脳みその裏側で、断続的な警笛を鳴らされているみたいにがんがんと頭が痛む。頬や脳みそが茹だっているような心地がするのに、身体は芯から冷えている。背筋がガクガクと震え、体温調節の機能が制御できなくなっていることを悟る。これから食事の用意をして、凛の出る試合をテレビから観戦しようと思っていたというのに。これは紛れもない頭痛と悪寒だ。熱の上がり始めの兆候に、私は白旗を挙げ、キッチンのカウンターに腕をついて思わずうずくまる。
今日、凛はゲームの後にチームメイトと食事に行くと言っていたから、彼の夕食の心配をしなくてもいいことは幸いだった。私ひとり分のために食事を作っても、今の状態で満足に喉も通らないだろうし、明日のことは申し訳ないけれど帰ってきた凛に謝ればいい。私は体温を測るためにのそのそと立ち上がる。
熱は37度7分を回っていた。この体感ではまだまだ上がるだろう。とはいっても、解熱剤を胃に流し込んでベッドで寝てしまえば、あとはきっと治るだけだ。結局それがありきたりで最良の方法なのだ、と判断した私は、コップに水を注ぎ、おもむろに救急箱を開いて薬を探す。
シートに個包装されたタブレットはあと2つ。あれ、こんなに少なかったけと思いながら、プチンプチンと開封してシートを空にする。これは今日中に解熱剤の買い足しを凛に頼んでいた方がいい。私は凛にメッセージを送り、錠剤を水でくるめて嚥下する。張り詰めていた喉を通る水分が冷たくて酷く気持ちが良い。それから、私は寝室のベッドによろよろとなだれ込んだ。
◇
乱暴な玄関ドアの開閉音で目を覚ました。次いでばたばたと慌ただしい足音の後に、寝室のドアが勢いよく開けられた。扉をそんなふうに開けるなって言ってるでしょ。霞んだ意識は、夢と現の狭間でぼんやりとそんなことを考える。頭は鉛のようにまだ重かった。
「やっぱり倒れてんじゃねーかよ」
布団から顔を出して入口の方に目線をやると、眉間に皺を寄せた凛が怖い顔をしてずんずんと歩いてくる。りん。喉から出した声は思っていたよりもはるかに弱々しく掠れてしまっていて、彼が提げたビニール袋の摩擦音に掻き消されてしまう。
ベッドの傍らに来た凛はサイドテーブルに荒々しく車のキーとビニール袋を放り投げた。キーホルダーの金属部分がガシャンと無機質に鳴く。キーの平時の定位置は玄関の革製トレーの上だ。どうやら凛は、その定位置に置くことさえままならなかったようだった。
「なんで熱出たって言わねぇんだよボケ。電話も出ねえし、メッセージも返ってこねえ」
凛が握るスマートフォンの通話画面には私の名前が表示されていた。凛が部屋に入ってきたときから微かにプルプルと聞こえていた電子音の正体は、出ない私へのコールだったらしい。
「ごめんね凛。スマホ、別の部屋に置いてた」
「それは別にいい。俺が言ってんのは、なんで熱出たって言わねぇんだってことだよ」
「今日はチームメイトとご飯に行くって言ってたし……」
「あ?」
「熱なんて薬飲んで寝てれば、治る……でしょ……」
凛に上から凄まれて私の言葉じりは萎んでゆく。凛は本当に怒っている時に発するあからさまなオーラを、余すことなく私に浴びせてくる。
「んだよ、こんなになっててよく言える……。バカ、俺がどんな気持ちで帰ってきたと思ってんだ?タコ」
「こんなに悪態つかれてびっくりだよ」
縮こまった私の方へ、凛の腕がすと伸びてきて、その手の甲が上気した頬をぬるりと撫でつける。
「あちぃ」
凛はぼそりと呟いた。骨ばった関節にぴっとりと触れられている箇所が、ひんやり吸い付いて心地よい。それは気遣わしげな強さで押し当てられ、小さく震えていた。
「そりゃあ、熱、出てるし……」
