夢は、際限なく果てがないというところで、宇宙とよく似ている。実際、宇宙に果てはあるのか。それは望遠鏡をのぞいても、理論を練っても、定かにはならない。それは夢も同じだ。果てを確認できないのならば、それは限りなく果てがないと言ってもいい。
そして夢は内面の具現だ。現実よりはるかに解像度が低く、都合がよく、幻想的で、それから、大部分で閉塞的で、――孤独だ。凪は人より多く長く夢の世界を旅しているから、その分孤独であるのかもしれない。大部分で、というのは、時に予期しないイレギュラーが起こりえるからである。
たとえば、クラスメートの笑い声、チョークと黒板がぶつかる音、筆記用具が床に落ちる音。凪の耳が、現実という外界の音を気まぐれに耳で拾ったとき、孤独で閉鎖的な宇宙空間に、水滴が落ちたように変化が起きる。それを呼び水にして、外部の色々なものたちに夢の中を侵略される。やがて内部世界がゆるやかに攪拌させられるのは、とても妙な心地だ。
◇◇
白宝の中庭には紫陽花が花開き始め、初夏の来訪を告げている。みょうじなまえと、凪誠士郎が初めて言葉を交わすこととなるのは、白宝高校入学後初の席替えの折だった。初々しさが色めき立つ春が過ぎ去った六月の終わりのことだ。
混雑を避けるためという担任の指示に従って、席順に立ち上がって各々がくじを引きに行くなか、流石というべきか、凪は近くの生徒に突き起こされ、教壇の方へ向かった。ロングホームルームなんて格好の昼寝時なのに、と凪は脳内で文句を垂れた。
熱血爽やか担任のお手製らしいボックスに手を突っ込んで、一番初めに触れた紙を引く。一番に手に触ったものがいい結果に違いない、などという崇高な理由ではなく、ただ単にわざわざ選り好みする動きが面倒くさいからに他ならない。今となっては、これが輝かしい分岐点といっても過言でないのかもしれない。
席に戻りながら折りたたまれた紙切れを開くと、手書きの「5」という数字があらわれた。黒板を確認すると窓際の後ろから二番目の位置だ。お、まあまあラッキー、と凪は心でガッツポーズを決める。欲を言えば今と同じ一番後ろがよかったけれど、二番目でも窓際の後方ならば最高だ。
みなめいめいに荷物をまとめる中、凪もほとんど使わない教科書類と筆記用具など、比較的少ない荷物をリュックに詰め込んで席を移動する。
新たな席に腰かけてみると、アーチ形の窓からは、まばらな紫陽花が見えた。教壇までは遠い。
担任は何か話をしているみたいだが、西日になった初夏の日差しが思いのほかいい具合にあたるので、またひと眠りをしようと決意した。あったかい日差しに風通しもいい。加えて目立たないというのは、前より良物件かもしれない、と目を閉じた。
次に凪が目を覚ましたのは、何か細く硬いもので肩あたりをつつかれたときだった。後ろから女子の小さな笑い声が耳に入る。それからその笑い声の主、なまえは、「なぎくん、プリントきてるよ」と言った。
「ぅん〜、あ、ゴメン」
凪は特別あわてる様子もなく、ぼやぼやする頭で自分の分を一枚とると、ノールックで残り一枚のプリントを後ろへ流す。
そして凪は、プリントがなまえの手に渡ったことを、プリントにかかった重みで認識すると、自分のプリントを一瞥して特に面白みもなさそうな内容だったために、再び突っ伏そうと試みた。が、なまえの「なぎくん」というこそこそとした呼びかけによってそれは阻止される。
「席の前後ろ、良かったら交換しない? たぶん、なぎくん背高いから黒板が見えにくそうで……」
そこで初めて、凪はのそりと後ろを振り返って彼女を見た。シャープペンシルを握った、なんかよくある髪型の生徒と目が合う。ああ、さっきの肩の感触は、その赤いシャープペンシルのノック部分だったのだろうと勝手に合点をいかせる。至ってフツーの女子生徒だと思ったが、凪からしてみれば白宝の女子生徒なんて、みんな揃って代り映えしないどんぐりのようなものだったから、参考にならない。
