突然だが、俺には幼馴染みがふたりいる。
 ひとりは周知の通り、幼稚舎入園から付き合いのある卯月新。そしてもうひとりは、新とは年子の姉弟である卯月綾音。どちらも世話の焼ける、けれど俺にとっては俺がありのままの俺で居られる、大切な居場所だった。

 今回は、彼女について語らせて貰おうと思う。
 綾音は俺たちよりひとつ歳上で、学校は同じでも学年は違うから新より一緒に連んでいたわけではない。だけど新と遊ぶときには必ずと言っていいほどあの子も着いてきて、やんちゃしていた俺たちの面倒を見て……否、どちらかと言えば俺のほうが見ていたかな?
 新は今も昔もマイペースだったし、綾音は泣き虫の寂しがりだったからちょっとでも俺らのペースに遅れると泣き出して、それはもう弟のあいつでさえ「いったいどっちが歳上なんだか」と呆れるほどの涙脆さ。
 とはいえ新もなんやかんや言いながら綾音のことが大好きみたいだから、頼られるのは満更でもなさそうだった。それはもちろん、俺も。
 むしろ新以上にデレデレしていたかもしれない。俺はそのときから既に、危なっかしい綾音のことを心の底から守ってあげたい女の子として認識していたから。
 それは時を経て俺たちが成長しても何も変わらず、良くも悪くも中途半端な関係は持続したままで、相も変わらず幼馴染みの延長線上に俺と綾音は立っていた。

 どちらかが意を決して積極的に距離を詰めていれば、こんな悶々とした日々を過ごすことも今ごろ無かったかもしれない。でも俺も受験生で、仕事を続けるために両親に課された条件は大学に入学することだから、勉強も疎かにするわけにはいかない。仕事だってきちんと熟さなければならないから時間的余裕も無いし、色恋だけにうつつを抜かしてる場合じゃ……なんて、それらはぜんぶ俺の都合の好い言い訳にしかならなかった。
 ただ単に、自分から綾音に連絡する勇気が出ないだけだ。「元気?」とか、「今何してた?」とか、話題を作ろうと思えば作れるのに、電話のダイヤルもLINEの送信も、緊張して何ひとつ押せなかった。
 時間だけが無為に消費されて、結局ふたりの距離はずっと付かず離れずのまま。




 休日のある日。
 寮の自室で近々行われる模試の対策に専念していた俺は顔を上げて、ちょうど昼時だしいったん休憩しようと腰を上げ共有スペースに出た。
 ユニットの皆は各々出掛けているのか自室に篭っているのか、いずれにせよ姿は見当たらない。それどころか黒いの大中小の小である黒田までもが普段の定位置であるソファーに居なくて、皆が集えば一気に喧騒で湧く部屋は静まり返っていて寂しかった。
 ひとりで居ることはさほど苦に思ったことは無い。でも、一抹の物足りなさを感じてしまうあたり俺はここでの生活にだいぶ順応したのだと思う。
 次第に物音ひとつしない部屋に嫌気が差して、気を逸らすように俺はどこかでお昼寝してるだろう黒田を探そうと足を動かした。……ら、

「!」
「うわっ黒田!? ごめん、ここに居たのか!」

 これから探そうとしていた黒い兎はいつも居る筈のソファーの影に寝ていた。どうやらソファーの上よりも床のほうがひんやりとしていて気持ち良いらしい。
 そうとは露知らず、足元もよく見ないまま歩き出した俺はうっかり黒田のお尻を蹴ってしまって、円らな瞳はしゃがんで両手を合わせ謝る俺をジロリと一瞥した。
 しかし恋や駆にしているみたいに俺の鳩尾にはタックルをかましてこない。今日は機嫌が良かったのか、はたまた人を選んでいるのか。よく分からないけれど助かった。さすがに空きっ腹に黒田のこの体格で頭突きを食らったら辛い(食後でも辛いが)。おとなしく俺の手に頭をすり寄せてくる兎に触れながら、後でお詫びにブラッシングしてあげようと心に決めた。

「……なあ黒田。お前にも好きな子……というか気になる子って居る?」

 白田? と同じくツキノ寮で飼っている白い兎の名前を例にあげれば、黒田は見るからに固まった。ひょっとしなくても図星だったのだろう。動物にもそういう心はあるんだと微笑ましい気持ちになりながら、「俺と一緒だね」とこそり呟く。
 否、けれど固まった黒田にさえ羨ましいなどと羨望の感情を向けるほど、俺は胸のどこかで限界や焦りを感じていたんだろうか。

