じめじめとする気がするのは、実際に湿度が高いのか、はたまたは夜の余韻がまだ尾を引いているからなのか。コップを傾けて透明な水を喉へと流し込み、目を凝らした。だが、キッチンの湿度計は暗さでよく読めない。別に正確な湿度を知りたかったわけではないので、まぁいいか、と私はまた水を飲み干した。
なぜか、無性に糖分が欲しい気持ちになっていた。水なんかでは足りない。うんと甘くて、思い切り透明で、喉元をよどみなく流れる、それこそサイダーのような。私は、ずっとずり落ちていたキャミソールの肩ひもを元に戻しながら、コップを流しにそうっと置いた。
部屋に戻ると、さっき私を平らげた男が起きていた。シーツの擦れる音、夜に浮かぶ締まった半身、影がかっていつもよりいくらか暗い色彩をした、気だるげな眼。それらが凛の存在を主張していた。私が彼を起こさないように、注意を払いながらこそこそベッドを抜け出したのも、コップをゆすぐのをあきらめたのも、あまり意味をなさなかったようだった。
シーズンオフとなり帰国した凛は、一時期、鎌倉の実家に顔を出していたこともあったが、私のひとり暮らしの家で何日も寝泊まりを続けており、もうすでに、長い時間を一緒に過ごしていた。
「何時だ」
凛の寝起きはそこまで良いとは言えない。他人が聞いたら萎縮してしまいそうな声色で彼は聞いたけれど、「機嫌が悪そう」に見えるのは彼の平常運転の範疇なので、いつも通りの会話をする。
「二時十五分くらいだよ。凛、起こしちゃってごめんね」
湿度計は読めなくても、時計は起き抜けにスマートフォンで確認をしたのだ。
「……いい。どっか痛てぇのか」
「痛くないけど。どうしたの」
痛いのか、という凛の問いの狙いがめっきり分からなくて、首をかしげてみたものの、私はすぐに思い当たることに突き当たった。帰国初日のことを思い出して言っているのだろう。この男は力加減というものを知らず、その日、彼は私を抱きつぶしのだ。
九十分をフルでピッチに立ち続けることのある彼と私、その体力と体格の差はばかにならないし、大したことはないと甘く見ないでほしいと思う。翌朝、ではなく、太陽が南へ昇りきった時間に目を覚ました私は、体中の、なぜそうなったのか分からない痛みに涙目になることになって、凛に文句を垂れたのだった。当の本人は、肌つやの良くすっきりとした、余裕のかんばせをしていた。そしてそのかんばせを清々しい雰囲気のままわずかにゆがませ、私の文句に対してぼそぼそと不服を言った。
そういう小さないさかいがあって彼は思うことがあったらしく、それからは、彼なりにやさしく触れてくる。だから、大抵の服で隠れる場所に刻みつけられた、所有欲をそのまま咲かせたような赤黒い鬱血痕くらいは甘く見るのだ。私はベッドの上に腰かけて聞いた。
「ちょっと飲み物買ってきていい?」
「水飲みゃいいだろ」
彼は、ベッド脇のペットボトルを顎で指した。見ればまだ水は残っていた。そういえば、そこにペットボトルを置いていたのだった、と今更ながら気がつく。だけど中身はもうすでに、夜を泳ぐぬるさと溶けきっているのだろう。ペットボトルを見つめるだけの私に見かねて、凛は腰を浮かせて腕を伸ばした。けれど私の言葉で、ぴたりと腕の動きが止まる。
「サイダーが飲みたくて」
「あ? んなもん、水と変わらねぇだろ」
それは今の今に証明済みなのだ。無機質な水とサイダーの甘さが全く違うものだというのは。
「どう考えても違うでしょ。似てるのなんて色くらい」
「はぁ? 寝ろよ」
凛は顔をしかめ、ペットボトルを掴みかねて手持無沙汰手になった腕で私を引きずり込もうとした。
「どうしても飲みたいの」
「今何時だと思ってんだ」
「だから、二時過ぎだってば」
一回転しふりだしの質問に戻っている。彼はたぶん、まだ少し寝ぼけている。
「……危ねぇだろ」
「日本はそんなに治安悪くないって。コンビニ、家出て目と鼻の先だよ」
「ダメだ」
そもそもいつも行ってるし、と口をついて出そうになって、慌てて閉口する。余計なことを口走ることで、火にさらなる油を注ぎたくなかったので、代わりに「なんで」を返す。