「もう喋んな」
「ええ……、」
凛はぶっきらぼうにそう言うと、クソがっ、と小さく吐き捨て、片手で顔を覆って項垂れた。それだけで、この人間がどれだけ私を案じていたかをありありと思い知った。喋るのもそこまで楽ではなくて、私は言われた通りに大人しく、そしてありがたく沈黙し、凛を見つめた。
さっきまでの剥き出しで威圧的なオーラは、嘘のように、しんとなりを潜めはじめている。よく見れば、黒髪の毛先の部分は(まだ)濡羽のようにしっとりとしていて、試合後にシャワーを浴びたあと、ろくに乾かす暇がなかった事を示していた。手の隙間から覗くターコイズブルーの瞳は何を考えているのやら静かに揺れている。
やがて、凛は私の方を向いて大きなため息を吐き切ると、「水、取ってくる。寝てろ」と部屋を後にした。ひどく長いため息だった。
程なくして戻ってきた凛の手にはコップ一杯の水と私のスマートフォン、冷感シートが握られていた。
「前髪上げろ」
「ん。あっ、もうちょっと上」
私がコップを受け取ると、凛の手によってさっと開封されたシートが額に貼り付けられた。ゼリーの感触が気持ちよい。
「体温計どこやった」
「ダイニングテーブルに置いてなかった?」
「多分ねえ」
「どこだろ……、カウンターとかかな」
「いい、探してくる」
測り終えてどこへ置いたのか、記憶はかなりあいまいだ。慌ただしく部屋を出ていく凛の背中を、私は再び見送る。
案外、甲斐甲斐しく世話を焼くのだなと思った。凛は人懐っこい面など欠片も持ち合わせていないけれど、弟だからなのか、思わず甘やかしたくなるような、どことない末っ子の気質を感じさせるもがあった。そのために、人の面倒をみる姿を想像したことがなかったのだと思う。
私は、凛が枕元に置いていったスマートフォンの画面を点けた。そして、思わずそれを手から取り落としそうになる。画面には10件近い着信と、怒涛のメッセージ通知が表示されていたから。凛は、いつも要件が伝われば問題ないだろ、とでも言うように愛想の欠けた短いメッセージばかりを送る。その彼が一度に送る量ではまるでない。私は慌ててアプリを起動する。
「解熱剤きれたから帰りに買ってきてほしい」
私のメッセージを発端に、それは始まっていた。
「熱出てんのか」「今おわった」着信。
「出ろよ」「名前」「シカトするな」着信。
「ねてるのか」「寝てんなら起きろ」着信。
「おい」「死んでねえだろうな」「起きろ」着信……。
中略。
「いまから帰る」「薬買ってかえる」「食べたいもなあるか」着信。エトセトラ。
短いメッセージが矢継ぎ早に連なっている間に、不在着信がここぞとばかりに挟み込まれている。電話番号の方にも着信が来ていたから、スクロール画面に表示されている以上の着信があった。最後に至っては誤字も含まれていて。返事の返らないメッセージに彼の焦りがありありと見てとれた。私は急激に申し訳な無い気持ち苛まれる。
――凛、すごく心配していてくれてたんだ。
しかし、罪悪感とはうらはらの、甘やかな感情が裏側からじんわりと私を浸食してゆく。口角が糸に吊られでもしたように意図せず上がり、唇がゆるやかな弧を描いていくのを感じた。
速足な凛の気配にはっとする。凛のトーク画面を見ながら笑っていたりなんてしたら、何を言われるか分かったものじゃない。私はさっとアプリを閉じてスマートフォンの画面をシーツに伏せた。
「探し回った。ペン立てに刺さってやがった」
「……刺した記憶ないや」
「だろうな」
事も無げに凛は即答する。いつもなら、失礼な!と咄嗟に言い返していただろうけれど、今日限りはその元気はなかった。ろくな思考をすることができなかった私は、棒状の物体であるというだけで、ペン立てに片付けたのだろう。熱にやられた私は、てんでだめだなと改めて思う。