凪は、「俺、授業中寝るから問題ないと思うよ」と言いそうになったが、いや、これは素晴らしい提案だ、と思い直す。そして、「いいよ」と返事ひとつ、あっさりと承諾する。
後ろの方であればあるほど、教科書の影で隠密パンをしても、突っ伏して寝ていても目立たないからいい。それに、相手がそれを持ちかけてくるならこれ以上に都合のいいことなんてない。
「やったあ。ありがとう、なぎくん」
なまえは満面の笑みでお礼を言った。そして、授業中なのに思ったより大きな声が出たことに気づいたらしく口元を覆っていた。声が響いていないか確認するみたいに目をきょろきょろと右往左往に動かしている。彼女は結構まわりの目を気にする、まじめなタイプらしい。
ロングホームルームが終わると小休憩を挟んで夕礼になる。凪となまえはロングホームルームが終わったあとに再び席を交換した。なまえは黒板を指さしながら凪に話しかけた。
「なぎくん、席変わってもらったから、私が一緒になぎくんの名前も書いておくね」
俺の名前、一体なんの話だろうか。凪は理解できず、彼女の言葉に小首をかしげる。
「ああ、あの、先生自分の席のとこに名前書いておいてって言ってたから、そのこと」
凪はずっと船を漕いでいたか、突っ伏していたので身に覚えがなかったが、自分の意識の外では、担任がそんなことを言っていたのだなと理解をする。わざわざ前まで行って名前を書かなくてはならないなんて面倒くさいから、ありがたく甘えておこう。とコンマ一秒で決意を下した。
「じゃあ、おねがい。ありがと、」
「うん、ぜんぜん」
そしてなまえは名前を書きに、ひざ丈の、白く皺のないプリーツスカートを揺らしながら教壇へ上がっていった。彼女が名前を黒板に連ねるのをじっと観察するのは親切を持ちかけてきてくれた彼女への気まぐれだ。
大方席替えの話だろうが、彼女は途中二人の生徒に話しかけられて楽しそうにはしゃいでいた。しかし、はしゃぎながらも中腰になって、二つの苗字はゆっくり極めて丁寧に書き連ねられた。
「みょうじ」と、「凪」。横書きで縦に並んだ文字は少し角が取れて丸っこい。
みょうじさんか、と凪はここでようやく、初めてみょうじなまえの苗字を黒板の文字を通して認識する。なまえのつづった文字は、彼女の知らぬところで一方的に自己紹介としての様相をなす。凪の中でなまえは、親切でまじめというラベル分けがなされ、なんとなく覚えているクラスメイトのひとりとなった。
◇◇
席替えの日から数日を経れば、前の席に向かってしまい、「この席じゃなかった!」と落胆することもなくなってきて、徐々に今の席の感覚が染みついてくる。なまえはガラス越しに中庭に視線を漂わせれば、日ごとに紫陽花が咲きほこっていくのを見ることができる、今の席がすっかり好きになっていた。もうすぐすれば梅雨に入り、日の光が陰ってしまうのが残念だけれど。
現在は、4限目の物理の授業。担当の教師は相当物理が好きらしく、今日も授業は思わぬ方向に大脱線を遂げていた。なまえにはもうディティールを思い出せないが、前回はナントカ理論について熱弁していたし、ちょっと前にはニュートンのすばらしさを嬉々として語っていた。本日は物体と力についてが、授業内容だったはずなのに、初夏の日差しに感化されたらしい先生は、いつの間にか光と波について語り始めている。
先生はチョークで光を示した直線の矢印と、三角形を描いていく。そして描いた三角形の物体を指の関節でコツコツと叩き硬質な音を鳴らす。
「この物体はな、光を波長ごとに分けることができる。これはみんなも知ってるだろう。こいつの名前は――?」
