鎌倉に行きたい。紫陽花を見に。
 冴がオフシーズンに帰国すると、鎌倉の紫陽花を見たいと私はせがんだ。初めはふっと冴の生まれ育った場所が気になったのだ。なんとはなしの思い付きだったが、考えれば考えるほど彼の故郷だという鎌倉に行きたいという思いはつのっていった。サッカーの欧州リーグがオフシーズンとなる六、七月は紫陽花の盛りと丁度重なるというのもあって、冴はすぐに頷いた。
 それが今週の月曜日の話で、彼の帰国に合わせてとっていた休日の金曜日を縫って、私たちは鎌倉へ向かう電車に揺られていた。車内のアナウンスが目的に近づいていることを知らせる。
 初夏。それは私が一番好きな季節だった。梅雨前線が横たわるおかげで雨がざあざあと降りしきっていても、この時期だけは必ず冴が隣にいてくれるからだ。私の好きな音楽をイヤホンの片耳を分けて聞かせられる。お皿とカトラリーの奏でる音が食卓に増える。体温を感じながらお互いのためにおやすみと言える。光が生まれる朝のように、この季節は何もかもが輝きを帯びた。
 欧州チャンピオンズリーグの常連、スペインの名門クラブであるレ・アールに籍を置き、サッカーをプレーする冴が日本にいる期間はひどく短い。けれど、彼はオフシーズン休暇に入るこの初夏の間だけは、日本へ帰国した時間のほとんどを贅沢なことに私へ明け渡してくれた。

 私はおろしたてのシアーな素材のワンピースに袖を通して、鏡とにらめっこする。一回転してみればスカートが優美に遊ばれ、頬が自然とほころびた。
 今日の空は、雨もようではあったが降っても霧雨までらしい。私は、天気予報を見て雨ならばきっかり諦める予定にしていたヒールのサンダルを履くことを欲張りたくなった。デートなら、少なくとも自分にとってはより可愛いと思える姿でいたい。それが貴重な一回ならばなおいっそうに。
「冴、サンダル履いてもいい? ヒールが少し高いのなんだけど……」
「靴擦れするもんじゃなきゃ」
「靴擦れは大丈夫。歩くの、はやくないかも」
「今日は急ぎ足の旅行じゃねぇよ。好きなの履きゃいい」
 冴はぶっきらぼうに言ったけれど、その裏には私への単なる許可よりも、もっと優しいものを隠し持っていた。
 彼はわたしに、好きにすればいい、というような言葉をかける。それは一見突き放しているような言葉に見えて、その実全部受け入れてやってもいい、というような遠回しの意味をなみなみと含んでいた。行きたいところを迷うときだって、食べたいものを選ぶときだって、いつも冴はいつもそう言う。だから、私は冴の「好きなの履きゃいい」という言葉にたっぷり甘えて、ためらわずサンダルのストラップを留めて家を出たのだ。


 ヒールが石畳の上で子気味よい音を立てている。そのたびにスカートの裾が涼しげにぬるい空気の中を泳いだ。風はない。冴はいつものような涼しい顔をしているように見えたが、蒸し暑さには少々こたえるようだった。
「べとべとすんな」
「今日も湿度高いもんね」
「ああ、汗がかわかねぇ」
 拭うほどの汗はかかないのに、肌は膜につつまれたようにべたつく。冴は少し眉をひそめていた。無理もない。スペインは日本よりずっと乾燥性の気候なのだ。ピッチの上で汗はかきなれているけれど、上手く乾かないことが気に入らないらしい。冴は肌に張り付いた髪を払って、それでも私のヒールが刻む音の間隔に歩幅を合わせて歩いてくれた。
 小さな花が、丸く咲き揃ってひとつの毬をかたちづくり、その可憐で瑞々しげな毬が数えきれないほどに散在している。薄い霧がかかっているのがさらに幽玄な雰囲気を掻き立てていた。静謐でありながら壮観な絵画。色かたちとりどりの紫陽花は様々な表情で花開き、所々を湿らせていた。
 紫陽花からは雨が匂い立っている。私は人影の途切れる場所に座り込んで、曇天の代わりとでもいうようなはっとするブルーの花びらを眺めていた。昨夜の雨の名残か大粒のつゆが乗っていて、とても可愛らしい。胸をさわさわと震わせる好奇心から私が涙を払うみたいに花びらに触れると、透明の雫が吸い付いたかと思えば、指を逃げ道にするようにしてこちら側へ伝った。冷えた水の線が手の甲をちょっぴり濡らした。
