どれほど華美な装飾を施してもそれに見劣らない格別の容姿をしているけれど、全てを引き算した彼は一等美しいのではないかと思う。ややはだけたミルク色のシーツだけを纏い、私の隣で男が寝息をたてていた。
カーテンの隙間からこぼれる、まっさらで清潔な朝の光が木漏れ日のように寝台の上に広がっていて、今日がよい日和であることを知らせてくれている。昨日の天気予報は大当たりだったようで、寝具一式を洗濯機にかけ、太陽の下に干すことは予定通りにゆきそうだった。
人魚の尾のような、二房だけ長いロイヤルブルーのグラデーションがかかったブロンドの後ろ髪は、重力に従って垂れ下がっている。男は私に物言わぬ広い背中をさらしていた。顔は見えない。私は腰を折って起き上がり、横顔を覗き込んだ。
額まですっと通る鼻が薄灰の美しい影を落とし、横から見た時に頬骨がつくるカーヴは、神さまの芸術品のようだ。彼の気分によって騒々しく具合を変える眉の形も、今はやさしく眠っている。いくら見慣れていようが、私は何度、どんな角度でこの男のかんばせを見たとて、美しいと思い、愛おしいと思うのだろう。
「お前は俺の寝顔を眺めるのが好きだな」
いつか、私がちょうど今と同じように横顔を眺めていた際に、目を覚ました彼にそう言われたことがある。
綺麗なものを好きじゃない人間なんているのだろうか、と私は思わず問いたくなった。
「穏やかな顔をして眠るんだなと思って」
「……俺が人の隣で寝て深い眠りにつけるのは珍しいんだ。それにむしろ、お前といるときの方が目覚めがいい」
「私はミヒの抱き枕か何かなの」
「なんだ、勝手に曲解して拗ねるな。それだけ愛しているということだよ。ハージィ。もしお前に捨てられでもしたら不眠症になりそうだ。これは選手生命に関わる死活問題だからな」
いつか、口説き文句とも、大げさな脅し文句とも取れるような、妙な愛の言葉を大真面目に吐かれた朝もあった。私は、小さなウサギを意味するハージィや、宝物を意味するシャッツということばで彼から呼ばれるのが割に好きだった。不眠症になるだなんて嘘だか本当だか。きっと、それは大げさな誇張なのだろうが、男のストレートな愛の科白を、嘘偽りないと誓うようなコバルトの真っ直ぐな瞳で吐かれてしまえば、気がよくなってしまうのは致し方ないことだ。
彼がコートで身に着けたユニフォーム、彼の直筆のサイン入りスパイク、栄誉のハットトリックを決めたときのサッカーボールにだって適わない。私の隣のミヒの寝顔には、どんなプレミア品にも勝る価値がある。
まだ休日は始まったばかりだ。私はこの皇帝のような男の、健康的でひそやかな寝息や、体の些細な上下が愛おしくなったので、彼を起こさないように注意をはらいながらもう一度ベッドに体を預けることにした。
記憶はおぼろげだが、昨日の最後は向かい合って寝たはずである。人は寝ているうちに幾度も寝返りを打つ。だから、この状態はその途中の過程にすぎず、あといくらか目を閉じれば、私は彼の腕の中で目を覚ますかもしれない。けれど今は、そっぽを向いて私をほったらかしにしている男が憎らしくあった。
隆々とした筋肉に覆われた背に生えた、羽にもよく似た肩甲骨、その間を、なだらかな線を描いて走る背骨。それがひどく神聖なものに思えて、私は背骨の窪みの上を、うなじの下から腰元まで人差し指でゆったりとなぞってみた。肩甲骨を結ぶように横線を描けば、まるで十字架のようだ。そう思った私は、横線を描きながら、私を放ってそっぽを向いているという、小さくも黙認のできない重罪を着せた。それ以外にもたくさん、彼には罪深いところがあるのだけれど、その話は今日のところでは割愛するということで。
そうしているうちに彼の美しい背を見るのは案外悪くはない、むしろ良いとさえ感じられた。彼は背面まで格好いいのだ。青々としたピッチを、澄ました顔で駆けるミヒの背はひどく遠く感じるのに、今この瞬間、文字通り目と鼻の先に彼の剥きだしの背中がある。そのことに、空に足をつけ、逆さに歩いているかのような不思議な気持ちを覚えた。私は花の中心にひかれる蜜蜂さながら、背中の窪みへ吸い寄せられるようにゆっくりと唇を寄せた。
しかし、そのいいところで、彼の寝返りの瞬間がきた。私は虚しくも、彼のうんと逞しい胸板にダイブした。くぐもった間抜けな声が漏れる。私は、彼が目を覚ましていることに気づけなかった。
「おはよう、ハージィ。そんなに俺の胸が恋しかったか」
彼は私を呼び、額を覆う髪をどけてくすぐったい一枚の羽毛のようなキスを落とした。
「ミヒ、おはよう。やっと起きた」
私も以前と比べればずいぶんと積極的になったと思う。首を伸ばして私よりも高いところにある彼の頬にキスを返し、ミヒが起きたのなら、と私は今度こそ起きる意思をもって体を起こした。
