夕暮れ時の柔らかな山吹色の陽射しの中、ふんわりと風が縁側の床を優しく撫でた。どこか暖かいような、でもどこか肌寒いような、季節の変わり目はすぐそこまで来ていた。
9月22日、15時00分。
もうすぐ母親になる大きなお腹を抱えた女性が二人、縁側で編み物をしながらおしゃべりをしていた。
「そういえば、ヨシノさん、もう予定日より十日も過ぎてるんでしたっけ?」
「そうなのよ〜。外に出て来るのが面倒くさくなっちゃったのかしら?明後日になっても産まれなかったら促進剤か帝王切開なのよ…困った子よねぇ。」
くすくすと微笑み合う二人。手元にある編みかけの帽子。色違いで二人で作った。一つは水色。もう一つはピンク。秋はすぐそこできっと産まれた後はあっという間に冬になる。そんな季節に備えて、これから産まれてくる可愛い我が子のために、大切にたいせつに、編んでいった。
「もうすぐでパパ達が帰って来るわね」
「そうね」
もう少しで二人の帽子は完成しそうだった。そんな穏やかな空気は、急に風向きを変えたのだった。
「……っ…」
「…ヨシノさん?」
お腹の底からずんと込み上がってくるこの痛みは何かに似ている。そうだ、妊娠する前は毎月悩まされた、月のもののような鈍い痛みだ。
この痛みに、きた…!と本能的に気付く母親。前駆陣痛より少しだけ重い気がする。でも大丈夫、初産はすぐには進行しないわと二人で冷静になり、まず父親たちに連絡してから、痛みに耐えながら産院へ行く準備をした。
「さ、ヨシノさん。これ着て」
「あ…ありがとう…」
カーディガンを羽織り、ふらふらしながら玄関へと向かう。
「大丈夫?歩けそう?」
「平気よ…すぐそこだもの」
「無理しないでね。まだ陣痛始まったばかりだし、きっと大丈夫よ。」
「ええ…。それにしても私たち、よっぽど縁があるのね」
「ふふふ、そうね…」
母親とは強い生き物だった。時折やって来る痛みにふらつきながらも、しっかりと地面に足を踏み付けて、産院へ向かう。産院が近所で良かったと、このとき改めて感じた。
16時15分。
夏の名残なのか、日はまだかろうじて伸びている。細くなっていく、寄り添う二つの影。
産院に着くと、すぐに助産師が背中と腰のあたりをさすってくれた。痛みは増してくるものの、落ち着きを戻した母親たち。そんな時、任務から帰って来た父親二人が、青い顔をして病院へ駆け付けてきた。
「だっ…大丈夫か?!」
「あら、お帰りなさい。どんどん痛くなるけど、家から歩いてきたさっきよりはだいぶ落ち着いたわ」
「そ、そうか…」
「きっともうすぐ産まれますよ。貴方が旦那さまですね?陣痛室にご案内しますから、こんな感じで強めにさすってあげて下さい。陣痛の頻度が短くなってきたら内診しますから、そちらの準備が整いましたらすぐに分娩室へと向かいましょう」
「は、はい…」
緊張のあまり顔が強張る。男とはなんて無力なんだろう…と、このとき初めて痛感した。
それでも、そこをさすってくれると楽だわありがとう、と安堵の表情を浮かべた愛する妻のために、汗だくになりながらも一生懸命さすり続けた。
19時45分。
順調に陣痛の頻度が短くなってきた。助産師たちは内診をして、準備が整ったことを確認するとすぐに母体を分娩室へと運んだ。
「お父さまも、立ち会いますか?」
「は…はいっ」
「では、こちらへ…」
助産師と父親は、そのまま分娩室へと消えた。
白っぽいような、淡いピンクのような色で塗られた壁が続く廊下。窓から覗く夕日は完全に墜ちて、さらには群青から黒い空へと変わっていた。
取り残されたもう一組の夫妻は、遠くの方で聞こえてくるような声に耳を傾け、閉ざされた分娩室の扉を見つめながら、赤ちゃんが無事、この世に産声をあげられることを祈り続けた。
21時20分。
いつまで経ってもなかなか産声が聞こえてこない。さすがに心配になり、まるで自分の子が産まれるかのようにそわそわし、廊下を歩き回った。
「あなた…ヨシノさんと赤ちゃんに何かあったんじゃ…」
「…大丈夫だ!絶対、大丈夫だ…」
「そう…よね…」
22時35分。
満月の光が朧気に差し込む静かな病棟の廊下に、確かに響き出した小さな命の産声。二人は手を取り合い、嬉しさのあまり涙が溢れてきた。
