目を醒ますと、そこにはもう、あなたの姿はとうに消えていて。
空っぽになってしまった部屋を見渡してみる。
夕べ飲み干してしまったジャックダニエルのボトルは、勿論“彼”のお気に入り。その横に寄り添うようにあるのは、私が飲み干したシャルドネが入っていたワイングラス。彼が使っていたロックグラスの中の氷は、当たり前だが溶けきっていた。
灰だらけの灰皿と、脱ぎ散らかした真紅のドレスやランジェリーたち。極めつけに、アルコールの匂いと煙草の匂いが、鼻腔を刺激する。
二日酔いをするほど飲んでいないはず。昨晩の事だって、はっきりと覚えている。しかし、頭痛はしないものの、倦怠感が半端ない。もう一度だけ、ぐしゃぐしゃのシーツに顔を埋(うず)めると、まだほんの僅かに、“彼”の匂いが残っていた。
つい数時間前までは愛おしく感じていたはずなのに、今となってはそれがうっとおしくすら感じるほど。のろのろとベッドから這うように起き上がると、空のワイングラスの横に千切り取られた小さな紙切れが置かれているのに気が付いた。
『また連絡する。』
男の癖に、妙に綺麗で、かつ几帳面に書かれた文字を、ぼんやりと眺める。
「何が 連絡する、よ。その気もないくせにカッコつけないでちょうだい」
紙切れをぐしゃぐしゃにし、叩き付けるようにゴミ箱に投げ捨て、そのままシャワー室へ向かった。汗ばんだ体に熱いシャワーを流す。自慢のボディをどんなに綺麗にしたって、心の汚れなんて簡単に取れないものね。などと考えながら溜息ひとつ洩らすと、ふと昨晩の事が脳裏を過(よ)ぎった。
初めは、完全に 売り言葉に買い言葉だった。
「俺はなァ、昔っからお前のそのやり方が気に食わねぇんだよ!」
「あら、どんなやり方かしら?」
「ルパンに色目使って、テメェの手は汚さずに獲物を手に入れるとこだよ!」
「そんなことしてたかしら?」
「シラを切る気か、テメェ!」
クラシカルジャズが流れる薄暗いバーには、客は殆どいない。彼が頼んだグランダッドのグラスは早くも空になっていた。そのグラスをカウンターに叩き付けると、ガシャン、という乾いた音がバーに響いた。
「ちょっと、やめてよ大声出すの」
「さすがの俺も、堪忍袋の緒が切れたってことだ」
「何が“さすがの俺も”よ」
「だいたいなァ、今回の件だって…」
「こんな雰囲気の良いお店にいきなり呼び出して、何を言い出すのかと思ったら、そんなこと。あなたなんかにお説教される筋合いはないわ」
「ハッ!俺がテメェを口説くとでも思ったか?聞いて呆れるぜ」
「あら、思ったわよ?」
「なっ…!」
思ってもいなかった言葉に、彼は返す言葉に詰まったようだ。あまりにもその反応が可笑しかったもんだから、もう少し虐めてやろうかと思った。
「本当は好きなんでしょう?アタシのコト。でも、あなたはルパンの相棒だから、相棒のオンナには手は出せねぇ〜、なんて考えてるんでしょ」
「じっ…自意識過剰も大概にしろよな!」
「ふーん?そう」
彼は、先刻注がれたばかりのグランダッドを一気に飲み干した。バーボンやウィスキーはストレートかロックでじっくり味わって飲むのが良いんだ、なんて言い張ってたあなたが一気に飲むなんて、ねぇ。
形勢は、一気に逆転。僅かに鼻で笑い、深々と被った帽子に隠れた彼の表情を覗こうとした。
「じゃ、相棒の女だろうがなんだろうが、女の一人や二人、抱くことすらできないのね」
「ばっ…!馬鹿にすんじゃねえ!」
「あら。じゃあ、できるの?この私を満足させられる?」
「だから!自意識過剰も大概にしろよなっ!」
「ふーん。できないの」
「できっ…!なくねぇよ!」
「じゃあ、私を満足させてよ」
「おーおー、やってやろうじゃねぇか!」
一連のやり取りを横目で見ていたマスターに、彼は勘定を済ませ(というかチップを足したとしても若干多いくらいのお金をカウンターに叩き付け)、私の腕を強引に引っ張りながらバーを後にした。
「ふざけんな…なんでお前なんかと…!」
「でも、好きなんでしょう?」
「知らねぇよ」
「フフ、素直じゃないのね」
少し目を伏せてはにかむ。彼は私のドレスの裾に手をかけた。
「どうなっても…知らねぇぞ?」
「…どうなってもいいわ」
真っ直ぐ彼を見つめる。刹那、視線が交わる。人々はこれを、甘い瞬間と言うのだろうか。今の私達には、その言葉は使っていいものなのだろうか。
「不二子…っ」
やっと名前を呼んでくれた、と思ったと同時に口づけをされた。少し乱暴で、でもどこか優しくて。息が交わり、小さな声と共に漏れる。
私はこのとき、今日初めて彼の名を呼んだ。
「…次元……」
少しだけ、時が止まっていたように感じた。流れているのは、今私の頭から流れているシャワーのお湯だけ。
そう思っていた。
でも。
それだけじゃなかったみたい。
シャワーのせいで気付かなかったけれど、止めてみると、自分の目から涙が流れていることに後々気が付いた。
「…馬鹿ね。本気になんて、なっちゃいけないのに」
お気に入りのボディーソープの香りに包まれる。煙草と酒が混じる彼の香りは消えたけど、私の心の奥底では、彼の存在を消せずにいた。
空のワイングラスに、僅かにシャルドネの甘く香ばしい香りが残っているように────。
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2011.11.10
Gleis36