『1. メンタルタイムトラベル。』
茜色に濃紺が迫る空の向こう。今日一日、霞むことなく晴れたその日の終わりに見つけたのは、一筋の白い線。いつかのグラウンドにひいた石灰が舞うような。それは私の頭の中を一気に巡りフラッシュバックして、あのときの光景に重なる。その途端嗚咽が込み上げてきたので、喉の奥へと慌てて押しやった。瞼の裏が熱くあつく滲んできたから、一度だけぎゅっと眼を瞑った。
金曜日の数寄屋橋交差点は、国内外からの観光客や、仕事帰りのサラリーマンやOLで溢れかえり、漫ろめいている。
左腕に視線を落とし、時間を確認すれば約束の午後五時半ぴったり。すっかり腕に馴染んだシチズンのクロスシーは、四年前に就職祝いで父が贈ってくれたものだ。電池も不要で、時刻も電波で拾ってくれるから特別な手入れの必要もなく、仕事も波に乗り忙しくなってきた今となっては手放せない存在だった。
約束の時間はとうに過ぎていたので、何かあったのではと思わず辺りを見渡しその姿を探す。少しだけあの頃とは変わってしまった街並みに気付いてしまって、溜息を浅く吐(つ)いた。
ややあって鳴り出した携帯のディスプレイに表示された彼の名に、私はふっと胸を撫で下ろした。
「もしもし」
『しげ子ちゃん、もう着いてる?』
久しぶりに聞いたその声は、電話越しでも分かるくらいに焦りの色をみせていた。息遣いが少し荒い。きっと小走りでここへ向かってきているのだろう。
「とっくに。」
少しだけ怒っているような素振りをみせてからかってやると、電話の向こうで慌てた声が聞こえてきた。
『わ、ごめん!検討が長引いちゃって…。もうすぐ着くから!』
「ふふ、ゆっくりでいいから、気を付けて来てね」
携帯を耳から離して通話ボタンを押す。熱くなってしまった片耳には、まだあの声が纏わり付いて消えない。
仕事終わりのOL二人組が不二家数寄屋橋店へと入っていった。続いて大学生くらいの若いカップルが入っていく。夕食には少しだけ早い時間だが、今日は金曜日だしもしかしたら店内は混雑するかもしれない。先に入って席だけでも確保しようかと思ったそのとき、生クリームの甘く幸せな香りが鼻先を掠めた。
過去に三度ほどここに足を運んだけれど、大好きだったはずのこの甘いあまい匂いを吸い込むことを、今日初めて躊躇った。
何車線あるのかひと目では数え切れないほどの広い交差点だというのに、この時間のましてや週末ともなれば車の流れは悪く、すぐに信号の赤色に行く手を阻まれている。晴海通りと外堀通りを埋め尽くすヘッドライトの川に目を細め、数年前最後にここに来たときのことをぼんやりと思い出した。
*****
『2. ほつれる、ひこうき雲。』
あれは、和谷くんがプロになってから数年が経ち、梅雨が明けた頃のことだった。いつものようにうちへ来て研究会をする和谷くんの様子がどこかそわそわしていることに、あたしはすぐに気が付いたのだ。
こうして父の研究会には変わらず顔を出しているわけだし、体調が悪いとかでもなさそうだった。囲碁の勉強に集中していない様子でもない。でも、どこか違う匂いを漂わせていた。
物心がついた頃から和谷くんのことを特別な想いでずっと近くで見てきた。そんなあたしの目と鼻は誤魔化せないんだから。
研究会が終わると、いつものようにあたしは父と一緒に玄関先までついていき、和谷くんを見送る。
どうしても今日の和谷くんの様子が気になったあたしは、父に「ちょっと和谷くんに言い忘れたことがある」とだけ告げ、玄関を飛び出した。突っ掛けたサンダルを履いた脚が縺(もつ)れる。呼び止めるあたしの声に和谷くんが振り向いた。
「しげ子ちゃん?どうしたの?」
「和谷くん、何か良いことあったの?」
「別に何もないよ?」
「ウソ。絶対良いことあった。あたし、和谷くんのことならすぐ気付いちゃうんだから。」
「ハハ…参ったな。しげ子ちゃんは凄いや」
逆光でよく見えなかったけれど、多分それは少し困った笑みだった。声(こわ)色で分かる。だってあたしは、和谷くんのことなら何でも分かっちゃうんだから。
「…応援していたい、大切なひとができたんだ。」
その言葉を耳にしてから、後悔した。ああ、あたしはなんて馬鹿だったのだろう。こんなことを聞きたくて、玄関を飛び出したんじゃないのに。
声が喉に張り付いて離れない。落ちそうな陽はその日の終わりを告げようとする。根が張ったかのように動かないサンダルの裏からは、アスファルトの余熱が伝わってきた。蝉しぐれがわんわんと耳に響いて痛かった。
───大切なひと。和谷くんはそう表現した。普通に聞けば、それが“彼女”だということなんて、誰にでも分かる。
自分のことを慕ってくれている年下の娘(こ)を気遣って、わざわざそう表現したのならば。…そんな優しさなら、いっそいらなかった。