すると、張り詰めていた緊張の糸が切れたからなのか、下腹部に猛烈な痛みを急に感じた。水風船が勢いよく弾けるような感覚がしたと同時に、産院の廊下に羊水が音をたてて落ちるように流れた。本能的にこれは破水だと気付いた母親は、床に崩れ落ちた。
「ううっ…!」
「お、おい!どうした?!」
「…も…もしかしたら…、わたしも…かも…」
「ほ…ほんとか?!」
「まだ…予定日より七日も早いのに……うっ…!」
分娩室から安心した顔つきの助産師たちが出てきた。父親は真っ先にそこへ駆け寄って、助けを求めた。
「すみません…!今度はうちなんです…っ!」
「ほ、本当ですか?!」
「ええ…予定日より七日も早いんです…!」
「それは大変だわ…!早期破水してるわね。陣痛室行って内診する時間あるかしら…」
助産師が医師の指示を仰ぐ。医師は真っ直ぐと母親を見つめ声をあげた。
「いいでしょう、このまま分娩室に行きましょう。皆!早く準備を!」
慌てて分娩室へ運ばれる、もう一人の母親。
22時45分。
汗だくの黒髪の母親と父親は、運ばれてきた母親を見て目を丸くした。
「申し訳ありません…お連れで来てた方も、産まれそうなんです。慌ただしくて申し訳ないのですが、ベッドごと移動しましょう。まだ胎盤を摘出したばかりなので、ヨシノさんは動かずそのまま寝ていてください」
分娩室内で一瞬だけ横に並ぶベッド。苦しみながら横たわる母親に、精一杯のエールを贈った。
「頑張るのよ…!」
「ヨシ…ノさん…!あ…りがと…」
「さ、ベッド動かしますよ」
「はい」
助産師に言われるがまま、分娩室から出された。母親は病室へ、赤ちゃんは新生児室へと連れて行かれた。父親は一人廊下に取り残された。静寂が彼を襲う。
先刻、予定日より十日も遅れて自分の息子が産まれ、立て続けに次は予定日より七日も早く親友の子供が産まれようとしている。こんな偶然あるものなのかと、驚きを隠せずにいた。分娩室の扉を見つめ、ただ呆然と立っているのだった。
0時を回り、日付は9月23日になった。
とても早いペースで陣痛がくる。まるで、早く出てきたいよ、と訴えるかのように。手を握り締める父親と、汗だくの母親。
4時35分。
真っ赤な顔をした小さな小さな女の子は、無事この世に元気な産声をあげることができたのだった。
この数時間の間で、二度も涙を流すなんて思ってもいなかった。廊下にいたもう一人の父親も、静寂の中 微かに響く産声を目を瞑り、耳を済ませて聞いていた。
自分の子が産まれた時のように、自然と涙が頬を伝う。
「二人とも…生まれてきてくれて…ありがとう……」
流れ星のようにぽつりと零れた言葉は、まだ満月が浮かんでいる明け方の空に、吸い込まれるように消えていった───。
数日後、新生児室に様子を伺いに来た二組の夫妻。
「いのちゃーん!パパが会いにきまちたよ〜!」
「もう、あなたったら…!恥ずかしいからやめて」
「へっ!すでに親バカか…」
「なっ、なんだと〜?!」
「あら、あなただって昨日、“シカマルにはこの服を着させるんだ〜”とか張り切ってたじゃない」
「おっ、おい!それは…っ」
「何だよ、シカクだって親バカじゃないか」
「全く…二人して親バカね。ふふふっ」
きらきらと光の粒が溢れる中、幸せいっぱいの笑い声が広がる。
「あら…?」
「ん…?」
「まあ…!」
「…!」
数人の新生児たちが並ぶ中、二人の赤ちゃんが寄り添うようにして寝ているのをすぐ見つけた。足に括り付けられた名札を見なくても、すぐに自分たちの子だとわかった。
「あらあら、お手て繋いでいるのね。仲良しさんね」
「いのちゃーーーんっ!まだ早過ぎるぞー!!うおーんっ!」
「もう!あなたったら…」
「…俺たち、本当に縁があるみたいだな」
いのを待つように、ゆっくり生まれたシカマル。
シカマルを追うように、すぐに生まれたいの。
それはたった六時間の差だった。
でも生まれた日は違う。季節の節目の日。
これも、何かの縁。
二人は、生まれる前から、何かで繋がっていたのかもしれない───。
柔らかな白い光の中に包まれる病棟の廊下に、季節の変わり目を迎えた少し肌寒い風が、ふわりと通り抜けた。
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2009.02.10
2021.04.30加筆修正
Gleis36