囚われてしまいそうな、底の見えない獰猛な目つき。王者というよりは、飢えと渇きから虎視眈々と獲物を狙う獅子に似ている。玲王くんは時折そんな目をしていて、私はそれに、羨望にも似たまぶしい気持ちと、ほのかな恐れを抱いている。

    ◆

 許嫁と結ばれて幸せに暮らす将来を、私は小さいころからずっと思い描いていた。
 父と仲睦まじい母がそうであったように、神様が示し合わせたみたいに素敵な男性を紹介され、何度も食事を重ねるうちにゆったりと惹かれあって、この人とこの先寄り添ってあわよくば添い遂げたいと思ったときには、私の薬指にダイヤモンドの美しい愛の結晶が光を反射して光っている。
 由緒ある家の娘ならばそうやって素敵な人と結ばれる。決められた場所へ一段一段着々と階段を上っていくみたいに。それは、小さなころから両親を通して刷り込まれたようなもので、私はそれを信じて疑わなかった。それが私の中に長く眠り続けているおとぎ話で、憧れなのだ。
 世間はそれを、不自由な恋愛と言う。けれど、私からしてみれば自由な恋愛という方が無理な話に思える。否定をする気はない。けれど、巷では一般的な恋愛の仕方――両親に隠し事をしつつ恋心を抱えたり、交際をしたりだとか――は、私の価値観に照らし合わせてみればどこかはしたなさを感じてしまって、はばかられることだった。
 たしかに、恋愛に関して両親の価値観に染まっているという自覚はある。けれど、その他の点に関して私ははごくごく一般的な女子高校生だと思う。
 由緒ある家の娘として大事に育てられている自覚はあるが、お出かけを制限されるとか娯楽を禁止されるなどそこまで厳しいというわけでもなかった。価値観の大きな乖離も感じたことはない。(それは都内屈指の名門私立、白宝に通う同級生の友人が多かったせいでもあったかもしれないけれど。)
 人並みに勉学に勤しんで、とりわけテスト前は数学や物理の難所ににひいひい言いながら勉強する。文化祭は、私の得意な絵に関する仕事を任され、ポスターや黒板にイラストを描くし、運動に自信はないけれど、体育祭や秋の球技大会近くになるとその非日常感にはそわそわと浮足立つ。たまに友人を家に呼ぶか、お邪魔するかして勉強会をする。休日は映画やショッピングを目当てにして街に出かけたり、テーマパークにも言ったりする。男の子が時々そこに交じっていても、二人きりでないなら何も問題はない。そこで必ず買うポップコーンはキャラメル味だから、なまえっていつもそれ!と笑われる。甘いものは幸せになれるから好きだ。

    ◇

 確かあの日は、玲王くんが家族で遊びに来ていて、話が一区切りしたからと私が家の庭園を案内する運びになったのだ。中学三年生の夏の初め、ちょうど母が手塩にかけて育てているバラの園芸種たちが盛りの時期だった。親同士は話を続ける中、私たちは二人で庭へ出た。
 玲王くんとは、会社を持っている私の祖父と、御影コーポレーションの創立者である玲王くんの父との仕事関係で、昔から親同士のつながりがあった。初等部に入学してからは、学校が同じで、しかも同学年の子供がいる、という共通点から徐々に仲の良さが深まっていったようで、半年に一回程度、定期的に家族ぐるみの茶会が開かれていた。
 小学生の頃は、両親が談話している横でいろいろなゲームをした。オセロやチェスのようなボードゲーム、トランプ、ジェンガ。ジグソーパズルやクロスワードなんかもした。ババ抜きの百面相、神経衰弱の記憶力、ボードゲームでの弱点を突く動き。勝敗があるものでは、大抵玲王くんの方が一枚上手だったが、私は、たとえ負けても楽しかった。
 でも、一つ、ジェンガだけはどうも苦手意識があった。ジェンガの塔がゆらゆらと揺れれば揺れるほど、それに共鳴して私の心も不安定になった。抜くたび上へ上へ高らかに積みげた塔を倒したら負けなんて、私には少し怖かった。一度だけ二人でジェンガをしたことがあったけれど、玲王くんは私とは逆で、楽しそうにしていたような気がする。
 中等部に入ってからは、ゲームで遊ぶことは減っておしゃべりに興じるようになった。お話で退屈しない年齢になり、私たちは案外波長が合うから何かしらのゲームを挟まなくても居心地は良かった。
 今日も庭園を歩いている間はいろいろな話をした。話を弾ませるのに「学校の話題」は丁度いい。学校で私と玲王くんは同じ輪にいるわけではないから、既存の話ばかりにならないし、共通認識があるからわざわざ説明を加えなくても簡単に話を通すことができる。
