ちゃぷちゃぷととろみのある液体が小さな穴から出てくる音がする。冴は手のひらに化粧水を軽くなじませてから、顔へ丁寧に塗り広げてゆく。仕上げにピシャンと肌に叩き込むのは冴の癖だった。
 朝のシャワーは冴のルーチンワークだ。目覚ましとリセットの意味合いを持つのだといつか冴は言っていた。濡れたままの後髪はぺたりとしなだれており、かき分けられた髪の間からいつ見ても美しい額が覗いている。アスリートらしい筋肉で整った逞しくみずみずしい半身にはタオルがかかっている。バスルームから上がったばかりの冴はいつもよりも一層と色っぽい。
 飛行機約14時間分の遠距離恋愛を経て、冴と暮らし始めたのはほんの少し前のことだ。
 冴を訪ねにスペインへ行くとき、私は二枚分の航空券をとった。正確に言えば、一度の秘密のフライトを除いては、冴が快くお金を出してくれたので彼のクレジットカードを借りて。できるだけ長く滞在できるように選んだ往路の復路の二枚だ。
 そして、一番先のフライトでも二枚の航空券を買った。けれど、今回は全くわけが違った。スペインへの往路のみの航空券を、ファーストクラスで二人分。足をシートに伸ばし、窓から見た高度1万フィートの海原は、私が見た中で一番きれいな空だった。「そんなに綺麗か」と初めて飛行機に乗った子供のように目を輝かせて窓の外を眺める私に冴は聞いたけれど、その隣には彼がいたのだから、到底いつもと同じ色に見えるはずがない。私はそれをそっくりそのまま冴に伝えれば、「そうか」と彼も黙って空を眺めていた。私より多く空の旅を経験する彼が、これまでのどのフライトとも違う景色を見ているといいなと私は思った。
 一緒に暮らし始めて気が付いたことがある。冴は自分の体の機微に敏感だ。彼には、細部まで鮮明に精密に計算された理想の像があって、それに寸分たがわずぴたりと合わさるように己をメンテナンスする。自分の人生をサッカーというスポーツに賭けてきたプロのアスリートである彼は、体の調子や形のみならず肌の質感にまで気を利かせ、細心の手入れを怠らなかった。
 日本の至宝と呼ばれた彼の二つ名は、今でも確固たる名実とともに健在である。そういったストイックさが、冴の強さたる所以なのだろうと思う。
 大理石の洗面台で化粧水の付いた掌をすすいだ彼は、脇にかかったタオルで指先から滴る水分を拭き取った。
「いつまで人のことじろじろ見てんだ」
 私は、鏡をスクリーンに見立てて、ロマンチックな映画のワンシーンでも見るように冴の一挙手一投足を静かに眺めていた。それを見かねた冴は、私に鏡越しに目を合わせた。涼しげなブルーグリーンの瞳が怪訝な色で私を伺っている。彼のチャームポイントである、アンニュイな下睫毛がまだ少し湿っていた。
「朝からハンサムだなあって」
「そうかよ、そりゃ結構だな」
「今日は、いつもに増して入念だね」
「ちょっとだけ乾燥が気になる」
 そう言って、些細な変化にも敏感な彼は、乾燥しやすい目の下を鏡でじっと凝視した。
「もう用意できたのか」
 冴はもう一度私に目を合わせて聞く。
「ううん。今日は先に髪をやったの。後はメイクするだけ」
「ああ。悪りぃな、占領して」
 二人で支度をしても十分な広さのある洗面台の真ん中に立っていた彼は、片側に寄って私が立てる分のスペースを空けた。
「いいのに。冴だったら私、いつまででもながめられる」
「……どういう意図だ」
「どういう意図って」
 意図も何も、冴が格好いいのは本当なのになあと思う。冴は眉根を寄せ、じっとりとした目を向ける。
「人を褒め殺して楽しいか」
「冴、ちょっと嬉しそうな顔してる」
 彼は呆れたようにフンと鼻を鳴らすと、無言でドライヤーのスイッチをスライドした。少し、からかいすぎただろうか。だけど、冴は自分で知らないのだ。冴は僅かな表情の変化だけで存外感情が筒抜けなのだということを。
 彼はいつも涼しいポーカーフェイスを纏っているせいで、油断している。何も、大きくころころと変わる表情だけから、感情を読み取れるわけではない。冴にも、小さな花のつぼみがが柔らかくほころびるくらいの、愛すべき些細な表情の変化を認めることができる。
 私は前髪を乾かしている冴を盗み見て、ドライヤーの音の隅でこっそりと笑い、ファンデーションのコンパクトを手に取った。

