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気に食わない。感じ悪い。
面白くない。納得いかない。
自分の本来あるべき望ましい姿が、内側からなし崩しに刷り砕かれていく感覚。
なんでこんな得体の知れない感情を持て余し、挙げ句の果てに振り回されなければならないんだと喰は苛立ちを隠さないままパネルのエンターキーを打った。
するとタイミングを見計らって、静かにパソコンの横に湯気だったカップを置かれる。添えられた手から腕を辿ってお茶を置いた人物を見れば、苦笑を湛えた名前が喰を見下ろしていて。
「少しは休んだら? もの凄い形相でずっとコンピュータとにらめっこしてても疲れるよ」
「……別に。億劫だから、さっさと終わらせたいだけだよ」
「何かあったんなら話だけでも聞くけど」
案の定、幼馴染みの目は誤魔化せなかった。
もともと人の感情の機微には敏い名前だ、喰が下手な言い訳をつらつらと並べたところで墓穴を掘って余計疑いを深めてしまうに違いない。
そう予想して、心配そうに様子を窺ってくる眼差しに観念してしぶしぶパソコンの電源を落とした。
ティーカップを持って席を移動し、弾力のあるソファーに腰掛ける。
今までさほど柔らかくない椅子にほとんど同じ体勢で居たからか、固まった節々がポキッと鳴る音が身体の至る所から響いた。
「それで、そんな苛々してどうしたの? 見たところ相当鬱憤溜まってるみたいだけど」
「最近しょっちゅうどこかに出掛けてるから、てっきりストレスは解消出来てると思ってたよ」人の気も知らず呑気に小首を傾げる名前を見てため息を吐いた。即座に「ちょ、人の顔見るなりため息吐くとかなにその所業!」と非難の声が上がる。
それをハイハイといつものように軽く受け流して、淹れてもらったお茶を嚥下した。
「……うわ、もしかしてこれラベンダーティー?」
「そうだけど。喰ってラベンダー苦手だっけ?」
「そうじゃないけどさ……ああ、サイアク。嫌な顔思い出した」
複雑な心境と面持ちでラベンダーティーを凝視する喰にますます意味が分からないと怪訝な顔をする名前。いったい彼の身の回りで何が起こったというのか。冷静で悠然と落ち着き払ってはいるものの、こんなに露骨に感情を剥き出しにする幼馴染みなんて滅多に見ないから、彼女の戸惑いと懸念はさらに強くなった。
……もしや誰にも話せない悩みがあるんじゃないか。
本当にそうならばできることなら自分が訊いて解決してやりたいとは思う。が、喰がどうしてもと拒むなら無理に問い質そうとはしない。
喰のほうから打ち明けてくれるのをおとなしく待つが、妙にカチカチと進む時計の秒針に焦らされているような気になって。今にも質問責めしたいと衝動を必死に堪える名前の様相に、喰は再び憂鬱なため息を深々と落とした。
「……物好きで厄介な女性が居るんだよ」
「うん?」
「その人はここ最近僕が通ってる植物関連ショップの店主でさ……このラベンダーもそこで買ったヤツ。ついでに名前が愛飲してるネトルの葉を勧めてくれたのもその店主」
「そうなんだ。でもそれと物好きの何の関係が?」
「なんでも僕のことを好きとかなんとか」
「ああ、それは確かに物好きだ……っ痛い痛い!」
「もっとも僕の魅力を知れば惚れるのも当然なんだけどね」
自分なりに謙遜して言ったものの、あっさり同意されると腹立たしい。机の下で油断していた名前の足を思いっきり踏んだ。
「くぅっ……っで、何が厄介だって言うのよ」
「名前と同タイプ」
「……はい?」
「一方的に好きだって言って満足しては勝手に去ってくはた迷惑な人間ってこと」
「……」
口を噤んだ名前にはまるで反論の余地も無かった。なぜならあの頃の自分も厄介かつはた迷惑な行動をしていたと自覚はあるから。
気まずそうに目線を背けた幼馴染みを横に、喰は苦々しい想いを堪えながらラベンダーティーを嚥下した。
何をしててもあの女店主の顔が、匂いが、言葉が脳裏を過ぎる。目の前に居る名前では無い、いつも店に足を運べば穏やかな微笑で出迎えてくれる──ひとつの存在。
「そもそも何なんだよ、あれだけ人のことを好きだとか言っときながらそれ以上の進展は望んでない? ハァ? 信用出来るとでも思ってるワケ? 確かに牽制した日から直接面と向かって好きとか言ってくることは無くなったけど、明らかに遠回しには伝えて来てるよね。結局あいつはどうしたいんだよ僕とどうなりたいんだよ勝手過ぎるにも程があるだろ。まあ今さら付き合いたいとか言ってきても? 僕は別に興味ないから? そんな気、毛ほども無いしむしろあんな可愛げの無い女なんて願い下げだけど。けどいつまでも僕の頭ん中に居座られるのは凄いムカつくんだよね」