「他の人間がお前のこと見るだろ」
「この時間誰も歩いてないよ」
「店員がいるだろ」
だいたい、一歩家から出れば二人だけの世界じゃあるまいし、と思う。老若男女誰の目にも触れさせたくないとでもいうのだろうか。
「じゃ、じゃあ、自販機に買いに行く」
「あ? ここら辺にねーだろ」
「テキトーなこと言うじゃんか……」
ここからコンビニより近い場所に、実際自販機なんて存在していないけれど、凛は自販機のことを考えながらここら辺を歩いたことがないだろうから、絶対デタラメを言っているのだった。
ああ言えばこう言う。言葉の往来が続いているので、「ああ言えばこう言う」というのは私にも言えることだけれど、凛はとにかく行かせたくないらしかった。
私は息を吐いて、床に渦を巻くように放置された凛のティーシャツを拾い上げ、頭からそれをかぶった。ティーシャツの内側にいる間中、洗剤のにおいとは違う彼のにおいが鼻を刺激した。襟ぐりまで広く、体は簡単にすっぽりと包まれてしまう。太ももを半分も覆う丈感を確認して、大きくていいなぁ、とにやつく顔を感じながら、顔を上げる。
「じゃあ、凛の着てコンビニいく。男の手垢ついてるって分かれば凛も安心でしょ。どう?」
「――っ、もっと、ダメだ」
凛は感情を押し殺したような顔をして、「着んな!」と私の着るティーシャツを引っ張った。
「こら、自分のティーシャツ引っ張らない」
「うっせェ、とっとと脱げ」
「暴君!」
私たちは、ぎゃあぎゃあと深夜に似合わないひと悶着をした。少し凛の顔は紅が差しているみたいで、ティーシャツを着られてそんな反応をするなんて、可愛げのあるひとだと思う。間違っても本人には言わないけれど。
凛は、エレベーターに乗っている間も、夜間にだけ切り替わるボタン式信号機の固いボタンを押しているときも、過剰なセコムのように後ろにべっとりとくっついていた。あのひと悶着のあと、私は大きなティーシャツをしぶしぶ脱いで、凛が「行くぞ」と言ってくれたから、自分のものを拾い上げて身に着けたのだった。
熱気のこもった屋内に比べて、外は生暖かいが風が吹くぶん、本当は涼しく感じられるのだろうが、凛にこうもひっつかれてしまえば関係がない。凛は、代謝が良いおかげで私よりやや体温が高い。だから逆に、凛にとっては私の肌が心地よく感じられるのかもしれない。
「凛、暑苦しい」
車道側の信号が黄色に切り替わったのを横目に、私は凛から距離をとった。そして、何か言われるより先に凛の指に私の指を絡ませた
「だから、手繋ぎたい」
接触面を減らすための提案ではあるが、こういう触れ合い方も付き合いたてのカップルのようでいいなと思うのだ。恋人として隣にいることが漠然と当たり前のようになってから、存在を確認するみたいに手のひらを触れ合わせることなど、久しくなかったような気がする。口の素直でない男は、煩わしそうにため息を零しながらも、ずいぶんとおとなしく、座りのいい位置にくるように手を握り直し、それからやさしい強さで握りしめた。
夜特有の閑散とした雰囲気の漂う住宅街で、いちばんの輝きを放つコンビニエンスストアの自動ドアをくぐれば、聞きなれた入店音が鳴る。店員はバックヤードに引っ込んでいるようで、レジは無人だった。
奥の冷蔵ショーケースに向かう途中で、カップラーメンやスナック菓子が私を誘惑する。私が思わずお菓子のプラスチック袋を指で引き出してしまったので、後ろからはドスの効いた声がした。
「太るぞ」
「ばか、デリカシーなさ凛」
「俺は食べない」
「そっか、じゃあやめとこ」
彼は食事もトレーニングの一環だと、食べるものや量、時間にはかなり気を使っている。凛の前で深夜憚らずお菓子を食べるなんて、さすがに忍びなかった。すんなり戻そうとする私に、しかし凛はまた不機嫌そうに言う。
「別に、買えばいいだろ」
「さっきと言うこと違うじゃん」
「俺が食べないだけだ。勝手に買やいい。俺が奢ってやるんだから」
「凛、奢ってくれるの? やったあ」
