ハイライフ(幸村精市)



 怖めず臆せず、凛とコートに向かうあの背中にあこがれていた。

 試合した者が震え上がるようなテニスへの熱意と実力、威厳を有するひと。
「如何なる手段を行使してでも」という勝利への理念を柔らかな微笑の裏に潜め、儚げな外見からは想像も付かない悍馬のごとき眼差しで相手を強く射竦めるひと。
 優しさと厳しさ、両方を併せ持ち咄嗟の判断力にも優れた、聡明なひと。
 いま列挙したのは全部、同一人物のことである。

 私が憧憬と尊敬を抱くそのひとは、全国大会最後の戦いの舞台に立っている。闘病から復帰したその双肩には全国大会二連覇を制した王者が召す『信念』を懸けたジャージと、仲間たちから寄せられた『信頼』。そして三連覇への『悲願』が託されていた。
 それら全て承知の上でコートに立つその背中はとても眩しくて、勇敢で、時に涙が出そうになるほど強かに胸を打つもので。後半から巻き返してきた打球の見えない相手選手の猛攻に、歯を食いしばりながらも全力で手向かう彼の様相を、私はひたすら食い入るように見つめていた。

 相手──越前リョーマが天衣無縫の極みに到達し、観客が一様に手に汗握る試合に釘付けだった。越前がワンゲーム取るたびに歓声が沸き、青学コールが徐々に大きくなっていく。期待が十二分に高まっている外野の声に反し、立海の面々の面持ちは自然と険しく強張っていった。
 やがて半月型に割れたボールがこちら側のコートに打ち付けられて、立海大の敗北が決したとき──あのひとは、目を見開いてしばしその場に立ち竦んでいた。そのとき彼は何を思っていたのか……否、もしかしたら頭が真っ白になって何も考えられなかったかもしれない。まだまだ未熟な私には、そのときの彼の心情は計り知れないけれど。
 胴上げされる相手校の選手を背に、仲間たちのもとに戻ってきた彼は微苦笑していて……でも、何かが吹っ切れたように清々しい顔つきをしていて。その表情がまたいっそう私の胸をきゅう、と締め付けた。

「……ごめんね、[FN:名前]。頂きの景色を君に見せてあげるって言ったけど……俺が不甲斐ないばかりに、優勝には及ばなかった。本当に、すまない」

 ほかの先輩たちと話し終えた彼──幸村精市──が私の前にやってきては、かつての口約束を達成できなかったことを謝罪する。その肩に夕焼け色のジャージは無い。その事実が意味付けするのは、彼の、私たちの『信念』は、強靭な力によって打ち破れたということ。
 ──幸村先輩は、己の力を出し尽くして戦った。敗北を喫して勝利の理念こそ覆されたものの、これはきっと、先輩にとって非常に価値のある試合だった。
 だから「不甲斐ない」なんてことはないのだ。あり得ないのだ。だって自分たちが信じてついてきた部長はいつだってかっこよくて、立海大が誇る最強の『神の子』だったのだから。
 私は微笑を浮かべてかぶりを振り、頭ふたつぶん高い幸村先輩の顔を見上げる。

「先輩は、精いっぱい戦い抜いたんです。何ひとつ謝ることも、負い目を感じることもないんです。全力で競い合える相手がいることは、幸福なのですから。笑って、“俺たちは凄い相手と戦ってきたんだぞ!”って誇らしくトロフィーを掲げて、全校生徒に見せつけてやりましょう!」
「……ふ。こんなときでも変わらないね、君は」

 何様だと思われるかもしれないけれど、マネージャーごときが差し出がましい真似をと疎まれるかもしれないけれど、私は自分が思ったことを率直に伝えた。「なので胸を張って、表彰台にあがってくださいね」とも。
 そしたら幸村部長は意表を突かれたように瞠目して、「やっぱり生意気。」だなんて悪態吐いたけど、そのあとも彼は相好を崩して笑っていたから私はほっと胸をなで下ろして──。


 ぱっ、と目が覚める。視界は見慣れた白い天井。どうやら寝ぼけてベッドから落ちてしまったのだと思考が状況に追いついてくるのに数秒を要して、合点がいった私はふとため息を零した。そういえば横になって間もないときに何となく枕をふっ飛ばして寝返りを打った気がする。となるとベッドから落ちたのはそのあとか。よく風邪を引かなかったもんだと自分で自分に感心する。
 億劫だが身体を起こし、枕と同じく隅にふっ飛ばされていた携帯のロック画面を解除する。設定していたアラームをオフにしてトークアプリを開くと通知は0件。続いて出勤時刻を確認しつつ時計を見れば、のんびり朝シャンをしてコーヒーを飲むくらいの余裕はありそうだ。
 時間の逆算が済んだ私は携帯をポイっと再びベッドの上に投げ出し、シーツに顔を埋めて思いを巡らせた。

 ──あんな懐かしい夢を見るなんて。
 昨日の夜は感傷に耽っていたわけでもなければ、メランコリーに陥っていたわけでもない。ごくごくいつも通りに仕事して帰宅してメイクを落として、動物の癒し動画をネットで少し漁ってから眠りに就いた。少なくとも中学時代の青春を思い出す因由などなかったはずだ。