 それから普段の話。玲王くんも私も、音楽の趣味や持ち物の趣味なんかが似通っているところがあった。しかし、完全に同じなわけではない。だから、玲王くんの話は新鮮でありながら興味が持てて、時間を忘れて会話し続けられるくらいだった。玲王くんは人に聞かせるための話し方も上手で聞いていて飽きない。
 一通り回り終えた私たちは、バラが一番きれいに見えるガゼボのベンチに並んで座って、休憩をとっていた。玲王くんはふぅとため息をつく。
「ちょっと肩の荷下りるよな」
「うん。玲王くんも? 正直、私は毎回緊張してる」
 家族ぐるみの席だと私も玲王くんも猫を被ってよく見せようとするから、庭を見て回っている間の方が心地よかった。学校でのお互いを知っている私たちからすると、互いにかしこまった態度で向き合うのはかえって滑稽だ。
「はは、毎回ガチガチだよな。なまえはめちゃくちゃ分かりやすい」
「もう、玲王くん……!」
「そんな怒んなよ」
 それから、玲王くんはベンチに寄りかかりながらぐっと体を伸ばし、そのまあるいビー玉のような目を向けて突然言った。さあっと私たちの間をぬるい風が吹きぬけた。
「俺らって似てるよな」
「似てる?」
「うん。家がそこそこお金持ちで、なんでも与えられて不自由なく生きてるとこ」
「そうかな。……そうかも」
 他の人がいる場なら、おごっているみたいで絶対に肯定しないけれど、二人きりの場だから歯切れ悪く頷いてみる。これは、客観的に見れば事実になることだったから。
 ――でも、私たち、性格は似てないんじゃないかな。と私は思う。
 似ている。そうと言われると、ひどい違和感を感じた。客観的な事実である境遇が似ているとしても、きっと彼と私には決定的な違いがある。例えば、玲王くんは私よりずっと貪欲だ。玲王くんは私のように生ぬるくない。
 学校で学級代表を務めているとき、球技大会で中心になって士気をあげる役割をになっているとき、あるいは指されて教科書のような回答をしたとき、人はみんな玲王くんを誉め、羨望のまなざしで見つめる。けれど、それでいて当の本人は、一過性の興奮が過ぎ去った後は、つまらない、と無の感情をひた隠している。全部手の届く範疇にあって当然で、それが彼をつまらなくさせていた。境遇が似ているが故か、なぜだかその無の感情が手に取るように感じられた。私にはないものだから、余計によく認識ができたのだ。
 玲王くんの艶やかなあやめ色の髪が、風になびいているのをそっと眺めていると、玲王くんが思いついたように言った。
「なまえ、今度どっか遊びにいかね?」
「遊びに?」
「そ。……あー、でも、なまえんとこはおばさんが厳しいか」
「うん。男の子と二人きりは、いい顔されないな……」
「ふーん、そっか。……それ、窮屈とかつまんねーとか思わねえの」
「そうかな?」
 窮屈とかつまらない、なんてあまり考えたことがなく戸惑いながら返す。
「それがいいと思うから、あんまり、思ったことがないかも」
「はは、不自由したことないって顔してんな。窮屈だって思わねーなら厳しくたってそうでなくったって変わんねえか」
 玲王くんは、そーかそーか、と私を見て笑う。
「玲王くんは窮屈だって思う?」
「まあ、俺がなまえだったらすっげー窮屈だって思うだろうな。なんか俺って、与えられるだけだとつまんなくて、性に合わねーって思うもん。欲しいものは自分で手に入れたいっつーか」
「……そっか。玲王くんらしいな」
 そう語る玲王くんの目はやっぱり遠くの高みを見つめていて、うらやましい輝き方をしている。私には持ちえない輝きだった。間違いなく、玲王くんは私よりずっと貪欲だ。私は改めて玲王くんは、私と違っている、と腑に落ちるような心地になる。
 私は欲しいものを与えられても、それだけで満足で与えられた範疇に収まってしまう。それが不自由だと思わないから、外側にわざわざ手を伸ばそうとしない。そんな私と玲王くんは全然違った形をしている。

    ◇ 

「許嫁の方とは最近どう?」
 玲王くんは、ノンアルコールワインのグラスを指先で回しながら言った。琥珀色がとぷんと揺れる。その様はとても絵になっていて、玲王くんがこれから成人して、見惚れてしまうくらい綺麗にお酒を飲む姿まで容易に想像できる。