「……そう…なんだ。…よかったね」
やっとの思いで絞り出した声は、和谷くんにちゃんと届いたのだろうか。
あたしの方が、和谷くんのこと、ずっと前から知っているのに。悔しくてくやしくて、そんな子どもじみたことすら思ってしまう。
浅緋(あさあけ)色に染まる空気は、輪郭を暈(ぼか)して和谷くんの頬すら染めた。じゃあね、と手を振る和谷くんを見送ってから、堪え切れず落ちた涙がアスファルトに丸い染みを作り、直後灼かれた。
ふと見上げた夕空の先で、グラウンドに真っ直ぐとひかれたような白線を捉える。それがひこうき雲だなんてこと、誰が見ても分かるのに。今のあたしには、ゆるゆると解(ほつ)れていくただの毛糸のように見えたのだった。
『3. 味の違う、イタリアンショート。』
あれから暫くが経ち、今日は和谷くんの昇段祝いの日だった。入段してからのお祝いは決まっていつも銀座の不二家でイタリアンショートを食べることだった。今日も同じプランであることは言うまでもない。
前回この場所を訪れたときに、いつものように次回の昇段祝いの約束もしてしまっていた。あんなことがあったから、何となく顔を合わせづらくて断ろうかどうしようかずっと迷っているうちに、そのまま時はあっという間に過ぎていってしまったのだ。顔を合わせづらいと言っても、勝手にあたしが一人で傷ついて一方的にそう思っているだけだから、和谷くんは何も悪くないし、むしろそんなふうにこれっぽっちも思ってもいないのだろう。
甘い匂いが立ち込めるこのクリスタルビルの前で和谷くんと待ち合わせをしていた。約束の時間より既に五分遅刻している。たぶん、今日の対局の検討が長引いているのだろう。
銀座でいくつか挙げられるランドマークのうちのひとつでもあるこのビルを見上げて、あたしは溜息を深く吐(つ)いた。陽も落ちそうなこんな時間の、しかもこんなところに立ち竦んでいる女子中学生なんて、きっと場違いに見えるのであろう。
小綺麗な格好をしている仕事帰りのOLがあたしの前を横切った。高そうな鞄と腕時計が光り、化粧が大人の女性らしさを引き立てる。モカブラウンのウェービーヘアからは良い香りまで漂ってくるようだった。ショーウィンドウに映される、中学校の制服を着たノーメイクの野暮ったい自分が、途端に恥ずかしく思えてきた。せめて一度帰宅して私服にすればよかったなと、あたしは俯いた。
重たい気分のまま更に五分くらい経った頃、小走りで和谷くんはやって来た。最近三段に昇段したばかりで、仕事も波に乗ってきているようだった。
細いストライプの効いたワイシャツによく似合っているビリジアンのネクタイ。これもきっと“大切なひと”が贈ったものだろう。和谷くんの良さを分かっていて、しかもそれを最大限に引き出せる、完璧なまでの見立てだった。「ちょっと遅れちゃったから、走ったよ」と額に汗を滲ませながらスーツの上着を脱ぎ、少しだけネクタイを緩めるその手元に釘付けになってしまった。
店内に入ると、待つことなく店員が席へ案内してくれた。いつものようにイタリアンショートと飲み物を注文すると、暫くお待ち下さいと頭を下げて離れていった。
「…ねえ、和谷くん。昇段祝い、今回ので終わりにしよ」
唐突なあたしの提案に驚いて顔をあげた和谷くんの瞳は揺れていた。陽が落ちたばかりのガラス張りの向こうには、スモッグで霞んでゆくネオン。その光たちが和谷くんの瞳の中で僅かに映るのが分かる。それくらいに、あたしはちゃんと和谷くんの眼を見れている。そうだよ、しっかりしないと。今ここで言わなくちゃいけないんだから。冷えた心臓は早鐘をうつ。
「別にね、これから和谷くんを応援しない、とかじゃないから安心してね」
「え?あ…うん。ありがとう…?」
不思議そうにあたしの言葉を受け止める和谷くん。お冷を一口飲んで心を落ち着かせる。目線を窓の向こうにずらせば、幾らか気持ちが楽になった。
あたしの言葉の続きを静かに待つ和谷くんを小さなテーブル越しに感じ取る。数分もしない僅かな時間だったけれど、あたしにはとてつもなく長い沈黙に思えた。
そんな中、グッドなのかバッドなのか分からないタイミングでやって来た店員が、お待たせしましたとケーキと飲み物を丁寧に置いていく。愛想の良い店員の笑顔を直視できず、お礼すら言えなかった。
不二家レストランでないと食べれないこのイタリアンショートを口に運べば、甘いクリームはみるみる溶けて身体中を巡ってゆく。少しだけ背伸びして頼んだアイスコーヒーを一口飲んでみるけど、何だか苦くてすぐにミルクとガムシロップを足してしまった。
「…あたしね、和谷くんのこと、ずっと好きだったの。」