「ミヒも起きて、今日はシーツを外に干す予定だから」
「さっきまでクソ誘ってきていたクセにか?」
ミヒは枕に頬杖をつき、王冠を宿した手で私の腕を絡めとった。彼は私が先程、背筋やらを指先でなぞっていたことを言っていた。一人で眠るのがこわい子供が甘えるように私に縋るミヒはしかし、離してくれる気はなさそうな、芯のとおった表情をしている。
「いつから起きてたの」
「クソ執拗に撫でられるから、背中にお前の名前を彫ってもいいかもしれないと考えていた」
彼は愉快そうに笑いながら、暗にずっと前から起きていたことを知らせた。
「背中に私の名前を」
「どうだ?悪くないだろう。まあ、その前にお前を美味しく頂こうとも考えていたが」
「そんな、朝から誘ったつもりは無かったんだけど」
「じゃあ、その指一本がどれだけ俺を煽ったのか、なまえ名前には自覚が必要だな」
そう言うなり、ミヒは私の手のひらに指を滑らせ、やわやわと感触を確かめるように触れた。
いつもそうだ。昨夜、私がどれだけ無我夢中で彼の熱に浮かされていたかを、饒舌に、事細かに語られ、流されるがままの延長戦が始まるのは何度もやったことだった。
まるで、陶器のシュガーポットに入った満杯の砂糖をひっくり返したみたいに甘くむせ返る朝。それが嫌とも好きじゃないとも言えないのだから困ったものだ。そして結局、私は、平均を優に超える彼の体力についていけるはずもなくどろどろに溶かされて、午前中のまともな活動を許されなくなる。
「やだ。今日は絶対洗濯するから」
「お前のヤダはイイだろ、なぁ」
彼は手のひらを弄ぶことに飽き、夜と同じ湿度で腕に指先を這わせ始める。触られている部位はいかがわしくもなんともないというのに、清廉な朝の空気を押しのけるようにして、寝台の上に夜の香りが漂った。そして、それに飽き足らず彼の手は腰のくびれへ伸びて。――ぅぐ、というような情けない声がした。
目の前を塞がれてくぐもった間抜け声を出したのは、今度はミヒの方だった。私が枕の端を彼の顔に押し付けたのだ。私に触れていた彼の手はぱっと逃げる。
「おい!なにしやがる」
「ばかミヒ、しつこい。今日はどうしても外に干したいの!」
彼の眉間には、峡谷のようにくっきりとした皺が作られていたが、私はそれに負けてなるものかと視線で対抗をする。ほどなくして、眉間に刻まれた皺がほどかれていき、彼は折れた。
「……ハァ、全く、俺の顔を潰しても許されるのは#なまえ#だけだぞ」
「ふふ、特別待遇ありがとう」
まだやや不服そうな表情を向けているミヒの、首が傾いているせいで顔の半分覆ってしまっているブロンドへアを上へ寄せてやって、私はもう一押しする。
「ねぇ、私のミヒ、今日の夜は私、お日様で乾かしたばっかりのシーツで寝たいの」
私はミヒに弱いが、対する彼も大概だと知っていた。彼は両手を顔の横で広げて、降伏を示した。
「ハイハイ、降参してやるよ。仰せのままに。がっつかなくてもお前はどうせ逃げない。その代わり今夜は覚えておけよ」
ミヒは飢えを主張するように唇をべろりと舐め、やっと体を起こした。
プリンセス待遇かと思えば、今度はケージの中の、文字通り「うさぎ」になった気分だった。私は呆れながらルームウェアのワンピースをかぶり、ベッドの脚のそばで丸まった、ミヒのバスローブを半ば投げつけるように渡す。美しい背中や、強く主張していた青薔薇のタトゥーの大半が布の下に包まれてしまう。私は少々名残惜しい気分になる。
「ミヒ、フレンチトーストのトッピング何がいい?」
私は寝室のカーテンを開き、摘みたてのコットンのような柔らかい光をたっぷりと取り込みながら聞いた。
「昨晩遅くにキッチンにいるなと思っていたが、そのせいか」
昨夜ベッドへ向かう前、卵を溶いてミルクと砂糖を加えたクリームイエローの液体に、とっぷりと浸した斜め切りバゲットは、この幸せな朝に添えるためにある。今頃、冷蔵庫の中のバットの上で、その甘い液をしっとりと体中に吸い上げているに違いない。
「そう。チョコレートソース、ハチミツ、シナモン……、どれがいい?」
「じゃあ、ハチミツで」
「分かった。ミヒも、コーヒー淹れてよね」
「はいよ」
そんな会話をしながら私たちは、ベッドのシーツを剥ぎとってゆく。洗剤や柔軟剤と一緒に全部洗濯機に詰め込んで、スイッチを押してから朝食の用意をすれば、食べ終わって一息つく頃に丁度よく仕上がるだろう。
彼は、大多数の人間には遠い、ピッチ上の神さまのような人のはずなのに、私の目の前の男は、髪を少し乱したまま、洗うためのシーツを両手に抱えている。私はその可笑しさと、彼を独り占めにしている満ち足りた気持ちに心をかき混ぜられているのを感じながら、枕を覆ったカバーを外した。