菖蒲東風にはためく鯉のぼり。初夏の陽射しをたっぷりと浴びながらそれはとても気持ち良さそうに泳いでいる。木々の新緑が眩しいこの季節を、誰もが心地良く思うであろう。そんな中進藤ヒカルは、日々を共にしている扇子を大切に握り締めながら、悲愴な面持ちを浮かべていた。
───端午の節句になると、今でもこうして胸が締め付けられるんだ。
五月五日は、師であり友でありとても大切なひとでもあった、藤原佐為が消えた日だった。あれから何年経っていても、あの日のことはもうずっと忘れられないのだ。
この日だけは、どんな手合も仕事も予定も入れずに、独りこうして自宅で過ごす。そして、どんなに焦がれてももう会えないと分かっているのに、あの日と同じように打ちかけの対局を並べる。もしかしたら続きが打てるのではないかと、心のどこかで期待して。結局そんな思いも届かず、当たり前だが何も起こりはしない。先の見えない対局は、ただ静かにそこに佇んでいた。
何度この日をこうして迎えただろうか。分かっていたはずなのに、自然と目の奥が熱くなる。
「……会いてェな…」
ふいに零れた言葉は、誰にも聞かれることもなく五月晴れの青空へと溶けてゆく。窓の外から差し込む光の粒に思わず目を細め、小さな溜息をついた。
碁盤の前を離れてベッドに座り、頬杖をつく。カーテンが風に攫われてヒカルの髪を撫でていった。窓の外に目をやれば、その視界の切れ端に鯉のぼりを捉えた。小さな頃から見慣れている窓の景色がいつもと違って見える、この時期にしか現れない風物詩。あの日も、こんなふうに気持ち良さそうに青空を泳いでいたんだ。
「…一年に一度でいいから、この日くらい会えればいいのにな。そしたら一局打ってやるのに…」
堪えきれずに眼から零れ落ちた一粒の雫が、シーツに小さな丸い染みを作ったそのとき。
『ヒカル。それでは七夕の織姫と彦星みたいではないですか』
「えっ?!」
ずっと聞きたかったあの声が聞こえた気がして、ヒカルは勢いよく顔を上げて辺りを見回した。
けれども、やっぱりさっきと同じ空っぽの部屋で、誰よりも一番会いたい佐為はそこには居なかった。
「幻聴とか……さすがにヤベェな…ハハッ」
自嘲めいた笑みを浮かべて後ろ髪を掻く。また目の奥が熱くなってきた。膝を抱えて顔を埋めるようにした。こうしていれば、涙だって落ちない。苦しく鳴り響く鼓動も聞こえない。鯉のぼりだって、見なくてすむ。幻聴だって…───
───幻聴だったけど、笑ってたような、優しい声だったな。
「…やっぱ……会いてェなぁ…」
ぎゅっと握り締めた扇子が微かにキリっと音を立てた。それはまるで、『私もですよ』と言っているような、佐為からの優しい返事のように。
新緑を揺らす風がふと薫る。こうやって季節は変わらずまた巡ってゆく。神様は、意地悪だ。
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2021.05.05〜2022.02.24 拍手にて掲載
Gleis36