そう言って先生は教室中をぐるりと見渡した。そしてなまえの方を向いてその視線が止まったので、なまえの肩はびくりと伸び上がった。しかし、指されたのはなまえではなく、その後ろですうすうと夢の世界へと呑気に身を浸しきっている男子生徒だった。
「んー、じゃあ凪」
プリントを後ろへ回したときに、受け取る手が伸びてきた試しはほとんどない。凪は後ろで寝ているに違いないと思っていたので、なまえはあわてて起こしてあげようと振りかえったが、それよりも先にガタッと椅子の引かれる音がしたかと思えば、なまえを覆うように影ができた。
「そーらーれい、です」
凪はまさに寝起きです、という有様で寝ぼけ眼のふにゃふにゃ声で回答する。教室中の視線が凪に集まるのを、凪以上に前方の席に座るなまえは、ひしひしと感じとる。
「おい、凪ぃ〜、アニメと夢の見すぎだぞ〜!」
と先生がおどけて言うと、教室にどっと笑いが起こる。
「これは、プリズムだ。プ、リ、ズ、ム。凪、いいか〜?」
凪はようやく目を覚ましたらしいが、悪びれもせずに「はーい」と気の抜けた返事をして着席をした。ガタリと再び椅子が引かれる音がたつ。凪は、起立した衝撃で倒れた、一限目、世界史の教科書を垂直に立て直した。凪の机上には多くの場合いつも、三限目、四限目まで、一限目に使われた教科書が居座っている。
「みょうじさん、どうかした?」
「あ、いや、……ぜんぜん」
なまえは、そこでやっと凪の行動の一部始終を奇行然としたものを眺めるように、じろじろ見つめていたことに気づき、頬を分かりやすく紅潮させて前に向き直った。
どうかしたもなにも、なぎくんはいつもどうかしているのではなかろうか――。
と、失礼を承知の上で考える。伝わらなければそれは考えていないのと一緒であるのだし、第一、凪に察しの良さが備わっているとなまえは思えなかった。
「――そう、プリズムは、白色光を色ごとに分散させるんだ。白色の光は大小様々な波長が混ざることで白色に見えているが、プリズムを通すと、不思議なことに、 波長ごとに分かれて虹ができる――」
教室の笑いの波はいつのまにか引いており、先生は説明を続けた。
憧れの白宝高校に入学して初めての席替え。なまえ緊張しながら、担任の自作らしい席替えのくじが入ったボックスの前に立った。でも、いくら緊張したってくじ引きなのだから、結果は変わるまい、と腹を決めて一思いに折りたたまれた一枚の紙を引いた。この紙切れたった一枚が、後ろで素っ頓狂な答えを披露した男子生徒、凪誠士郎と席を前後にしたのだ。
ぴょんぴょんと飛び出た白髪の動きは大変かわいらしいが、当人は大男であるのだからちぐはぐで。それがなぜかおかしくて、思わずくすりと笑ったことを思い出す。ノールックでも受け取るのにちょうどいい位置に差し出されたプリントにも、慣れているのだなと感心してしまった。
――凪くんを例えるなら、一体何になるだろう。凪誠士郎についてなまえはさらに考えてみる。
席を交換するまでの短時間に後ろから観察をした、机にうずくまるフワフワな頭は、いつか動物園で見た真っ白なうさぎのようだったけれど、長い腕でプリントをのっそりと回してくる様子は、人畜無害の草食動物、例えば、ゾウやキリンのようなものによく似ていた。でも、キリンは怒ると石頭で頭突きをしてくるらしい。何かの拍子に逆鱗に触れられることがあったとしたら、実は手に負えなくなるタイプなのだろうか。いやそもそも、草食動物は群れるから、なぎくんとはまるっきり違っているのではなかろうか――。
それじゃあやっぱり、凪誠士郎は未確認生物という外側のくくりに置いておく方がしっくりとくる。エイリアンと言うよりは、どちらかというとネッシーのように穏やかで、背中に乗りたくなるような感じのだ。