 お気に入りのリップをひと塗りし、おかしい箇所がないか頬を傾けて何度か鏡と向き合う。瞼に乗せたパールのラメが品よくまたたいた。いつもに増して入念なのは私のほうだったかもしれない。それから、洗面台のキャビネットを開き、手のひらで丁度包み込めるサイズの小箱を手に取ると、私は冴を呼んだ。
「ね、冴」
 すでに手早く身支度を終えていた彼は、すぐ横で壁にもたれかかって私の支度を待っていた。薄手のシャツとストレートパンツのシンプルモダンな装い。その左手首には彼のスポンサーにつく企業の黒い腕時計が飾られている。足のすらりと長い冴には、モノトーンのコーディネートがひどく様になる。私の声に、冴はスクロールしていたスマートフォンから目を離す。
「なんだ。ああ、」
 彼は納得したようにスマートフォンを台にへ伏せると、私の方へ手を差し出した。
「うん、後ろでつけるの頼んでもいい?」
 ゴールドチェーンのシンプルなペンダントネックレス。小箱に大事に仕舞っていたそれの金具を外し、指でつかんで冴の手のひらへ乗せた。トップにはめ込まれた半球形の翡翠が艶やかにきらめいている。冴の瞳の綺麗な場所を余さず掬って、固めた色だ。



 「直接渡したかった」と言って、彼は手のひらサイズの真珠色の箱を手渡した。それから、「当日の0時は空けておけ、電話する」とも。翡翠のペンダントは、冴の帰国時、早めの誕生日プレゼントにくれたものだった。
 箱を開くと秘密の泉のようなブルーグリーンの静謐な宝石が据わっていた。私はぱちぱちと何度か瞬きをして彼の瞳の色と照らし合わせた。
「冴の目と同じ色」
「翡翠だ」
 冴はペンダントを手に取った。
「なんでネックレスを選んでくれたの?」
 何で翡翠にしたのかや、一体いくらするのかとは聞かず、代わりにそう聞いた。
 翡翠を選んだのは、ペンダントトップを目に入れる度、私が彼を思い出せるように、あるいは彼が思い出して欲しかったからなのだろう、というのは彼の口から聞かなくても分かったし、プレゼントは値段で価値を測れないというのは、たとえ高価なものに対してもそうだ。あらかた、彼のオーダーメイドなのだろう。安かろうと高かろうと、形のあろうとあるまいと、彼がくれたというだけで一等の価値を帯びる。私はわざわざ値打ちを聞いて怖気づきたくはなかった。
「毎回つけてくるから、そこに俺のがあったらいいなと思った」
 彼は私に、初めてネックレスをつけながら答えた。彼は私がいつも首元にアクセサリーを身に着けているのを認識してくれていた。元々身に着けていたネックレスが、白いテーブルクロスの上に所在なさげに置かれているのが目に入る。今よりもゆったりと時間をかけて私の鎖骨の間に翡翠が収まる。元より、そこが定位置だったのではないかというほどしっくりとくる感触があった。
「似合ってる?」
「思ってた通り、似合ってる」
 冴は私の頭を撫でて瞳をゆるめ、愛おしいものに語りかける声で言った。
 以降私の首元からネックレスチェーンは消えた。正しく言うならば、冴にプレゼントされたペンダントのみを鏡台の前で身に着けることはあったけれど、人前でネックレスをつけることはめっきりなくなった。
 私はどうしても寂しくなった夜更けに時折、冴の温度の記憶を手繰り寄せ、反芻するために、ネックレスを一人で身に着けた。冴は私をどうやって撫でて、どうやって目を緩めて、そしてどうやって私を愛してくれていただろうか、と。それでしか遠くにいる彼の記憶を思い出す方法を知らない、哀れな一つ覚えのように。けれど、実際に本当にそれしか方法がわからなかった。
 人前や外で身に着けなかったのは、高価であろうものをつける勇気はでなかったのではない。彼との記憶が、擦りへり、損なわれてしまうような気がしたからだ。記憶が少しずつ空気中へ揮発し、すっかりなくなってしまうのが怖かった。
 冴がネックレスの金具を留めてくれたその日以来、私の鎖骨の間は翡翠のためだけにある玉座となり果ててしまったのだ。他のネックレスを身に着ける気には到底なれず、いくつかのお気に入りでさえもアクセサリーケースに眠りっぱなしになった。
 次に、私が外でネックレスをつけることとなったのは、スペインへ発つその日だった。引っ越しのためスペインの新居へ郵送した荷物の中に、アクセサリー類はまとめて入れていたが、唯一、冴にもらったペンダントだけ、私は手元に残していた。
「冴の目の色みたいだなと思うと、なかなかつけられなくて。なんて」