先に沈黙を破ったあたしの言葉がテーブルに落ちた。震える声を何とか誤魔化そうとする。「えっ?!」と目を丸くする和谷くんの言葉も待たずにあたしは続けた。
「ずっとだよ?ていうか今もだし。」
吐き捨てるように嘆かれたその言葉を聞いて、みるみる赤くなっていく和谷くんの顔。あたしが“大切なひと”より先に告白していたら、どうなってたのかな。なんてどうしようもないことを一瞬だけ考えて思わず溜息が零れる。
「全〜然気付いてくれないしさ、囲碁以外興味ないんだろうな〜って、ずっと思ってた。」
「そう…だったんだ…」
「……それなのにさ、急に彼女作っちゃうんだもん」
黙り込んで小さくなってしまった和谷くんに、少し冗談めかしてあたしは続けた。
「やっぱり、あたしももっとちゃんと囲碁やっていればよかったのかなァ」
「……ごめん。しげ子ちゃん…」
今まで一度も聞いたことがないような、トーンダウンした和谷くんの声。もうこれ以上何も言わなくていい。その先の言葉なんて、聞きたくない。そう言いたかったし、耳も塞いでしまいたかった。でも鉛のようになった身体は動かない。そして和谷くんの言葉は続いた。
「…オレ、しげ子ちゃんのこと、好きだけど…何ていうかそういう好きとかじゃなくて…。しげ子ちゃんが囲碁をやってたとしても、オレは奈瀬を選んだと思うんだ」
「ふぅん。“ナセ”さんっていうんだ。」
「あっ、いやその…」
慌てる和谷くんの顔は真っ赤だった。もういいよ。充分だよ。
ちまちまと食べていたイタリアンショートの残りを、一気に口へと運ぶ。涙は出ていないはずなのに、何だかしょっぱい味がしたから、ガムシロップをたっぷり足したアイスコーヒーで流し込んだ。
外へ出れば、視界はゆらゆらと歪んで忽ちぼやける。湿った風は和谷くんの跳ねた襟足を揺らす。宝石を散りばめたような銀座のネオンが和谷くんの横顔を照らしていた。肩越しに盗み見るその表情は、何を考えているのか…あたしにはもう分からない。
有楽町駅の近くまで和谷くんは見送ってくれた。気まずさもあり一度は断ったものの、危ないし送ると引き下がらなかったからお言葉に甘えることにした。
「これからも、頑張ってね。和谷くん。」
「ありがとう、しげ子ちゃん」
「…ばいばい、和谷くん。」
「今日は本当に、ありがとうね」
もう一度礼を言われて、あたしは喉の奥が詰まったみたいに苦しくなった。軽く手をあげてじゃあねと言う和谷くんの顔は、最後まで優しかった。その顔をもうこれ以上見ていられなくて、あたしは早足にそこを去る。
東海道新幹線の高架下を抜けるぬるいビル風に煽られた。その勢いに思わず首を竦める。道行く人々は皆幸せそうに見えた。繋がれた手や抱き寄せた肩なんかが今は妬ましくも思える。
もう夜だというのに蝉が一匹鳴いている。ギラギラとしたこの街の光を太陽と間違えているのか、最後の力を振り絞って駅舎の壁にしがみついて、必死に…泣いていた。あたしも、この蝉のように泣きたかった。
夏の終わりは、もうすぐそこまで来ている。今年の夏の匂いと空気を、あたしはずっと忘れることはないだろう。
*****
『4. タイムトラベルの、その先で。』
あの日から世界は何も変わらずに、陽が昇っては落ち昇っては落ちの繰り返しで、季節を巡らせている。
変わったことといえば、私はあれから一生懸命囲碁の勉強をして、棋士ではなく囲碁雑誌の出版社で編集者として働く社会人になったことくらいだろう。勿論それは私が囲碁にちゃんと向き合おうと思った結果のことであって、決して横恋慕なんかではない。
「しげ子ちゃん!」
私の名を呼ぶこの愛しい声も変わらない。実は今もまだ、ほんの少しだけ想っていたりする。
……でも、それよりも。
私は彼と、彼と同じくプロ棋士になった“彼女”を、心の底から応援していきたかった。
「待たせてごめん」
「いいよ。イタリアンショート、奢ってくれるなら許す」
「えぇーっ!そこは今回の取材の経費で何とかならないの?」
困った笑顔が眩しかった。でも、大丈夫。あの味を食べても、今度は苦しくならないから。
あの夏の匂いと空気が重なって当時の想いが蘇ったとしても。きっともう、大丈夫。
次の誌面を飾るのは、今をときめく若手棋士・六段に昇段したばかりの和谷義高。彼のことをしっかりと取材した後に、ゆっくりとイタリアンショートを味わおう。
背筋を伸ばして真っ直ぐに前を向く。ショーウィンドウに映る私の姿は、あのときとは違ってしゃんとしていた。
もう一度だけ銀座の空を仰いだが、さっき見つけたひこうき雲は跡形もなく消えている。金曜日の数寄屋橋交差点にゆっくりと忍び寄る風は、季節の変わり目を示していた。
--------------------
2021.10.17
Gleis36