そうなるといよいよ、なまえには凪誠士郎が分からない。クラス中の皆も分からないと言うだろうから、前後の席になって間もないのに分かるわけないか、となまえは納得する。
知っていることと言えば、SNSアカウントを一つも持っていないらしくて、授業中は時々細々とパンを食べていて、その他は大抵寝ていて、休憩時間には横画面持ちのソーシャルゲームをしていることがある、ということくらいだ。誰とも繋がりを持とうとしない、いつもぼやぼやとして心情を吐露しない凪が、「眠い」以外、心の中で何を考えているかなんて知る手立てはなさそうだ。ひみつ道具でも手に入れないかぎり。
先生の話は、「スペクトル」に移っていた。ほとんどの生徒はノートをとらない。先生は一通り脱線に満足すると「ま。試験にはでないけど」と快活に笑い飛ばすからだ。
まだ授業はレールに戻ってきそうにないと判断したなまえには、後ろの席の男子生徒よりも目下一番大きな「友達と私の恋路」という悩みがあったので、それについて思考を飛ばすことにした。
凪の目覚まし時計は、授業終わりのリノリウムの床を、クラス中の椅子の脚が引きずった際にたつ鈍音の群れだ。しかし、平時4限目が終わってすぐに、ガシガシと後頭部を掻きむしりながら、綿毛のように教室を出ていく凪は、今日に限ってはなかなか起きず、なまえが机の上を片付けて、お弁当をリュックから出している間にも、机に頭を埋めたままだった。
結局、四限目の授業が平常運転に戻ったのは、残り二十分を残した時点だったから、当の内容はあまり進まなかった。
今日は昨日の夕飯の残りのメンチカツが入っているはずだ。早く食べたくて、なまえは奥に入り込んでいるお弁当の手提げ袋を引きずり出した。しかしその拍子に、隣に突っ込んでいた開封済みの飴の大袋がくっついてきて、リュックからこぼれ落ちた。
「あ、」
口を折り曲げたりして入り口をふさいでいなかったものだから、逆さになった袋から個包装の飴玉がリノリウムへ盛大に散らかる。後ろの席方向に飛んでいったせいで、袋に入っていたうちの半分くらいが凪の上履きの近くにばらまかれた。まるで足元に種まきでもしたみたいだ。
なまえが、どうしよう、と顔をあげると「あ」という声を拾ったことで意識を浮上させたらしい、薄目の凪と目が合った。
「あの、ゴメンなぎくん。飴、なぎくんの足元に結構落としちゃって」
「あめ?」
凪は自身の足元を見下ろした。確かに水色のキラキラとしたパッケージの飴玉が散乱していることを確認する。
「あー……、盛大にやってるね」
すると、そのままゆったりと上体をかがめて、その辺に点々と転がった飴をショベルカーのようにわしゃ、とつかんだ。思っていた倍くらいの範囲の飴玉が手のひらに吸い込まれ、びっくりしている間に、ずいと、握り拳がなまえの目の前に差し出された。
「あ、ありがとう」
随分と大きな手だ。なまえは両手を皿のようにくっつけて飴玉たちを受け取る。凪は、なまえがそうしてやっと受け取ることのできる量を一気につかみ上げていた。
「いいよ、ぜんぜん」
それから再びかがんで拾おうとする凪を見て、なまえは飴玉を大袋へ大慌てで流し込み、床に落ちた飴をかき集めた。本当は凪に声をかけて、足元を失礼してもいいか許可だけをとろうと思っていたのに、これでは凪に拾わせているみたいだった。凪くん思ったよりぜんぜん優しいんだな、と失礼のあることを思いながら、なまえは認識を塗りかえる。
結局、「なぎくんゴメン!」となまえが小声で二回くらい謝る中で、凪はなまえよりずっとたくさんの飴玉を拾った。「もうないよね」という言葉になまえがうなずいたのを確認すると、すくっと席を立ってどこかへ向かおうとする。
「待って、なぎくん」
なまえは手を伸ばしてそれを引き止める。凪は、キョトンとした顔で振り返る。
「よかったら。拾ってもらったお礼」