 今日は私の家の庭で、祖父主催のささやかなパーティーが開かれており、玲王くんは御影コーポレーションの関係者として招かれていた。玲王くんとは普段、白が基調の制服で顔を合わせるために、ドレスコードに従ったフォーマルな格好で全身を固めた玲王くんを見るのは久々で、見慣れない。黒いストレートパンツにとろみのあるグレーのシャツ。革の細いベルトが似合っていて、金の留め具が広間の照明を反射して光っている。
「優しくてとてもいい人。私の好きなものを覚えて下さってて、毎回素敵な手土産を持ってきてくれる。来週も食事をする予定が入ってるよ」
 十六になってから、今から大体半年ほど前、私は許嫁と顔合わせをした。両親が紹介してくれた、柔和なほほえみが印象的な4つ年上の人だ。最初は親を交えての席で。二度目以降からは、積もる話もあるだろう、と親同士は別のテーブルを囲む配慮をされ、私と彼の二人きりの席で食事をした。頻度は一、二か月に一回程度。話せば話すほど、初めの印象どおりの折り目正しく堅実な人だった。安心感とやさしさを兼ね備えている彼は、まさに私が許嫁に思い描いていたお手本みたいだった。
「ふーん。良好なら、なにより」
 玲王くんは歯を覗かせて笑い、グラスをあおった。少年らしくて屈託がないのに、どこか上品さの漂う笑い方だった。
 学校でも同じ笑い方をする玲王くんは、人気者だ。特に女子からはきゃあきゃあ騒がれていて、それも頷ける。言わずもがなの端正な顔立ちやスタイルのよさだけじゃない。明るい性格で、誰にでも均等に明るさを振る舞うし、運動や勉強が完璧でも、それは純粋で飾り気のない自信に昇華され、決しておごり高ぶらない。
「うん。玲王くんは? その、恋愛とか」
 私は玲王くんに問いかけてみる。今まであまり恋バナ(今しているのも正確に恋バナなのか微妙なところではあるけれど。)というものをしたことがなかったので、胸が高鳴って声が上ずってしまう。中等部のときは玲王くんにも彼女がいた気がするけれど、最近そういった話は聞かない。玲王くんくらいになれば、彼女ができると一瞬で噂は広がってしまう。
「彼女とかは、最近めっきりだな」
「彼女、とか、は?」
「おいおい、踏み込んでくんのかよ」
「なにかありそうな言い方するから……!」
「別にいいけど。……好きなやつがいる、って話」
 玲王くんの瞳孔が鋭い輝きを放つ。手に入れたくて堪らないという、飢えたあの目だった。
「……!そうなんだ」
 私はどきどきし、うらやましいやら不思議な感情になる。
「でも、玲王くんならすぐに付き合っちゃいそう」
「はは、そうか? お前は、そう思うの」
「うん、だって玲王くんは人気者だし、女の子みんな玲王くんのことかっこいいって言ってる」
「……違げえよ。誰が、とかそういう客観的な話じゃなくて。俺が聞きたいのは、なまえの主観」
「え? わたしの? えっと、それは、」
「なまえはどう思うの。俺のこと」
 みんなが言っているから、は彼の中で回答になっていないようだった。私は返事に詰まる。主観、私が玲王くんについて思っていること。
「……玲王くんは、やっぱりすごくかっこいいと思う。……何でもできて完璧」
 言葉を必死に手繰り寄せてみたけれど、言葉にできたのはありふれた陳腐な感想だった。
 本当は、貪欲さを隠したみたいな獰猛な瞳がうらやましい――というようなこと勿論言えなかった。地に足のつかない抽象的な感想だというのは大前提として、知られてはいけない気がした。
「じゃあ、もし、俺がなまえのこと好きって言ったら?」
「えっ……?」
 聞き間違えかと思った。が、玲王くんは、私を逃すまいというようにさらに言葉を重ねた。
「好きって言ったら、許嫁との関係切んの?って」
 聞き間違いなんかではなかった。玲王くんが言ってのけたのは斜め上の突拍子もないことだった。私は混乱させられる。
「へ……、だってそんなの許されない、」
「じゃあ、許されたら俺のとこ来てくれんの」
 動揺する私をよそに玲王くんは恐ろしいほど冷静さを保っていた。主観的な意見とか、もしもの話とか、玲王くんが何を帰着点に見据えているのか私には分からない。私も知らない深淵を覗きこまれている。いつの間にか玲王くんの雰囲気に呑まれていることに、私はやっと気がつく。
「……れ、玲王くんは、何が聞きたいの」
「許されない、ってさ、なまえは言うけど。大体、許嫁って言っても、今の時代片方が拒否れば解消される関係だろ? 許されないんじゃない。許せなくしてんのはなまえ自身の価値観なんじゃねーの」