「……、黒田は……白田にはいつでも会えるし側に居れるもんな……」

 綾音に会いたい。声を聞きたい。
 自ら行動する意気地も無いくせにそんな身勝手な欲ばかりが募って、今度はまたひとりで泣いては居ないだろうか、逆に我慢して泣けずに居るんじゃないだろうか。そんな懸念ばかりを持て余している。そして弱っている綾音につけこもうとする男も居るんじゃないかって、ひどく焦燥を掻き立てられる。
 ましてや大学一年生である綾音は何かと学校で不慣れなことも多いだろう。高校よりは幾分自由で、だけどサークルに入ればもちろん付き合いというのは必要不可欠、人脈も広がる。その中にはごく僅かだろうが下心を持って接してくる男だって居るだろうし……。そこまで考えて頭を横に振り、あらぬ想像を掻き消した。
 ──嫉妬するのだけは一人前だ。綾音と同い年で、彼女の笑顔を間近で見れる男に対しての恨みつらみ。
 なんだか異様にむしゃくしゃして、俺は見上げてくる黒田のお腹に顔を埋めて柔らかい毛並みを堪能することにした。もふもふと温かい。最高だ。

「……またやってるのか」
「、あれ新。おかえり、今帰ったの?」
「ん。イチゴ牛乳切れたから買いに出てた」
「相変わらずだね……」
「お前もな」

 心当たりがあるだけに言い返せなかった。俺が苦笑する傍ら、新は疲れたとでも言いたげに溜息を落としてソファーに腰を下ろす。そしてガサガサとコンビニのビニール袋を漁って、さっそく飲むのかと思えば先に紙パックの紅茶を取り出してそれを俺に差し出してきた。
 有難く頂戴し、その場から動こうとしない黒田から離れて新の隣に腰掛ける。
 (たぶん)今日初めてのイチゴ牛乳を飲み、味わうように喉を鳴らした新は俺を横目で一瞥した後、次に自分が持っていたスマホに視線を下ろした。どことなく意味ありげな行動に小首を傾げる。

「綾音に連絡してないのか?」
「姉さんって付けないとまた怒られるよ」
「怒ったって怖くないから別にどうってことない。で? 俺の問いに対する答えは?」
「…………まだ……」

 躊躇いつつも尻窄み気味に言った俺を、長年付き合いのある幼馴染み兼、親友は遠慮も容赦も無く「ヘタレ」と言って切り捨てた。自分でも必死に目を背けてた現実を突き付けられて、心臓をにべもなく貫かれた気がする。さすがに笑えず項垂れた。

「爽やか王子、ヘタレへの転落」
「止めてグサグサ心に刺さる……自分でも情けないって分かってるんだから……」
「だったら早く電話すれば良いのに。綾音、葵のこと心配してたぞ」
「え。……本当に?」
「嘘言ってどうする」

 ……単純だけど、嬉しかった。
 新に見られるって分かっていても、たったそのひと言で俺の頬はたちまち緩んでいって、綾音が俺のことを忘れていなかった、むしろ離れてもちゃんと気に掛けててくれてたって事実に、驚くほど胸が弾んで破顔した。
 憂鬱は一変、歓喜へ傾く。

「……葵の今の締まりない顔、写メって綾音に送ってやりたい」
「っ!?」
「冗談だって。面白そうだけど」

 些細な俺の表情の変化も見逃さず、反応を茶化してくる新を悔しげに一瞥してストローに口を付ける。
 消化不良の気持ちを未だ燻らせたまま、「新はしょっちゅう綾音と電話なりLINEなりしてるんだろ」と皮肉を込めて言葉を発せば、しかし相手は物ともしない様子で「まぁな」と跳ねっ返してきた。そりゃそうか。家族なんだし。ただでさえ自分で言うのにもヘコんだのに、新のひと言でさらに追い打ちを食らった。
 ますます綾音に会いたい気持ちが募って、どうしようもない衝動を深い溜息で押し殺す。
 ほら、こんなに焦がれても、俺はまだ。