なまえは仕舞わず手の内に持っていた一個の飴玉を、てのひらに乗せて凪へ差し出した。
「スースーするやつだから、もしかしたら眠気覚ましに、いいかも」
凪はいつもと同じ、キョーミない、みたいな顔をしたままだったが、「じゃ、ありがたく」と飴玉をつかんだ。やっぱり凪が持つと、飴玉がずいぶんと小さなものに見える。
「シュワシュワソーダ味」と書かれたファンシーなパッケージの飴玉は、案外凪に似合っていたものだから、なまえは口角がニマニマとゆるみそうになるのをこらえた。
◇◇
午後からは空模様が急に崩れ、晴れ空の鱗をはがすように、しとしとと雨が降った。
男女別の体育は女子も男子も屋内となったが、さすがの私立白宝高校だ。離れにある小体育館と銘打っている方の建物も十分な大きさがあったために、窮屈することなく授業を受けることができた。だが、凪は急遽屋内に変更となったイレギュラーをいいことに、ここぞとばかりに上手くサボることに成功する。ラッキー。
最終の六限目、黒板の端の時間割では「6限目:数学」と白いチョークで記されているが、それは凪に対して意味をなさない。凪の夢の中では黒板の時間割は、「6限目:睡眠」と書き換わる。凪は、最後の最後まで、夕礼が終わっても、数学の教科書で築いた要塞の内側で、堂々たる惰眠をむさぼった。
凪は、昼前の夢を、おそらく地続きのようにながく見ていた。
四限目、凪は教室の一角で、瞼の裏の宇宙戦争を繰り広げていたはずだった。国民的人気ロボットアニメ、そのパラレルワールドで。
しかし、教師の差し指ひとつ、凪は現実の世界に引き戻された。笑いの渦が鼓膜を破って、凪は、あ、やらかしたな、と他人事のように思う。そして、本当は恥をかいたことを後悔すべきであるところを、結構いいところだったのに、と見当違いなところで深い後悔をしていた。
そのとき、前の席の親切でまじめな「みょうじさん」とは、取るに足らない言葉を交わした、ような気がしている。
先生の差し指という危機が去ると、凪は再び脱兎のごとく突っ伏した。その後、突然やってきた四面体の異物――プリズムによって、瞼裏の宇宙戦争の戦況は一変。一筋のビーム光がプリズムに吸い込まれて、そこから四散して、視界はグラデーションの虹色に塗りかわってしまった。宇宙の濃紺は、跡形もなく消え失せていた。
随分変な夢だったような気がする。が、そのあとの内容は全くもってよく覚えていない。見ている間は鮮明で、醒めた後はおぼろげで。夢とはそういうものだ。
それから、昼休みのために起き、飴玉の清涼感に頭を冴えわたらせながらゲームをして、体育をテキトーに受け、また寝て――。変な夢を、まだ見ている気がする。
――パタパタ、と上履きが床を叩くみたいな音がして、止んだ。それがあまりにも現実じみた音だったので、凪の意識は夢から引きはがされた。足音が止んでからは、何の物音もしない。
凪は放課後の教室であることに気づき、あー、ちょっと寝すぎたな、と思った。今更起きて帰る動作すらも、正直面倒くさいのだが、いつまでも学校にいられるわけではないし、家のベッドに寝そべってゲームをしたい。凪がいつもと変わらない極めて平和的な思考で、椅子を引こうとした直後だ、グスッ、と鼻をすする音が聞こえた。凪は素直な驚きを覚える。
凝った体をねじって後ろを振り返ると、教室の奥の後ろ隅、つまり凪の背中側で顔を両手で覆ってうずくまっている女子生徒を見つけた。間違いなく泣いている。
――俺が泣かせた? いや、今さっきまで寝てたよね、俺……。こんなところで泣かれるなんて気まずいし、というか、めんどくさいな。ここで誰かが教室に入ってきたら、俺が泣かせたみたい見えるかも。冤罪ふっかけられそうだし、そうしたら誤解を解くために説明しなきゃいけない。それって死ぬほどめんどくさくない?
