シカマル…
忘れないでいてくれ。
そして、生きて、守り抜いてくれ。
この里の、『玉』を…───。
猿飛アスマは、死んでも守ろうと胸に誓った。最愛の女と、その身体に宿る新しい命を。
あれほどやめられなかった煙草。それなのに。
先日医師から告げられた、彼女の身体に宿る新しい小さな命。二人のことを想うと、自然にやめられた。
昨夜、お互いの体温を確かめ合うように寝たベッド。朝を迎えてもそれはまだ暖かみを帯びていて。その温もりが名残惜しいのか、まだ甘い夢に抱かれているのか、自然と身体が疼く。
彼女はもう隣の部屋のダイニングで朝食をテーブルに並べていた。くノ一にしては随分と華奢なその背中をベッド越しに盗み見る。
「いい加減、起きなさいよ」
強気だけれど、女らしさを兼ね備えたその艶のある声。確実に耳に入ってから、いつものように敢えてぶっきらぼうな返事をする。
「…あいよ」
彼女はいったん朝食の準備をやめ、こちらに来てベッドの横にあるカーテンをシャッ、と開ける。そのとたん、起きたばかりの目には眩しく感じるほどの太陽の光が、部屋に差し込んできた。窓を開け、外から新鮮な空気を入れた。
重たく感じる身体をゆっくりと起こして椅子に腰掛け、煙草とジッポーを取り出す。もはや今となっては癖になってしまった一連の行動は、無意識だった。だけど、彼女のその小さな背中を見てハッとしすぐその仕草を止め、若い頃からの相棒を引き出しにしまう。
「…おはよ」
「おはよ」
優しく、だけど、どこか切なそうに微笑む彼女。
「はい、コーヒー。あと、サンドイッチとベーコン炒めとヨーグルト作ったから」
「…サンキュ」
何も言わなくても自分の飲むものはブラックコーヒーだとわかってる彼女。アスパラガスが好きじゃないことも、言わなくてもわかってる。
幼馴染でもあった彼女とは、お互いのことが分かっている。それは全部、昔から変わらない。それが以心伝心だなんて、自惚れではないと信じたい。
「…いつ頃帰って来れるの…?」
ふいに見せた彼女の哀しげな顔。締め付けられる思いで言葉を返す。
「…すぐ戻る」
朝の凜とした風に乗って、彼女のウェーブがかった漆黒の髪が揺れた。彼女は目を伏せて、自分のと色の違うコーヒーを飲みながら言った。
「……そう」
そして立ち上がり、窓を開けて外を見た。
「…帰って来たら、買い物でも行く?」
遠くを見たまま言い放たれたその言葉が、雲がかった空に溶けた。
「…そうだな」
僅かに微笑み、目を閉じる。それはまるで、果たせない約束を、自分で自分に押し付けているようだった。サンドイッチとベーコン炒めを食べ終え、ヨーグルトに手をかけようとしたそのとき。
「…ちゃんと、帰って来るのよ」
いつもと違う、弱気な声。彼女の顔を見ると、それはとても苦しそうで。
不安にさせちゃいけない。
…でも。
命を懸けてでも、守りたいんだ。
自分の目の前にいる女を。
その身に宿る、小さな命を。
この先の、木の葉を支えていく『玉』たちを…───。
これから起きることを、彼女に察されてはいけない。だからこそ敢えて、明るく返してやる。
「なーにお前らしくねぇ顔してやがんだ。大丈夫だ、すぐ戻るからよ」
できれば、自分だって生きて帰りたい。
だけど、『玉』を守る為に、犠牲にならなくてはいけない駒が、必ずある。それが…自分だってことを、自分で充分理解している。
「だぁーら、そんな辛気臭せぇ顔すんなっての!…おっ、このヨーグルトうめぇな!」
「アスマ…」
「帰って来たらよ、またこのヨーグルト作ってくれよな」
「……うん」
「あと、ちょっと任務が長引きそうだけど、俺がいねぇからって浮気したら許さねぇぞ?」
「…するわけないでしょ、バカ」
彼女の口から放たれた声から、不安がほんの少しだけ抜けていった気がした。
「ははっ、冗談冗談!……とりあえず、身体には気をつけろよ」
「…うん」
朝食を全て食べ終え、歯を磨き、顔を洗う。キン、とする水の冷たさに負けないように、思いっきり顔をあげ、鏡に映る自分の顔を見た。恋人に向ける顔から、任務に取り掛かる顔へと切り替える。
着替えを済ませ、忍具を身に着け、今はもう吸わなくなった煙草を引き出しから取り出し、御守りのように腰に付けた。しっかりと靴を履き、立ち上がる。
「…じゃあ、行って来る」
「…必ず、帰ってくるのよ…」
背後から朧気に放たれた消えそうな声。思わず、彼女のその華奢な身体を抱き締めていた。優しく、壊れないように、だけど力を込めて。
「…あいよ」
そっと彼女の柔らかい唇にキスを落とし、ゆっくりと視線を合わせた。ほんの一瞬だけ、優しく甘い空間に酔い痴れそうになる。
…だけど、行かなくては。
守らなくては…───。
「…行って来る」
「…行ってらっしゃい」
静かに開いた扉の外からは、雲がかった空からかすかに覗く光が降り注いだ。その光の中に、木の葉の象徴でもある緑色の背中が溶けていった。彼女は扉を閉ざす事なく、ただ最愛の男の無事を祈るように、その背中が見えなくなるまで最後まで静かに見送っていた。
待ち合わせ場所にはもうシカマルは来ていた。
「…へっ。俺はコイツに全てを託すぜ」
「ナニ独りでブツブツ言ってんだよ」
「いーんや、なんも!さー、やるか!」
「はいよ」
シカマル…
忘れないでいてくれ。
そして、生きて、守り抜いてくれ。
この里の、『玉』を…
…俺はお前に、全てを託す。
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2008.04.06
2021.04.30加筆修正
Gleis36