 私はそれに満足して、やっと折っていた足を伸ばして立ち上がる。振り向けば、すぐそばの冴とぱっちりと目が合って、私はそのターコイズブルーに今の一部始終を見られていたのだと分かり、恥ずかしい気持ちになった。
 私は照れを隠すみたいに、冴が後ろポケットに仕舞いかけていたスマートフォンに目をつけて、「今、何時だったの?」と聞けば、左手首の時計を確認して「十二時半」だと言った。私はその仕草に、冴はいつも時計をつけているのだったと思い出し、時間を確認していたわけではないのかと疑問を抱きつつも、もと来た道へ踵を返す冴にならって後をついていった。
「紫陽花って土がどんなのかで色が変わるんだって」
「遺伝じゃなくて、後天的に決まるってことか」
「うん。生まれたままじゃないらしいの。周りの環境で変わるみたい。酸性だと青色で、アルカリ性だと赤色。日本は酸性の土だから青い花がよく咲くんだって」
「へぇ」
 遥か遠いスペイン、あちらではまた違った咲き方をするのだろうか、と瞼を下ろして考える。
「でもどの色だって全部きれいだから、一番を選ぶのは難しいね」
「全部きれいなら、ひとつに選ぶ必要なんかないだろ。迷うだけ無駄だ」
「それもそっか」
 あれも綺麗でこれも綺麗で……、と一番を思い悩みながら歩いていた私にとっては、冴の返答になぜだか心がすいた。
「そろそろ飯にするか」
「うん。そうしよう。美味しそうなご飯屋さんがあってね」
 私は冴の手を思わず握った。暑苦しかったかもしれない。じっとりと汗ばんだ感触にふっと心配がよぎる。しかしそれは瞬く間の杞憂となる。冴は私が離れようとする前に、咄嗟に握ったせいで上手く重なっていなかった私の手を握り直した。冴の手は厚くて、体温は私より少しあたたかい。


 定食屋でやや遅めの昼食をとり、午後からはカフェで休息をとりつつ、雑貨屋と紫陽花の他の名所をゆったり回った。
 途中で霧雨が降り、私たちは一本の折りたたみ傘の下で身を寄せ合った。雑貨屋で写真入りのポストカードを一枚買い、鈴を鳴らして扉をくぐったときだ。外は物静かに雨が降っていた。傘を差している人はまばらで、冴は傘なしで歩こうとしたけれど、私は傘を開くかどうかを迷った。髪を濡らすのが嫌で、しかし、冴が遠くなるのもそれ以上に嫌だと思ったのだ。私が傘に入ってしまえば、傘の広がりだけの距離を私たちは取らなくてはいけない。軒下で逡巡しいつまでも傘を開かない私に、冴が「どうかしたか」と首を傾げた。
「……一緒に入らない? 小さいかしれないけど」
 そして、「声が遠くなるのが嫌だから」と付け加える。こう言えば一緒に入ってくれるんじゃないかと少し思った。
「ふたりで入ったら間違いなく濡れるぞ」
「髪を濡らしたくないだけだから……いいの」
 私はわがままだったろうかと、うつむきがちになる。けれど、彼は私の手から傘を奪うと、あっという間にそれを開き、「入るんだろ」と柄を私の方へ傾けてしまった。あくまで平坦なトーンであるのに、端々の声色は優しい。
 霧雨と言っても小さな傘にふたり。傍から見れば少々不格好だっただろうが、冴は文句ひとつ言わず、傘の内側で私のおしゃべりに耳を傾けていた。

 束の間の雨だった。傘の内側に入ってしまえば、むしろ外と隔絶されたみたいで彼の気配をよく感じられたから、閉じられる濡れた傘が名残惜しい。
 そこから少し歩けばアイスクリームの出店を見つけた。白くこぢんまりとしたお店の前には、お馴染みの大きなソフトクリームのオブジェが置かれていた。店内のショーケースに小さな方のサンプルにはバニラと抹茶、ストロベリー、よくある味の他に珍しい色も見えた。
 ひっそりと目を奪われていたのはものの少しの間だったのに、冴に「食うか」と声をかけられる。先回りした的確な言葉を言ってのけられ、私はぱちくりと瞬きをする。
「えー、なんで分かったの?」
「目が分かりやすかったから」