凪がガタッと椅子をひいた音で、女子生徒がビクッと肩を飛び上がらせた。
「どうしたの。俺、邪魔だよね、帰った方がいい?」
きっと第三者からしてみれば、おおよそ泣いている人にかける言葉ではないと批判されるだろう。自分は泣いている他人に接するために十分な責任感ややさしさは持たない。親しくもない人間が下手な心配や慰めをするよりもいい、という凪なりの善意だったのかもしれない。
女子生徒がゆっくりと、ぐしゃぐしゃの顔をあげた。頬がべちょべちょになっており、人中のあたりが濡れている。そこで凪はやっと、彼女が「みょうじさん」であることを認識した。「なぎくん」の形に口が動いた気がしたけど、音としてはうまく聞き取れない。
「ご、ごめんなさい、こんな、ところで……」
彼女は謝ったけれど、凪には謝罪される理由が思い当たらなかった。これはどう見ても不慮の事故だった。たぶん、彼女も咄嗟に駆け込んだ一見無人そうな自分の教室で、寝ている人がいるなんて思ってもみなかっただろうし、と凪は考える。
「別に、謝られても困るし」
「そ、そうだよね……!ごめ」
「みょうじさん何にも悪いことしてないし」
なまえが可哀そうなくらい申し訳なさそうな眉をして、また「ごめんなさい」と謝りかけるから、凪はそれを遮ってそう続けた。
「……」
「いた方がいいならここにいるし、いない方がいいなら、俺、もう帰るし。みょうじさんが選んで」
なまえは、しぱしぱと涙濡れの目でまばたきをして、驚いた顔で何度も凪を見た。そして、ぎりぎり聞こえるくらいの声で言った。
「ここに、いて、ほしい……」
「わかった」
心地いいというにはなれなれしく、気まずいかと言えばよそよそしい沈黙が流れる。凪にはかける言葉があるわけでもなく、なまえもまた、言葉を見つけることができなかった。しばらく、なまえが涙をぬぐったときにたつ、服や肌が擦れる音や、鼻をずびずびすする音以外は無音の空間が続いていたが、その終止符を打ったのは、廊下を歩いてくる人の会話だった。
遠くで聞こえる男女の声をとらえ、はっと凪を見た彼女の顔はみるみる青ざめていく。みょうじさんって、ほんと、コロコロ表情が変わるなぁ、と凪は、半ば物珍しいものを見た気持になる。まるで仮面を一瞬で変える曲芸師のようだ。
「どうしよう、ユリちゃん、荷物取りに来たのかも……」
なまえは、追っ手から隠れる場所を探すかのように、きょろきょろと辺りを見渡し始める。凪は、さっきよりも随分と近づいた男女の声に、「いつから好きだったんですか?」 「んー、いつからだろうね」と、まるでくっついたばかりのカップルのような会話を聞いた。
凪は、咄嗟に長いリーチの腕を伸ばし、大きな手でなまえを掴んだ。「えっ、ちょっ」と、たじろぐなまえに構わず、彼女の小さな体を、凪の席の隣、レースカーテンの裏側へ引っ張った。
「なぎく、」
「静かにしてて」
唐突で強引な行動に対して不安げななまえの目を見て言い、凪はなまえの姿を隠すようドレープカーテンを引いた。
修羅なんて面倒くさいから、まっぴらごめんだ。自分の寝たふりがフリだと気づかれるわけがない。いつものことだ、くらいに思われるだけだろう。凪は突っ伏した。
丈の短いカーテンじゃ隠れきらない足の部分は、凪の大きな体でちょうど隠れている。息を詰める音がした気がした。
「そっか、じゃあ、その時にはすでに気になっててくれたんだ」
