“誰かと抱き合っている時だけが、この世界を忘れられる。そんな時だけ、私は────…”
「……っ!」
はっとして目を醒ますと、心臓がどくどくと嫌な音をたてていた。まだ春先の肌寒さが残っているはずだというのに。背中は じっとりと汗をかいている。大きく深呼吸をし、薄暗い天井を見つめる。
(嫌な夢を見たな…。)
ふと、隣りを見ると、愛しい女がすやすやと規則正しく寝息をたてている。
夢に出てきた女ではなく、峰不二子が。
(…黙ってりゃ、イイ女なのにな。)
ふっ、と鼻で笑い、その美しく整った顔立ちに向かって俺は微笑んだ。
ずっと腕枕をした状態でいたせいか、腕が痺れていることに今更気が付いた。起こさないように腕をそっと外すと、不二子は少し唸って寝返りをうった。
重たく感じる上半身をやや起こし、時計に目をやると まだ朝の五時前。
(通りで薄暗いわけだ…。)
浅めの溜息を吐(つ)いて、ベットに座ったままポールモールの箱を取る。ジッポーの カラン、という音が やけに部屋に響き渡った。火をつけて、大きく息を吸う。たっぷりと味わうように吸い込んだ後に、ゆっくりと吐き出す。薄暗い闇に煙が溶けてゆくのがわかった。
(チッチョリーナ、か…。)
過去の女なんて、忘れるようにしているが、彼女のことだけは、忘れられなかった。
自分が本気で愛した女。そして、彼女もまた、俺のことを本気で愛してくれた。
夢にも出てきたあの言葉が、頭の中を何度も木霊する。
愛する人の手で殺されることを望んだ女。その時の俺には理解ができなかった。
「……次元…?」
背後から、か細い声が聞こえてきた。
「ん、悪りぃ。起こしちまったか?」
シーツに包(くる)まったままの不二子の頭を撫でてやると、彼女は優しく微笑んだ。いつの間にか短くなってしまっていた煙草を揉み消し、ベッドの中へと戻る。
「…別の女のこと、考えてたでしょ。」
「お前以外に女なんていねぇよ。」
「じゃあ、過去の女ね。」
(…こんな時にも女の勘ってのは、働くもんなのか。)
「…あ。図星でしょ。」
一瞬だけ間を空けていると、すかさず不二子は言った。溜息を吐いて、上目遣いの彼女から目を逸らし、俺は寝返りをうった。
「あーそうだよ。わりーかよ。」
「……“あのひと”のこと思い出してたの?」
「………。」
背中越しに聞こえた彼女からの問いかけに、俺は答えなかった。
不二子は、チッチョリーナを知っている。俺がルパンと出会う、もっと前。不二子と初めて会った時のことだ。
チッチョリーナは、俺のマグナムを不二子に奪い取らせて、俺をあの教会に誘き寄せ、そして俺に殺させた。どうせなら愛する人の手で殺して欲しい、と願って。その一部始終を、不二子は見ていたのだった。
「…いい加減、忘れなさいよ。」
その言葉と同時くらいに、後ろから抱き締められた。白くて、細く しなやかな腕が俺を包み込む。俺は、もう一度寝返りをうち、今度は不二子と向かい合うような状態になった。不安そうな顔つきの不二子の頭を撫で、子供をあやすように微笑みかける。
「たまたま夢を見ただけさ。もう忘れてる。」
「夢も見れないくらい、忘れさせてみせるわ。」
「おーおー、よろしく頼むよ。」
「ちょっと!人が真剣に話をしているっていうのに…」
こんな女でも嫉妬なんてするんだな、と思わず口元を緩めてしまった。
「…安心しろ。」
「え…?」
キスの雨を降らせる。
薄暗いはずのベッドルームなのに、目が慣れてきたからなのか、朝が近付いてきているからなのか、不二子の表情がよく見える。なるほど、実にイイ女だ。今まで出逢った女の中ではダントツに。
潤んだ瞳に、艶(あで)のあるふっくらとした唇。湿った睫毛に、透きとおるような白い頬。
彼女のすべてが、愛おしい。
そんな彼女に、自分が愛した証を残してゆく。俺のものだ、と証明するかのように。
「……俺にはもう、お前しかいない。」
「あら、ほんと?」
「……ああ。」
「ふふっ」
「だから、」
「……?」
“俺を、殺してくれないか。”
チッチョリーナ。
お前が言っていたことが、今ならわかる気がするよ。愛する人の手で殺して欲しいと願う、お前の気持ちが。
どうせ死ぬなら、この女に殺されたい。この女になら殺されてもいい、と思えてしまうくらい。元殺し屋が言うような台詞じゃないけれど。
…でも、それは、お前じゃないんだ。
今、俺の目の前にいる女なんだ───。
「……次元…?」
「あ、いや……、うまくやってかねーとなァ、ってよ…。」
「……そうね…。」
これが、俺にとっては、最期の恋かもしれねーな。なんて、俺らしくねぇこと考えて、心の中で苦笑した。
相棒に知られたら、きっと俺は殺されるだろう。
でも仕方がない。この女を愛してしまったのだから。本気で。
だから、もしそうなってしまったら、そのときは────。
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2012.05.13
Gleis36