戻ってきた凛は、測る準備をしてから、私の襟ぐりをつかみ体温計を私の脇に挟み込ませた。測温部がひんやりと冷たい。しばらくして見た表示は37度8分。私は凛を安心させるように、解熱剤は効いているし、じきにさっきと比べれば楽になったという旨を伝える。そして、私はそういえば、と聞く。
「凛、食事会は、」
「断った」
「良かったの」
「悠長に食事とか行ってられるかよ」
最近増えてきたとはいえ、凛がチームメイトとプライベートで食事をするのは珍しい方だ。彼には少し、人とのつながりが希薄過ぎるところがある。凛の交友関係にずけずけと干渉するつもりはないけれど、チームメイトとの食事なんて貴重な機会だ。熱なんて一人ですぐに下がるものだし、私のことより、ご一緒させてもらった方が良かったんじゃないか――、なんて考えていると、私を見透かした凛は、すぐさま眉をぴくりと動かした。
「その顔、まだ余計なこと考えてるだろ。んなの別の日でいい」
「ち、違うよ、凛のご飯、作ってないから……」
「デリバリーすりゃいい」
「じ、じゃあ、さっさと頼んじゃおうよ」
私のために車を飛ばして帰ってきた凛にとっては、全く余計な心配だったようで。私は、自身の思考が暴かれたことになんだか決まりが悪くなり、デリバリーのアプリを開こうとスマートフォンに触る。
「なまえは」
「私?」
「何も食べてないだろ」
「私はいいよ。食欲があるってわけでもないし……」
あっ、でも。私は「食べたいものあるか」と打ちたかったらしきメッセージを思い出した。そして、サイドテーブルへ乱雑に放られたビニール袋は、かなり重みと膨らみをもっていた気がする。
「凛、何買ってきたの」
私は、サイドテーブルのビニール袋にだらりと手を伸ばす。軽く腕を張るだけでは届かなくて、怠くて身体を乗り出す気にもなれない。凛は私の手が空気を掴むその様子を見て、「俺がやる」とビニール袋の取っ手を引っ張ってこちらに寄せ、ごそごそと中身を漁る。
「言われた薬買ってきてる」
凛は順に中身を取り出してテーブルに並べていく。薬の箱、ペットボトルの水、ジュース、ぶどうゼリー、プリン、みかんゼリー、焼きプリン、エトセトラ。スーパーで冷蔵ショーケースから商品をごっそりと選び取ってかごに入れている様子が浮かぶようなラインナップだった。
「あ、桃缶」
そして一番袋の底に入っていたずっしりとしたものを見て、私は思わず声を漏らす。凛の手には、フレッシュな桃の絵柄がプリントされたかんづめがあった。私は、その褪せたプリントの感じから、急激な懐かしさが呼び起こされる。
「昔は、風邪をひいた時に、桃のかんづめがよく出されてたんだよね」
「知ってる、前に聞いた」
「話したことあったっけ」
「話してたから俺が覚えてるんだろ」
怪訝そうに眉をひそめて凛が言う。それもそうだけど、私自身が話したことすら覚えていない事柄を凛がハッキリ覚えていることに、私は少し驚いたのだ。
「返信よこさねぇから、何がいいか分からなかった」
凛はコトリと桃のかんづめをサイドテーブルに置いた。そもそも私が熱を出しているという確証もなしに、私が食べやすそうなものや食べたそうなものを物色してきてくれた。何を食べたいかなんてそんなの、それだけで十分だった。
◇
