───憎くなるほど、好き。
…違う。
好きだからこそ、憎くなる。
甘い蜜の香りに誘われる蝶のように───。
「じゃ…」
「ん…」
今日も、彼は帰ってゆく。この部屋に匂い以外の何も残さぬまま。その背中を私は見送るだけ。
甘い言葉なんて、いつもはかけない。引き止めたりして、弱い女をアピールしたこともない。
そう、いつもは───。
「…ねぇ」
「なんだ?」
「いつまで続けるの?私達。」
「そうだな……お互いの気の済むまで、ってとこかな」
「なによ、それ。」
彼の背中に額をつける。ペルメルの匂いが染み付いてしまっているスーツ。少しだけ、息を吸う。すると彼は振り向き、怪訝な顔つきになった。
「俺らに答えなんかないだろ?」
「そうだけど…」
玄関先でこんなやりとりをするのは珍しい。自分でもわかっていた。頭ではわかっているはずなのだ。でもそれとは裏腹に言葉だけが口を滑って先走る。
いつもと様子が明らかに違う私に、彼は帽子から瞳を覗かせ、おどけるように言った。
「どうした。いつものお前さんなら、そんな捨てられた子猫ちゃんのような顔しねぇじゃねーか。」
「…不安なの。」
だめ。
言ってはいけない。これ以上は。
あなたが困る顔をするの、わかってる。
これ以上を求めてはいけないって、充分わかっているはずなのに。
細くて長い彼の足によく似合っている、グレーのスラックス。視線を落とし、綺麗にプレスされたその折り目を見つめる。タイトに、そしてさり気無くお洒落に着こなしてしまうのが彼。そんなあなたが大好きだった。
いいえ、大好きになってしまった。
「…憎くなるほど好き、って こういう事なのね。」
「好きだからこそ、憎くなるんだろ?」
「……行かないでよ」
「また来るさ」
ふいに掠めたのは、きっと彼の唇。一瞬の出来事だったけれど、それが口づけだとわかったのは、ほんの数秒後。
鼻先に残るペルメルの匂いと、僅かな味。その香りですら、甘い蜜の匂いに感じる。嫌いなのに、愛惜しくて。
我に返った時には、既に目の前の扉は閉ざされてしまっていた。扉に額をつけ、目を伏せる。目の奥が熱い。きっと私は今、泣いているんだ。
「次元……」
ああ、何て私は馬鹿なのだろうか。
初めのうちは、私が追われている方だとばかり思っていたのに。いつしかそれは、追う方へと変わっていて。いつのまにか私の方が彼を追い求めるようになってしまっていた。
甘い蜜の香りに誘われる蝶のように。
彼が去ってしまった後のこの部屋は、もはや空っぽのただの箱。虫篭にすらならない。そして私は、取り残されてしまった蛹(さなぎ)の脱け殻のようになってしまう。蝶として羽ばたいていた私は、ついさっき、どこかへ飛んで行ってしまったのだ。
じきに、ルパンや五ェ門がここへ帰ってくる。
そして彼も何食わぬ顔をして、ルパンの後を のこのこ とついて来る。まるで何も無かったかのように、私に目もくれず新聞片手に、ソファにどっかりと座るのだろう。
そしてまた、いつもの日常がやってくる。
ルパンは私に色目を使い、私はそれを適当にあしらいこの部屋へと逃げ込む。五ェ門は日本茶を啜りながら考え事をして、彼は新聞を読み終えマグナムの手入れをし始める。
ああ、なんて滑稽なのかしら。
次、あなたがここに独りでやってくるのは、いつなのか。今の私には、わからない。
こんな日常の中、僅かに交わる視線。そして鼻先を掠めるあの愛惜しい匂い。それだけで私は、噎せ返るほどの息苦しさを覚える。
早くあなたに逢いたい。早くあなたに抱かれたい。そう心で叫び続ける私は蛹。終わりの見えない恋に焦がれ、蛹は蝶に憧れるのよ────。
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2012.01.04
Gleis36