 きゅっと縋るようにスカートの裾を握る。確かに的を得た発言であるけれど、でも、両親にあてがわれた素敵な許嫁と私は幸せに結ばれる。別に悪いことじゃないし、ずっと思い描きつづけてきた、私の中で当然という顔をして寝そべり続けてきたおとぎ話どおりのことだ。
 じゃあ、不自由も何もないのに、なぜ、感情が揺らいでいるのだろう。なぜ、こんなに攻められているような心地になるのだろう。
 穴だらけのジェンガの、一つのブロックが抜き去られたようなに不安定だった。それは、私の中でさながら塔のように積み上げられた価値観が、ぐらぐらと揺れているということだった。
 あのとき――ジェンガをしたときの結末はどんなふうだったのだっけ。どうやって崩れたのだっけ。玲王くんは。
「……」
「なまえ、顔色悪いな」
 私の顔を覗き込んだ玲王くんの表情はうつろで、何の感情も読み取れない。玲王くんは手をつかんで歩き出した。
「あ、あの、玲王く……」
 様子がおかしい。私たちの間には明確な軋みがあった。さっきから私は玲王くんの何かを踏み外したか、あるいは踏み間違えたのだ。
「なまえ、体調が悪いみたいなので部屋まで連れていきます」
 扉の前の使用人に、流暢でお手本なような口調で玲王が話しかけた。そればかりではなく、眉の動かし方ひとつとっても玲王は人を納得させる話し方をしているに違いなかった。私が俯いているのを使用人は確かに具合が悪そうだと解釈をした。そこまでひどい顔をしていたのだろうか。
 ――いえ、ちょっと心配なので俺がついていきます。
 ――はい、いえ、お気になさらないでください。
 すぐに話はついたようで、玲王くんはまた私の手をつかんだまま歩き出す。
 いつか私がケガしたときに保健室に連れていってくれたときの、気遣った歩き方とは違っていた。玲王くんは私を振り向かなかった。そういえば、私が隠していた足のケガに、一番最初に気が付いたのは玲王くんだった。

    ◇

 部屋へ入るなり、性急にドア脇のドレッサーへ追い詰められた。私は、母親からお下がりの高価なヴィンテージのドレッサーの鏡台へ乗り上げさせられる形となる。ドアの閉まる音が随分と遠く聞こえた。玲王くん瞳には、行き場をなくした熱が淀んで、そこへ私だけが映っていた。
 玲王くんは私にキスをした。私の後頭部の髪の毛に指を差し入れて、短いけれど鮮烈なキスだった。は、と玲王くんの口から息が漏れた。もちろん人と唇を重ね合わせる行為は初めてだった。正しく着実な順序を踏んで、いつか許嫁の男の人とするものだと思っていた。一度離されたかと思えば、それから間髪入れずに何度も唇に吸い付かれた。
 私の背中が触れたのか、鏡台に置きっぱなしにしていた香水の小瓶が、カタンと倒れた音が部屋に反響した。それを玲王は気にしていない様子だった。気づいてすらいないのかもしれない。それをトリガーに、玲王くんの甘く上品な香りが一気に深まった。玲王の端正な顔が近づいたときに、いつも微かに香るにおい。声の代わりに鼻へ抜けるような息が漏れた。
 荒めの息遣いだけが静寂の部屋を埋めている。今日の初めに似合ってて可愛いとスマートに褒めてくれた、膝を丁度隠すくらいの丈だったドレスは、乱れてずり上がり、膝上があられもなく晒されている。
 開いたままのカーテンから見える月が、くっきりと冴えていた。月が窓越しに私を見下ろしている。小さい頃に母親から、悪いことをしたらお天道様やお月様が見ている、と言い聞かせられた記憶が呼び覚まされていた。小さな子供を諭すために過ぎないまやかしだということは分かっている。けれども、その月の澄んだ明るさに、ひどくいけないことをしているのだと知らしめられているようだった。
 思えば、玲王くんはずっと優しかった。私はそれを昔馴染みのよしみの、ただの気づかいだと分類し続けてきた。切れ端はたくさんあってそれをつなげる術を私が持たなかったのかもしれなかった。玲王くんの内側に隠した貪欲さがあふれ、獰猛さをはらんだあの目はずっと前から私に向けられていたのではなかったのだろうか。じゃあ――。ある一つの結論に結びつこうとしているのを私の頭は拒絶していた。
「なまえ、もう気づいてんじゃねーの」
 玲王くんの表情はうつろなままでいたけれど、かすかな悦が滲み始めており、どくん、と全身の血管が脈打った。