 私は、支度をしながらこれを見ると、ものすごく冴を思い出すのだということを告白した。だから、身につけることも躊躇したのだと。
「俺がつけるから貸せ」
 冴の手つきはとても優しく気遣わしげだった。逆に自分を思い出させ、悲しくさせるような品になったことを、もしかすると、冴は少し悲しんでいたかもしれない。焦がれていた冴の温度が伝うと、段々と細くなり透けていっていたはずの記憶の糸が、もう一度より合わされたようだった。私はもう寂しくなかった。


 
 私は、金具を留めやすいよう首裏に手を回して下ろした髪をたくし上げた。ヘアオイルのベルガモットがあでやかに咲いた。気持ちだけ、冴がつけやすいように踵を上げる。チェーンの端と端を掴んだ彼の手が、胸元を起点にして、鎖骨、首横と順にくすぐってゆく。私のよりずっと骨張っていて、肉感の少ない大きな手だった。影のかかり方に、冴が身をかがめているのが分かる。心臓の輪郭を、彼の一本指に甘く柔くなぞられているような心地がして、私は身をよじりたくなる。
 俯いていた目線を上げ、彼の仕草を鏡越しに見た。留め具の辺りを、冴の伏せた眼差しがじっと見ている。冴が目を伏せているとき、彼は下睫毛だけでなくて上睫毛も長いのだと私は何度も気づく。綺麗だと、そう素直に思った。指がうなじの真ん中を優しくかすめ、やがて、留め具がひんやりと据わった。
「留まった」
「ありがとう」は、私がペンダントに見とれているせいで上の空に響いた。私は惹かれるように首元におさまる翡翠を指先で触り、これが首輪ですらあっていい、とまで思った。
 しばし見惚れていると、「おい」と冴に背後から声をかけられた。冴の方を向く。するとその振り向きざま、こめかみに柔らかい感触が触れた。小さい戯れ程度のリップ音が私の鼓膜を揺らし、彼は離れる。彼は私の髪を可愛がるように薄く梳いた。やさしさに甘く焦がされて、私はまた身をよじりたくなる。
「似合ってる」
「うん」
 隣に彼がいるという、この喜びをなんと表したらいいのか、未だ私にはぴったりとした言葉を充てるのは難しい。私はもう冴の体温の残滓を必死にかき集めて、感傷に浸らなくていい。まだ夢を見ている心地なのだ。でも、夢じゃない。
 私はカバンの中身に不足がないか一応チェックして、玄関へ向かう。これから私たちはテラス席のとびきりのモーニングを食べに行くのだ。冴は玄関脇に置いてあるキャップをかぶって、靴を履き、つま先を床に打ち付けたところだった。片手には折りたたまれたサングラスがある。彼の外出に、顔を隠すためのキャップとサングラスは必需品だ。
 私も下駄箱から靴を取り出そうとした。しかし、冴の視線が突き刺さったので、ワンピースのスカートに乱れでもあったのか、と問おうする。しかしそうではないことは、けれど彼が被っていたキャップを、私に被せてきたことによって知ることとなった。
「わ、ちょっと」
 私より一回りか大きい彼の頭に調節されたキャップは、つばの重さで前に傾く。
「他の人間にじろじろ見られたくない」
 可愛いことをする。でも、これじゃあ、パンプスが履けなくなってしまう。私は帽子の後ろ部分を引っ張って傾きを調節して上を向くと、冴はむきになったときにする不機嫌そうな表情をしていた。
「誰も見ないよ。むしろ見られるのは冴のほう」
「いや、俺なら見る」
 冴はそのさらりと放たれた言葉で、私をどれだけ照れさせたのか知らないままで、もう一つのキャップを身に着け、玄関先の鏡で格好を確認しながら、「それ、絶対取るなよ」と念押しした。
 私は、履く予定にしていたヒールのパンプスでは、やはり頭だけが浮いて釣り合いが取れなくなると思い、少しだけ迷ったあとでクリーム色のスニーカーのかかとに指を引っかけた。
 冴の真似をしてつま先を打ち付け、全身鏡に映る私は、ロゴ入りのキャップとスニーカーでカジュアルに崩れた格好をしていた。
 ねぇ、冴。朝隣で並んで支度をして、玄関で一緒に靴を履いて、机を挟んで向かい合って食べる。ささやかすぎる喜びだと笑うかもしれないけれど、それだけで、私は幸せだと繰り返し抱きしめたくなるんだよ。
 私は後ろに立つ冴に最終確認の意味で聞く。
「おかしいところ、ない?」
「ない。頭まで全部」
 冴は帽子の縁に巻き込んだ後ろ髪を整え、ペンダントトップの位置を微調整してくれながらそう言った。キャップはどう見てもサイズが合っていなかったけれど、冴のものだとわかる、その方がいいと思った。