ろくに息継ぎもせず零される喰の愚痴に、名前はもはやポカンと呆気に取られていた。
え、何まさか喰ってば無自覚なの無意識なの私以上にバカなの鈍いの? どれも本人が耳にしたら確実に息の根を仕留めにやってきそうなことばかり思考を巡らせていた。大変混乱している。
いったいなんて返せば良いのか。
迷いに迷って名前がたどり着いた結論とは、
「…………じっ、」
「じ?」
「喰にも春が来たああああああ!!!」
速攻で殴られた。はっ倒されなかっただけマシである。どうやら間違いなく言葉の選択を誤ったようだった。
名前の頭を机に沈めたあと、喰は談話室に入ってきた影を見つけて瞳を細めた。
──敵視している恋敵。とは言えど無闇やたらに突っかかったりはせず、あくまで穏便に済ませようと声を掛ければあちらは心底嫌そうに顔を顰めながらゆっくりと歩み寄ってきた。
「……何やってんだこいつ」
「いきなり馬鹿馬鹿しいこと吐かすからちょっと制裁下しただけだよ」
「、馬鹿馬鹿しいってなによ! ほんとのことじゃない!」
「寝言は寝ながら言ってくれない? 超あり得ないから」
「だって今のって完璧その女の人に対する不満でしょ! 好きとは言われるけど具体的に自分とどうしたいのか伝えてはくれないから、つかず離れずな関係がもどかしくて苛々してるとしか私には思えないんだけど!」
「……へぇ、なに。お前女に迫られてんの?」
「……冗談止めてよ、キツい」
面白いことを聞いたと言わんばかりに口角を上げた花礫に敢えて返事は返さず、いきり立って断言する名前の言葉をにべもなく切り捨てた。
もどかしい? 誰が。黒か白か、明瞭としない曖昧な関係が面倒なだけだと撥ねつける。
意固地になって自分の想いを見てみぬフリ。頑として譲ろうとしない喰を見て、名前は困ったように眉根を寄せた。花礫に救いを請うよう目線を配らせても、彼も我関せずといった様子で事の成り行きをただ傍観している。
とりあえずいったん状況を収拾するために自分がまず落ち着こうと、名前が空になったカップを持ち花礫のぶんも淹れてこようと席を外した。
男ふたりの間には沈黙が落ち、時が刻まれる渇いた音だけが木霊する。そんな重い雰囲気を一蹴するかの如く、おもむろに花礫が口を開いた。
「……ぶっちゃけ俺が言えた義理じゃねーけど」
「なに? 急に改まって」
「失ってから気付いたんじゃ遅ェよ」
「……」
「俺は……危うくギリギリで間に合ったけど、後少し気付くのが遅れてたらぜんぶ手遅れだったかもしんねーし。もしかしたらあいつにはもう二度と手が届かなくなってたかもしれない。そしたらたぶん、きっと、……いや、ぜってえ一生後悔してた」
築いてきた関係を壊すのなんて簡単なことだ。人はほんの少しの縺れにより呆気なく崩壊する。
手を離せば失う。当たり前のことだ。永遠のものなんてこの世には何ひとつ無いのだから。
そう、すべて一時のもの。
今しか無い、今だけのもの。一分一秒、過ぎていくたびそれは今では無くて過去になる。いつか、いつか別夢主が言った言葉も、想いも、すべて好い思い出となって綺麗に美化されやがて風化されてしまう。
……いずれ離れて消えていく?
自分以外の男のもとへ? 振り向きもせず?
誰が? 別夢主が。
そんなの考えただけで──。
「想像しただけでも腹立つだろ、自分が惚れた女が他のヤツと笑ってるとこなんざ」
「……って、言われてもね。いまいちピンと来ないのが現状だし。ああでも名前が君に笑いかけてるのはムカつく」
「……人が珍しく下手に出てやりゃあ。だったらずっとそうやって殻に閉じこもって現実から目ェ背けてろ。んで一生泣き寝入りでもしてやがれ」
チッと舌を打った花礫に相変わらず生意気だなと頬を引き攣らせつつ、喰はふと神妙な面持ちで思惟に沈んだ。
豪胆で、頭の回転が早く狡猾で、常に堂々とした立ち振る舞いで。けれど男勝りな性格でも笑ったときなんかは女性らしく、些細な仕草も洗練されていた。そんな彼女が将来、知らない男と腕を組んで歩いていたりなんかしたら。
ましてや、結婚、なんてことになったら。
虫唾が走る、反吐が出る。
この胸に蟠り、こみ上げたのは嫌悪、だった。
(……ほんと、タチの悪い夢じゃないのかコレ)
自分ではとても制御しきれない感情。どれだけ否定しても目を逸らしても、心に宿った小さな芽は着実に実をつけて成長していってる。
この感情につける名は何か、なんて分からないほど喰は愚鈍では無かった。
ただ、まだムカつくから認めてはあげない。
けれどまあ、……心の整理がついた、その時は。
許してあげなくも、無い。
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