「そんなに?」と私が首を傾げると、「そんなに」と冴が繰り返す。
「私、冴に隠し事できない気がしてくる……」
「言えないことでもあんのか」
「ううん。ないけど。そう思った」
 じっとりとした目を向ける冴に私は背を向けて、アイスクリーム屋の金のドアノブに手をかけた。
 また、容易く欲求を汲み上げられてしまったなと思う。冴に隠し事をする気なんてさらさらにないけれど、彼の翡翠色の瞳には私の脈か何かが透けて見えていて、私の秘密程度のことなど容易く暴いてしまうのだろうと思うのだ。

 私はバニラのソフトクリームを受け取ってから、一番にてっぺんを食んだ。「美味しい」と、冴の方を見れば、彼は口を開けて私を待っていた。正しく言えば私が持っているソフトクリームを。私は、彼の目がねだっている通りに、彼の口元へソフトクリームを差し出し、彼がバニラの白を口の中へ迎え入れるのを見ていた。
 ただ食べているだけでなんとはない。それなのに、その大きな一口にさえ私の心はそわそわとさざ波がたった。大袈裟だと思うけれど、ながく離れていれば食べるという仕草すら私に冴の存在を実感させて、心の瓶を満たすのに十分なのだった。
「見すぎ」
「見てな……」
「嘘つけ」
「……見てました」
 私は頬が内からほてるのを感じ、冴はふっと笑った。
 店の軒先に屋根付きのベンチが備えてあったので、私たちはそこに向かい合って座った。頬杖をつく冴が無言で私の口元を見つめているので、落ち着かない。無骨に向けられながらも柔らかい視線は、なおのことくすぐったかった。
「冴、ちょっと食べにくいな。その、ずっと見られてると」
 私はついに音を上げて言った。さっきの仕返しとでも言うのだろうか。フェアじゃない。私ばかりが照れているというのに。
「気にしすぎだろ。そうやってチマチマ食べてると溶けるぞ」
「どうやっても気にするよ……!」
 誰のせいだと思っているのだろう、と思った。もそもそと食べているのは、食べにくいソフトクリームを食べるのに、恥をさらしたくない乙女心だというのに。私が分かりやすくむくれると、冴はおもちゃを取り上げられた子供のように、しぶしぶスマートフォンに目を移した。薄い瞼が伏せられ、上まつ毛が長い下まつ毛に重なるのを私は盗み見ながら、またソフトクリームを舐めた。


 ――まだ歩けそうか? 歩けそうならこの後海行くぞ。
 昼食に選んだお店も入った雑貨屋も、元を辿れば鎌倉を訪れたのだって私の要求ばかりだったから、もちろん私は二つ返事で頷いた。遅足で休み休み歩いていたおかげで、足はあまり疲弊していない。それに、元から湘南の海にはとても行きたかったし、今日の終着点にはふさわしいと思ったのだ。
 潮の香りがする。夕方の海の風はほんのささやきのようだ。
「捕まってろ、転ぶなよ」
 私は冴に甘えて二の腕に抱きつくように腕を絡めた。砂粒がつま先をくすぐる。細すぎるヒールでは無いものの、ヒール部分が砂に沈むたび足元を取られ、やはり砂浜は少し歩きにくい。けれど、彼の方に私の体重が片寄っても、彼の体の軸はびくともぶれなかった。
 日没の時間はまだ遠く、人影はあまり見えない。水平線がはるか先にくっきりと伸びて空と海を裁ち、曇天の海の向こうには晴れ間が見えた。
「凪いでるな。珍しい」
「ほんとだ、波すごく静かだね」
 さくりさくりと静寂を裂くかのように、質の違う二人分の足音を立たせながら波打ち際に近づいてみれば、波は心臓の拍動にように規則正しく、穏やかに、寄せては返っていた。
「ちょっと肌寒くなったね」
 昼の蒸し暑さは嘘のようになりを潜めている。私は気温を理由に心置きなく冴へくっついていてもいいような気になって、彼の腕を抱きしめる力を強める。冴の腕は昼間のように汗ばんではいなかったが、心地よく吸い付いた。冴は、波打ち際へ来て砂にかかとが沈まなくなっても、今度はぬかるみに足を捉えられないように支えてくれていた。
「あっ……」