「……っとに、ホント世話が焼けるな」

 なにやら隣から聞き捨てならない台詞が聞こえたけど俺は下に目線を向けたままだった。
 この胸の靄はいつまで経っても晴れることはなく蟠っている。いつも世話を焼いているのはどっちかな? なんて新に反論することさえ億劫で、俺は為す術もなく再び項垂れた。
 するとしばらく無言が続いた末に、耳に届いたコール音。どうやら音量を最大にしているらしく、新が誰かに電話を掛けているのが俯いていても丸わかりだった。

「あ、綾音?」

 そう、綾音に電話────

「…………て、えっ!?」
「うん、俺俺。今ちょうど葵の奴が横に居るから代わるな……ん、分かってるって。ほれ」
「〜〜っな、なぁっ! ちょっ、新っ!?」
『……葵くん? そこにいるの?』

 素っ頓狂な声を出して慌てふためく俺を止めたのは、新のスマホから聞こえてきた、恋い焦がれてやまない綾音の声。瞠目したまま固まってると新と目がかち合って、いい加減『腹を括れ』と訴えかけられているようだった。
 生唾を飲み込み、おそるおそる手を伸ばしてスマホを受け取る。そっと耳に近付ければ、綾音は外に居るのか車の行き交う音が電話越しに聞こえた。覚悟を決めて応答すると、外の喧騒に紛れて穏やかな笑い声が響く。

『久し振り。元気にしてた?』
「……うん。俺も新も元気だよ。綾音こそ、体調崩したりしてない?」
『ふふ、大丈夫だよ。大学生活にもようやく慣れてきたし』
「そっか、よかった……」

 一見普通に会話が成り立っているように思えるが、俺のほうは平常心を保とうとするのだけでいっぱいいっぱいだった。意味も無く目線を泳がせたり、体勢を変えたり、とにかく綾音には緊張していることを勘付かれないように努めていた。そのおかげで隣に居る新は必死に込み上げる笑いを堪えているようだ。俺から顔を背けているものの、肩やら手がプルプルと震えているから一目瞭然。
 とりあえずあいつは小突いておいて、おそらく真っ赤になってるだろう顔面を手で扇いだ。

『あ、そうそう。もし少し時間空いてたら会えないかな? 今近くまで来てるの』
「へっ?」
『無理だったらいいんだけど……』
「むっ、無理なんかじゃない! 行くから、絶対に! すっ飛んでく!!」
「ぶっ!」

 とうとう耐え切れず新が吹き出した。
 俺も頷いてから(しまった)と思ったけど、頷いたことに後悔はしていない。心臓は破裂しそうなくらい高鳴ってるけど、綾音と会える嬉しさの前ではこんな高鳴りすら心地よかった。
 そのまま半ば勢いで約束をこぎ着けて、駅前で待ち合わせしようと言葉を交わして通話を終える。……約束、したんだよな。
 本当にこれから会えるんだと実感したら瞬く間に顔に熱が集中して、俺はニヤニヤとこっちを窺ってくる親友から顔を逸らした。

「良かったな」
「……なんか、思う壺に嵌った気がする」
「ちゃんと進展してこいよ」
「〜〜っだからっ、そう簡単にできてるなら、もうとっくにやってるって!」
「爽やか王子の実情はヘタレでしたって誰かに教えるかなー。陽あたりにでも」
「……!!」

 脅しなんかじゃ無い、新はやると言ったらやる男だ。俺をからかうために。
 ……冗談じゃない、そこに陽まで混ざってきたら俺は良い退屈しのぎのオモチャと化す。それだけは何としてでも回避したいフラグだ。
 だから呑気にイチゴ牛乳を啜りながら、俺の本心を試すように「どうする?」なんて問い掛けてきた新への答えは、ひとつだけ。

「……骨は、拾ってね……」
「まあそれは大丈夫だろ、うん」

 その根拠の無い自信はいったいどこから。
 俺の嘆きは誰にも届かず、けれど綾音と会えるという喜びは消せないまま複雑な心境で途方に暮れた。
 ソファーの後ろに居た黒田はいつの間にか居ない。手に持っていた紅茶もぬるく、イチゴ牛乳を今飲み終わった新は昼寝するかな、なんてボヤいてる。
 みんな人の気も知らず自由なんだから。この先、綾音との関係がどう転ぶか果てしない不安を抱きながら、俺は支度しようと腰を上げた。
 綾音との待ちに待った再会まで、後一時間。