返すことは容易だった。違うと言ったって、瑚々は何も気にしないのだろう。傷付くことさえ、ない。彼は情緒に対する理解が、少しだけ、浅いきらいがある。
『好き』という言葉の意味だって、どれほど理解できているのかはわからない。蛍の想定しているものとは、違う意味合いで用いている可能性だってある。
それでも。そうだとしても。
「そう言うなら早く、こっちの世界の常識を完璧に身に着けてくれ」
「頑張るね」と笑う瑚々の表情が、声音が、その眼差しが。損なわれるのは、どうにも、惜しく感じてしまうのだ。