「そうだねぇ、結構前から」
機嫌のよさそうな人間が二人教室に入ってきた。入口の割と手前側の席で、足が止まったことに凪は安堵する。正確なことは分からないが、彼女の言った通り、荷物をまとめて帰るらしい気配がする。
「そういえば、友達のなまえちゃんは良かったの? いつも一緒に帰ってる」
「今日は用事があるから先に帰るって、言ってたんです。ん、あれ? 荷物置いたままじゃ、あー! なまえ、あの子気使って先帰るって言った〜!」
「はは、すごい優しいじゃん」
「なまえはすごく優しいですよ。なまえに一番にちゃんと報告しとこうっと……」
そして、軽やかなタイプ音と、送信音が教室に響く。そのあとに遅れて、カーテンの裏側でバイブ音が鳴った。布が擦れる音がして、凪には、彼女が動揺をしているのが分かった。彼女なら、意味があるのかはともかく必死に息を止めていたりしそうだ、と思った。
それから凪は、あれ、と思った。彼女は、そういえばクラスメートから、「なまえ」と呼ばれていた。彼女のフルネームはみょうじなまえだ。凪の中に今まであった、もしかして、の全部が確信に変わる。
「それじゃ、行くか」
「あ、待って先輩―! その荷物わたしのなんだから、わたしが持ちますって――」
二つ分の気配が遠のいていく。もしも、今日の帰り道の空に虹がかかっていたなら、あいつらの仕業だ。
さっきまでの懸念は、初々しいカップルの前では、見事なまでにただの杞憂に終わった。これでとりあえずは何とかなったらしい。
なまえがカーテンからおそるおそる顔を出した。窓の外は本当に雨が上がっていて、眩しい光が凪の目をさした。
「助けてくれて、ありがとう」
まだ青い顔でなまえはお礼を言った。凪は、さっきの確信を躊躇なくぶつけた。
「失恋、したの?」
「ほんと運悪いなぁ。バレちゃったね。見事なまでの失恋」
やや不躾ともいえる、ストレートすぎる質問だったが、なまえは眉を八の字にして言った。
「……そう」
それから、ぽつりぽつりと凪に聞かせるように言葉を語りはじめた。
「……私もユリちゃんも先輩のことが好きだったんだけどね、先輩は多分ユリちゃんのことが好きで。……だから、ただの憧れだったって、うそ、ついちゃった。私に気遣って、ほしくなくて……」
「そしたら、今日のお昼、ユリちゃんが、放課後、先輩に呼ばれたって話してくれて。……そのときに、ああ、今日、付き合っちゃうんだろうなって思った。本当は今日、直接ユリちゃんにおめでとうって言おうと思ってて……午後の授業中にシミュレーションもしてたんだけどね、実際放課後なってみたら、すごく……なんだろう。悲しくなってきちゃって……」
凪は無言でいた。なまえはうつむいて、上履きのつま先あたりを見つめていて、話も詰まり詰まりだった。が、そこまでで一度言葉を切って、凪の方を向いた。
「私ね、泣くほど先輩のこと好きだったの」
彼女は笑った。それを凪はしっかりと見た。つゆに濡れた花びらのような瞼が、てらてらと光っていた。
「苦しいくらいに本当にね。でも、先輩とユリちゃんが幸せならいいんだ」
「あの、なぎくん、お昼寝の時間邪魔してごめん。あと、いっぱい話しちゃってごめん。もうだいじょうぶだよ」