「……なにを……?」
 おそるおそるやっとというように問う声は震えていた。
「なまえのさ、その『いい子です』みたいな顔、ずっと前から好きじゃない」
 この期に及んでまだそう言うのかよ、といった辟易を含むトーンだった。
「まさか、ほんとに俺が体調心配してて、送り届けるだけで帰ると思ってたりした? 振り払わずにここまで来たのはなまえなんじゃねーの」
 振り払わずにここまで来たのはなまえなんじゃねーの。
 玲王くんに指摘されると、まるで、私が自分の意志で振り払わなかったのだというのが本当のことであったように思わされる。彼の言葉は天から降ってきた絶対的なもののように聞こえた。果たして私は振り払えなかったのではなく、自分の意志で振り払わなかったのだろうか。
 月は相も変わらず、玲王くんの後ろで冴えわたっている。わたしは跪いて懺悔をしなくてはいけないような気さえしてくる。
 記憶の断片が脳裏を横切った。
 初めは隙間なくぴたりと組まれていたジェンガも、抜き続けていれば当たり前に穴だらけになってゆく。何週か引き終えたところで、玲王くんはわざと、一気にジェンガの塔が不安定になるであろうブロックに手をかけた。一歩間違えれば崩壊してしまいそうな難しい場所だったけれど、それでも玲王くんは器用に引き抜いた。その狙いは私に倒させることだった。インクが濡れた紙を浸食していくみたいに、じわりじわりと物理的にも精神的にもプレッシャーをかけ、私の一手で崩壊するように誘導したのだ。
 対する私も負けじと、慎重に引き抜いた。ともすればそのせいで崩れてしまいそうなほどに、指先は震えていた。数度その応酬を繰り返し、ついに次の一手で決まるという局面になって、私はいつまでもブロックを抜けなかった。
 それが私の方に倒れてきたら。あるいは大きな音が鳴ったら。今にも倒れそうな空洞だらけのぐらつく塔を目前に、ルールを聞いた当初に気がかりだった空想が私を襲う。誰かに壊さないで、とか、静かにしなさい、とかと叱られるのではないかという不安でいっぱいになる。ジェンガに最初から組み込まれた結末なのに。それから、玲王くんは、そんな動かない私にしびれを切らして、えー、なまえビビってんの?と笑ったのだった。
 玲王くんの手が私の後頭部をくしゃりと掻き抱いた。玲王くんからしてみれば、私の頭蓋骨なんて一溜りもないのではないか思えるくらい、大きな手のひらと長い指で、私は嫌というほど体格の差を感じさせられる。
「だんまりかよ……。今、何考えてる」
 私に乞うような声色をしていた。余所見するなという命令じみた主張を暗に含むのと同時に、余所見をしたことに拗ねて悲しんでいる響きだった。
 気づかわしげに腰に手が回り、玲王くんの方へ寄せられる。閉じられた口を開かせるように、親指の腹が下唇に触れる。開花前のつぼみを割り開くような動作だった。
「全部、俺のせいにしていいから」
 そう言うや、先程と同じように唇が重ねられ、しかし今度は、玲王くんの柔らかな舌が差し入れられた。もう、何が何だか分からなかった。心臓がおかしな高鳴り方をしていた。
 今の私を占めているのは、ルールを破ることや規律に背くこと、境界線をはみ出すことに対する、恐怖や罪悪感のみにならないことに気づく。私はどこかで期待していたのかもしれなかった。だめなこと、悪いこと、火遊び、危ない橋。いろいろな言葉が頭をよぎっては消える。一つ確実に言えるのは、許嫁には、絶対こんなふうな胸の鳴り方はしないということだけだった。でもそれは十分で確実な罪だった。
 舌の触れ合い方はむしろ優しかったけれど、決して私の舌を逃がしてはくれず、濃厚に絡めるように動き回った。目を閉じてされるがままになっているうちに、思考はとっくにふやけていた。
 酸素を要求して私の体が強ばったのを機に、名残惜しそうに玲王くんは離れた。
 閉じた目を開くと、羨ましいとさえ思いほのかな恐れを抱く、あの貪欲な瞳が私に向けられていた。私は、蛇につままれたネズミの気持ちになる。引き出しの奥に仕舞った蓋を開かれ、中身を暴かれているような感覚に陥る。
 再びリップ音を鳴らし、ドレスのファスナーに手をかけられたときだ。コンコン、と空気を割るノック音が響き渡った。
 玲王くんは、どちらともつかない唾液でぬらぬらと光る唇を甲で拭って、扉へ向かい、躊躇なくドアノブを捻った。あ、と声が漏れる。使用人だった。
 ――なまえですか?