奢ってやる。その響きに対して、安直にすごく魅力的だと思ってしまった。それだったらコンビニスイーツがいいかもしれない。私は、お菓子を戻して奥のドリンク用のショーケースへ向かい、中のサイダーを引き抜く。凛も隣の棚からミネラルウォーターを手に取った。それからレジ手前のスイーツコーナーまで回り戻って、陳列棚のラインナップを見渡す。プリン、ティラミス、抹茶パフェ――、ロールケーキはちょっと重いだろうか。
「どれにすんの」
「ううん、……どれがいいと思う?」
「お前が好きなの」
「どれも好きなんだよねぇ」
私は参考にならない返答にうなってから、ちょっと高めのミルクプリンを掴んだ。
二人でレジへ向かうと、バックヤードに引っ込んでいた、コンビニの制服の男の子がやってくる。日が変わった時間帯によく勤務している子で、彼は私の方を見るなりぎょっとした。私に、というより断然、後ろの男に。
凛はまた、私にべたべたくっついていた。彼は、レジカウンターと自分で私をサンドするよう立って、男の子が商品のバーコードをスキャンしている間に、両脇から腕をもってきて財布を広げた
私は居心地悪そうな表情の男の子と目が合った。後ろの恐ろしい男は、もしかして、彼にガンでもつけてやしないだろうか。アルバイトの男の子はとても挙動がぎこちない。私は凛と密着する背で、威嚇する獣のような雰囲気を感じ取っていた。男の子の、「税込みで、五百三十二円になります」の声がかすかに上ずった。
挙動不審の男の子と、憑き物のような凛とで、板挟みの状態になっている私は、謝罪を込めた視線を向けながら、冷や汗を噴きあがらせていた。千円札のおつりは、私が男の子から受け取って浅い会釈を返し、凛に押されるような形でコンビニを出た。
男の子の挙動がおかしかったのは、果たして男がフランスのリーグで活躍中の糸師凛だったからなのか、凛のあまりの圧にひるんだからなのか。あるいはその両方なのか、私には知る由もない。けれど、凛には大人げないとたっぷりの罵りをあげるべきだ。
家に帰って、私は一番にキッチンの照明だけを点け、冷蔵庫に買ってもらったスイーツ入れ、サイダーの蓋をひねった。シュッ、と清涼感をふんだんに含んだ、炭酸の弾ける音を聞いて、サイダーをたっぷり一思いに嚥下した。これこそが私が欲して止まなかった、甘くて、透き通った味。ペットボトルを傾ける凛の喉が、隣で色っぽく鼓動する。
「買ったヤツ、食べねぇの?」
「この時間太るし、やっぱりちょっと眠いし、また起きてから」
この気まぐれ女、とでも言いたげに、男は片目をぴくぴくとひくつかせた。
「凛も飲む?」
「いらねぇ」
ペットボトルの飲み口を向けて聞いたけれど、私の提案はあっけなくはたき落された。そして代わりに捕食にも似たキスをくれる。私の緩い口はあっけなく舌の侵入を許した。私の舌の上は彼のべろで蛇のような動きで擦られ、どろりと抜き出される。
凛は「甘」と一言つぶやいて、その舌で自身の唇を舐めた。水とサイダーが一緒なものなわけがないのだ。ターコイズの瞳の水面には、渇きが揺らいでいた。凛は私の背後に歩を進め、私の服の中にするすると手を差し入れた。腹をゆっくり上へなぞられて、背骨に沿って淡い電流がめぐった。
「ね、凛」
「お前が煽ってた」
凛は片手で私の太ももを掴んだ。凛のティーシャツの裾は確かそのくらいの位置にきていた。私は、「えー」と形だけの非難を口にする。
「とぼけんなよ」
「根に持ってるね」
どうやら、サイダーを飲みたい、という私のわがままに付き合うために、彼は猶予と慈悲を与えてくれていただけ、ということらしい。ふと、目の前の湿度計が目に入った。キッチンの電球に照らされた針は高くも低くも振れていない。それなのにやっぱり湿度が上がった気がするのだ。触れた肌と肌が吸い付いて気持ちよく、じれったい。私はサイダーの蓋を緩く締めて、調理台に立てた。
「優しくしてね」
まさぐられていた手の動きが止まり、私はワードチョイスを誤ってしまったかもしれないと思う。彼には犬のような従順さは備わっていない。むしろその逆もいいところだ。そして猫ほどの無頓着さもない。
肯定の意のではない沈黙の後、「さぁな」と言った凛の熱い息が首筋にかかった。めまいがする。私は目を閉じて、甘んじて受け入れることにした。