 しかし私が冴から離れたのは、浜にシーグリーンのきらめきを見つけたからだった。私は、もしかしてと思い、しゃがみ込んで砂利に交じったそれを指先で拾い上げた。
「見て、シーグラス」
「おー、よく見つけたな」
 ガラス片を見せびらかすと、冴は感心した声を出した。おもちゃを咥えて飼い主に見せる犬に対して見せる反応みたいだ。けれどそれよりも、私はシーグラスの美しさに興奮していた。幾星霜、波にたゆたってきたのだろうか。見事なまでに角がとれた、ふちの滑らかなシーグラスだった。
「冴の目より少し薄いね」
 ガラスは薄灰色の光をぼんやりと反射している。向こう側が透かせるぶん、彼のきりりと澄んだ目よりわずかに明度が高い。私は、冴の瞳とシーグラスを見比べて言った。
 ぴかぴかのシーグラスをジャムの瓶いっぱいに集めて願い事をかける。小さいころにそんなことをしたことがあった。正確に言えば、しようとしたことがあった。ジャムのガラス瓶に貼られた英語のラベルが読めなくて、何味だったのだろうと首を傾げたのはなんとなく覚えているけれど、願い事の内容を覚えていなければ、瓶の中をガラスの欠片で埋め尽くした記憶もないのだ。だからきっと、途中でやめてしまったのだろうと思う。
「昔ね、シーグラスを集めてたことがあったの。瓶いっぱいに。結局は多分、いっぱいにならなかったんだけど……。冴はそういうことした? シーグラス集め」
「記憶にないな。しようと思ったことも多分ない」
「たしかに。男兄弟だしね。冴も凛くんもしなさそう」
 背丈の小さな冴に思いをはせる。きらきら光る小さな欠片を砂浜に座り込んで懸命に探している姿はあまり思い浮かばない。どちらかというと、海辺では、クラゲや石を海中に投げ込むようなやんちゃな遊びをしたのだろうと考える。
 私は改めてもう一度、シーグリーンのきらめきを冴に見せて言う。
「これ、今日の思い出にする」
 そしてもう一度そのきらめきをじっくりと眺め、くっついた砂粒を退けようと指先で拭った。だが、湿っているせいで上手くとれてくれない。むしろ拭ったそばから指先についた別の砂粒がじゃり、と張り付いた。私は「砂、取れないなぁ」とぼやいた。
「洗ってきてやる」
「えっ、いいよ、大丈夫」
「靴、それ以上汚したくないだろ」
 冴は私のサンダルを目で指した。おそらく、彼は朝に履くことを思い悩んでいたお気に入りの靴だということを覚えていて、気にかけてくれているのだろう。乾けばすぐにぱらぱらと落とすことができるだろうが、サンダルにはシーグラスよりもずっと沢山の砂粒がへばりついていた。
「それは、そうだけど……」
「それに、持って帰んだろ、思い出に」
 だったら、――綺麗な方がいい。
 冴はそう言うなり私の指先からシーグラスをかっさらって、そのまま水際まで向かおうとした。私は思わず「ねぇ」と呼び止める。冴は歩を止めて振り返った。
「それって持って帰るから?」
「……?」
「綺麗な方がいいって。それって持って帰るから? それとも……思い出だから?」
 私の声はなぜだかひどく切羽詰まっているように聞こえた。なぜ、そのような問いかけが口をついて出てきたのかすら分からなかったのに。冴はいぶかしげに眉根を寄せて答えた。
「どっちも。どっちにしろ、綺麗に越したことはねぇよ」
 冴がしゃがみ込んで水の境界に手を浸すと、ちゃぷちゃぷと水の乱れる音が鳴った。

 海水に濡れた手を拭くために渡した白いハンカチが返される。私の手の平の上には既にゆすがれたシーグラスが乗り、それは一段ときめ細やかにかがやきを増していた。その理由は水に洗われたからだけではない。
「ありがとう……大事にする」
 私はすっかり引っかかりのなくなった表面を撫でた。手を繋いで紫陽花の森を抜け、小さな傘に隠れて笑い合い(冴の笑い方は分かりにくいけれど)、冴の買ってくれたバニラアイスを食べ、終着の渚へ来た。
 今日の一日で冴は沢山の綺麗な思い出をくれたけど、きらきらのガラス片はそれらをひっくるめて象徴する結晶みたいなものに見えた。たったひとかけらのみで、瓶をいっぱいにするよりも十二分の価値がある。