 ――ああ、間違えてお酒飲んじゃったみたいで、水貰ってもいいっすか。
 ――あ、水、持ってきてくれてたんですね。わざわざありがとうございます。
 ――ええ、大丈夫です。俺もすぐ戻りますんで。
 彼は半開きの扉から、私の異常な顔の赤さだけを見て慌てて納得したように、「じゃあ、頼みました」と言った。残念ながら、彼の目には、玲王くんが純粋な善意から介抱してくれているように映っている。騙されたとは夢にも思っていないようだった。
 そのまま扉は締まり、しばらくの間を置いて玲王くんは鍵を閉めた。普段使われることが無いために滑りが悪く、硬い音がした。
「水いる?」
 人のいい笑みが消えた表情で玲王くんは振り返った。私は首を振る。
「そこだと硬くて痛いだろ、ベッド座れよ。ほら」
 流されるがまま。マリオネットのように両足が動き、私の体は柔らかいベッドへ沈んだ。玲王くんも隣へ沈み、ガラス細工に触れるみたいな手つきで私は頬を撫でられる。冷水のコップに熱を奪われて冷たくなった手はありえない程に冷たく、頬の温度の高さを自覚する。私は今、どんな顔をしているのだろうか見当もつかなかった。
 ガラガラと床に何かが散らばる音が頭の中で響く。ジェンガの結末をぜんぶ鮮明に思い出す。デジャヴュ。
 玲王くんはビビってんの?と笑って、それから、一番確実そうな――私も抜くとしたらそこだろうと目星だけ付けていたブロックを抜いた。手はちっとも震えていなかった。お手本を見せるようにブロックを動かし、一番最後の角のつかえが外れた瞬間。大きな音をたててジェンガは崩落した。私は、玲王くんは塔を壊すことに躊躇なんて微塵もなかったのだと気づく。どれを引き抜いても、塔は崩れる運命だったのだ。順番通りに引きましょうのルールは破られていたし、私はとっくの昔に負けだった。
 あの日、ジェンガがテーブルをはみ出して床までブロックを散らして崩れ落ちたときと同じように、私は浅ましくも壊されることへの期待を抱いているのかもしれなかった。
「まって、玲王くん、」
「何? 今更?」
「別に、悪い夢だったって、忘れてくれていい」
 玲王くんは耳元でささやいた。
「そしたら、なまえはまたいい子でいられるさ」
 まるで、研いだばかりの彫刻刀でひとつひとつ言葉が刻みつけられているようだった。
 ぜんぶは、私を変容させてしまった玲王くんのせい。そう、明日になれば私はきっとまたいい子に戻れる。
 私は深く言い聞かせてみる。でも、ああ、と泣きたくなる。忘れてくれと言われると、それは逆に忘れられなる。玲王くんは、それを知っていて言ったのだろうか。
 ドレッサーの鏡台、使いかけの香水瓶、手垢のついていない滑りの悪い内鍵……、そのどれもを見る度に私は思い出すのだろう。過ちはこの部屋の中で亡骸だけを残しながら、死んでいく。
 それでも、忘れられるわけがない。今まさに、いい子のふりはできたって、私はその実、それほどいい子では無いことに気づいてしまったから。