紆余曲折――取っ手の付いてない缶の開け方が分からないだとか、シロップはどうするのだとか。凛は料理に関して明るくないためにキッチンで頭を悩ませていたらしい――あって、桃が盛られたガラスの器を持った凛は、ベッドの傍らに戻ってきていた。彫りが繊細で、フルーツやデザートを入れるのに重宝しているお気に入りのお皿だ。すべらかな黄色の桃はシロップに濡れ、つやつやと光っている。その中の一切れに、フルーツピックが刺さった状態で添えられている。凛が缶を開けるのに時間を費やしたおかげで、私がベッドから頼んだデリバリーの箱もテーブルに並んでいる。出前ならピザが王道、という安直なチョイスだ。
私は、「凛」と、椅子に座り、ピザの箱を開けようとしている彼を呼ぶ。
「せっかく用意してくれたんだから、食べさせてよ」
せっかく用意してくれたことと、食べさせること。そのふたつの間には、なにも因果関係がないし、脈絡もない。つまり、こじつけの、私の純粋なおねだりだ。
「面の皮があちぃ病人だな」
「熱が出ているだけあって」
「うるせぇな」
現に、彼の助けがなくとも食べられることには食べられるだろうし、どうせ意味わかんねえ、自分で食べろと一蹴されるんだろう。と、冗談めかして言ったのに。悪態をつきながらも、凛は流れるように私の指からフルーツピックの柄を華麗に攫ってしまった。
「口あけろよ」
ずい、と口元にフルーツピックに突き刺さった一口大の桃が突き出される。私は戸惑って凛と桃を交互に見比べれば、凛の眉間の皺が深くなったので、急かされるように口をあけた。
桃を食めば、唇がシロップに湿って、舌上にとろりとみずみずしい甘みが染みわたる。体調を崩したときの桃はやっぱり文句無しだ。
たっぷりと噛みしめながら咀嚼して私は零す。
「美味しい」
「そうか、良かったな」
そして、凛は皿に戻したフルーツピックを新しい一切れに刺して、二口目も同じように私の口元に運んだ。私はそれを口内に迎え入れる。私がごくりと喉を震わしたのを見て、凛はまた新たな桃をフルーツピックで選んで運ぶ。それを繰り返す。
「凛、私自分で食べられるから大丈夫。ピザ、冷めちゃうでしょ」
五度目に差し出された桃を前に私が言うと、凛は眉根を寄せた。
「……は? 自分で食べられんのかよ」
「うん。さすがに」
「てめ――、」
「ごめんて」
一応病人な私の手前か、凛は善意を無下ににされてもなお、いつもは振りかざしていたはずの、衝動的で乱暴な言葉を飲み込む。「治ったら覚えてろよ」と煮え切らない様子で口をつぐむと、ピザの入った箱に向き直ってしまった。
荒削りで不器用な甘やかし。でもそれは、高密度で私に浸透しきって、余った部分は溢れてしまう。さながらかんづめの桃みたいに、なみなみのシロップに全身を漬けられているような心地だ。私はじわじわと染み込んでいく凛の甘やかしを、全身にたっぷりと甘受している。
私は、凛の横顔を斜め後ろ側から眺める。横顔のシルエットは直線的で完璧な線を描いていて、襟足は綺麗に整ったまま少しだけ伸びてきている。彼はピザを一枚引き剥がしているところだった。凛は今しかめっ面をしているだろうか。愛おしいなあと思う。
「凛。心配してくれて、ありがとう」
「……ああ」
「うれしかったの」
全部ほっぽって帰ってきてくれたことも、桃のかんづめを買ってきてくれたことも、有り余るほど気遣ってくれたことも。
「……そうかよ」
凛からは歯切れの悪い返事しか返らなかった。それに、横顔しか見えないからはっきりとした表情も分からない。だけど、お礼も、誉め言葉も、素っ気なく受け取るのはいつもの凛だった。好きだよ、と感情のままに伝えても、今の彼には四文字のまま素直に受け取られることなく、勝手に屈曲させられてしまうだろう。彼はひどく優しいけれど、ひどく難儀だ。私はその四文字を、一旦心にかたく留め置いて、熱が下がってから伝えようと、心の中で誓った。もちろんきちんと目を見て。