 絶対に傷ついたりひびが入ったりしないように、それからまばゆさを一滴たりとも零さぬように、シーグリーンのガラス片を注意深く丁寧にハンカチに包んだ。カバンに折ったハンカチを仕舞いこんでバッグのボタンを留めてしまえば、急に今日が終わってしまうのだという寂しさが襲ってきた。
 本当にさっきの答えなんてどっちでも良かったのだ。思い出だからなんて情緒的な答えじゃなくても。彼のまるで優しく包むような気づかい自体が、私にはひどく嬉しかったのだから。でも、冴が私に優しくしてくれるたび、私はどんどん欲しがりになっていく。
 つまるところ、私はきっとこわいのだ。ああいう質問を投げかけてしまったのは、そういうことでなければ説明がつかなかった。線香花火の火玉がぽとりと落ちるように、ふとした拍子、いつかほどけて離れていってしまうんじゃないかと思うと、吐きだせないものを飲み込んだみたいに胸が苦しくなる。身の程知らずの焦燥感を覚える。
 冴を引き止めるつもりはない。冴がその足でコートに明けの三日月のような美しい線を描くのは、ここ――私の隣でじゃないと、知っている。
 今、私がかけたい願い事は一体何だろう。
 しばらく、私たちは海を前に佇んでいた。沈黙のあいだ、波だけは秩序を壊さず打ち寄せていた。まだ波打ち際にいたいのは私だけじゃないのが嬉しかった。冴が海を眺めるのが好きでよかった、と思った。
 もう少しこのままでいたい。許されるなら私の中でだけ永遠がいい。それが私の願い事だった。
 風がぴたりと止み、等しい間隔で波が寄せていると、決して動かない美しい絵の中の住人になったみたいで、今がまるで本物の永遠な気がしてくる。このまま風が吹かなかったらずっと一緒にいられるだろうか、なんてありえもしないことまで考えた。
 でもそんな魔法じみたことはなくて、その証拠にとっくの昔に手の甲を濡らした水は乾き、音もなく雨は上がり、ソフトクリームは溶けてしまった。冴がいるわずかしか交わらないこの季節も、はかなく過ぎ去っていく。だからせめて、このまま噛み締めていたかった。潮のしょっぱい香りが涙のようだった。
「あっという間だったなぁ」
 こぼれるように口にしてみれば、全部あっという間に過ぎ去ってしまったのだといたく感じられた。
 身体が震えて私はくしゃみをひとつした。やはり少し冷えるようだ。私は人肌を求めて、並んで歩いていたときのようにもう一度腕に縋ろうと手を伸ばしたがそれは叶わなかった。それよりも先に、私はほんのりと暖かい冴の腕の中に閉じ込められた。シャツが鼻先に押し付けられて、冴のにおいが広がる。冴も私の髪に頬を押し付けているみたいだった。私は、そろりと背中に手を回して応える。
「今ね、帰りたくないって考えてる」
「……」
「冴、何か言ってよ」
「……俺も」
「……ふふっ、おんなじだ」
 私は冴の返事に、シャツに折り目がつくまできつく握りしめた。やがて冴の腕の力が緩まるのに合わせて、私も抱き寄せた腕の力を抜いていく。距離が開き、潮の香りが鼻を掠めたのを埋めるように、どちらともなく唇を重ね合わせた。
 私は瞼を伏せ、他でもない冴の唇の熱と柔らかさで彼の存在を確かめる。両耳が失われたようにすぐそばの夕波の音がかき消え、冴以外の全てがすっと遠のく。時間が長く感じられた。まるで一時の永遠が叶ったみたいだった。
 余韻を残しながら熱がゆっくりと遠ざかっていく。それから、私が冴を見上げる前に、冴は肩を持って器用に海の方を向かせた。「わっ」と私は声をあげる。そして、背後から覆いかぶさるように抱きしめられ、すっきりとした顎が頭に乗せられる感覚がした。
「もうちょっとこうしてていいか」
 冴が請うように言う。私は頷く。冴が本当に同じ気持ちでいてくれるのが嬉しかった。
 風が頬を掠めたら帰ろう。濃く澄んだ色の目をしたほんものが今は隣にいるのだから、思い出のシーグラスを愛でるのはまたあとでいいのだ。私は残り火を見つめるような気持ちで胸元に回る腕をぎゅうと握り締め、冴に身を預けていた。