なまえは、失恋がばれたことに半ば自棄になって、自分の恋の全貌を話してまったことへ、申し訳なさは抱いているらしいが、意外にもすがすがしい雰囲気でいるように見えた。本来は、全部隠して持っておかなくてはいけなかったはずの感情を吐露できたのだ。相槌もうたず、聞いているのか流しているのか分からない。凪の適当さや気遣いのなさが、彼女にとっては逆に良かったようだった。
「……いや、起こしてもらえてちょうどよかったからそれはいい」
「そっか。……なぎくんって優しいんだね」
「……俺が?」
「うん。優しいよ。なぎくんが」
何について彼女が優しいと言ったのか分からなかったが、凪は、お門違いではないか、と思った。なまえを匿ったのも、全ては面倒くささを回避するための行動だった。凪が、ここにいるべきか帰るべきかの選択を彼女に委ねたのも、お昼に彼女にもらった飴が、ゲームの勝率向上に一役買ったことを思い出したからだ。なのに、彼女は「優しい」、とよどみなく言った。それが凪には妙な心地だった。凪は、そそくさと、「そ」と短く返答する。
「ありがとね、なぎくん」
「別に。もらった飴のおかげでゲームの勝率あがったし」
「ええ、でもそれはお昼に飴拾ってもらった分のお礼だし……」
お礼を言われる筋合いもなければ、気を遣われる理由もないのだが、どうにもなまえは些細なことを気にする性分らしい。凪は、釣り合いをとろうとずる彼女を納得させる方法を、顔の筋肉を使わずに思い悩む。
「じゃあさ、飴、明日もちょうだい」
「えっ」
なまえは、凪が欲求をのぞかせた珍しさに目を見開く。
「あのすーすーする飴。ゲームうまくいくから」
「うん……! もちろんだよ!」
「じゃあ、俺帰る」
凪は、立ち上がってリュックにぽいぽいと持ち物を適当に投げ込む。こう立ってみると、彼女は自分より随分と小さかった。なまえは、窓辺に突っ立ったままだ。凪は「帰らないの」と聞こうと、なまえの方を向くと、「あの」となまえが言う。まだ言いたいことでもあるのだろうかと、凪は思う。
「あの、……教室にいたのが、なぎくんで本当によかった」
彼女は、いつのまにか凪に雨上がりのような笑顔を向けていた。これが、本来の彼女の笑顔なのだろう。
「みょうじさんって、すんごい表情が騒がしいね……」
「それって、どういう意味……⁉」
「思ったことそのまま言っただけ。サーカス見てるみたい」
「サーカスって……」と、なまえは目を白黒させたので、サーカスって悪くない例えだな、と心中で自画自賛しながら、リュックを背負う。先程まで様々に顔色を移り変わらせていたのだ。なまえにも思い当たる節があったらしく、それ以上は黙り込んでしまった。
「じゃ、帰るから」
「あ、うん。 なぎくん、ばいばい!」
「ん。ばいばい」
ばいばいなんて言葉、本当に久しぶりに口にした。凪がオマケみたいに手のひらを向けただけで、なまえはまた花みたいに破顔した。
どこかで、チカ、と何かが一瞬光った気がした。ただの有彩色だったような、虹色だったような。だが、凪にその感情に名前を付けてやることはおろか、拾い上げることも、掴むこともできぬまま、それはもやの中に埋もれて沈んでいく。もはや、手を伸ばしても、もやをつかむだけだ。底光りしていたはずのその「何か」は瞬く間に消えおおせた。
周囲へ一体化するように霧散してしまえば、それが一等の輝きを放っていたとしても、ただの忘れ過ぎ去った感情の一部になる。
「また明日!」
なまえが後ろから声をかけたのを、目だけ合わせて返事する。凪は、今日は全体的に悪い日ではなかったなと帰路についた。