中学生最後の冬を迎える頃、さとしはたまえと付き合うことになった。勿論さとしからのアプローチではあったが、たまえもずっと前からさとしのことが好きだったようだ。
そしてその頃、けんいちには生まれて初めての好きな人ができていた。
「大野君の成績であれば、もっとレベルの高い高校に行けますよ」
三者面談の時に担任の先生にそう言われた。母親は顔を綻ばせていたが、当のけんいちはというと、そんな話よりも廊下から聞こえてくる吹奏楽部の練習音をぼーっと聞いていたのだ。
けんいちが志望したのは、清水市内のごく平凡な公立高校。レベルで言うと中の上、といったところか。しかしここはひとつだけ有名なものがある。
サッカーだ。この高校は、全日本高校サッカー選手権にも出ているほどの強豪校なのだ。けんいちは、サッカー推薦でこの高校に入りたかったのだ。勉強が嫌だったのではない。もっとサッカーをしたかったのだ。
担任が挙げてきたのは県内有数の進学校で、東大だの京大だの有名大学への合格率が高いと言われる高校だった。偏差値だって足りてるし内申点もいい、だから…と続けようとした担任の言葉を遮ったけんいちの声は真っ直ぐであった。
担任はそれ以上咎めることもなく、母親も少し残念そうな表情をしたものの、息子のやりたい事をやらせたいという我が家の方針をぶらすことはなかった。
こうしてけんいちは受験勉強もほぼすることなく、サッカーの特別推薦を貰い、高校へと進学したのだ。
ちなみに親友であるさとしも、同じようにサッカーで推薦を貰い、けんいちと同じ高校に入学した(本人曰く、まともに受けてたら受からなかった、らしい)。
たまえは、自分のレベルを少し落としてこの高校を選び、推薦で難なく合格。
ももこはというと、どうしてもたまえと同じ高校に行きたかったのか、自分にとってはレベルが高いはずなのに同じ高校を選び、一般まで引きずり何とか合格した。ももこの勉強の面倒を見ていたたまえは、さぞかし大変であっただろう。
一生分の勉強をしたとぐちゃぐちゃに泣きはらした顔をして合格発表から帰ってきた日のことは、本人の中でも思い出となったらしい。
仲良し四人組が無事に同じ高校に春から通える、ということになったのである。けんいちは、自分の好きな人と同じ高校に通えることが嬉しくて、胸を高鳴らせていたのであった。
*****
「ねえ。おおのくん、」
「へっ?」
「何考え込んじゃってるのさ?」
「いや、昔のことを思い出しててさ。」
「昔のこと?」
「そ。 俺が清水から東京に引っ越すときに、さくらが一緒に新幹線乗ってきたこととか」
「げっ…」
「清水に帰ってきたばかりの頃、お前相変わらずばあさんみたいな口調で“色男っ♪”とか言ってたなあとか」
「言ったっけー、そんなこと」
「“一生分勉強したあ〜”って泣きながら高校の合格発表から帰ってきたさくらの顔がぐっしゃぐしゃだったこととか」
「うっ…」
「なんか…色々あったなーって、しみじみ、ね。」
「珍し。大野くんがセンチメンタル入るなんて。」
「なんだそれ。」
乾いた笑いを溢したけんいちは、隣にいるももこの手をとった。
月日が経つのは早いものだ。今は、大学に進学した後のことを考えている自分がここにいる。
そして、隣りを歩く、自分にとって一番大切な人との将来を考えている自分がここにいる。
けんいちにとって、もともと自分のレベルより低い高校だったため、成績はいつも上位三位以内には入っていた。勉強に苦労することなくサッカーに専念できた高校生活。
自分が部長の代に、さとしと長谷川と一緒に全日本高校サッカー選手権に行けたのも、良い思い出だ。おかげで大学にも難なく合格できた。
自ら勧んで行きたい場所ではなかったが、将来のことを考えて結局東京のそこそこの国立大学にした。
ももこも美術の道を極めたいとか何とかで、東京の美大に通うことになった。
ももこと一緒に行けるのであれば東京も悪くないかな、なんて考えている自分に思わず苦笑したけんいちだった。
ももこに想いを告げた高校二年生の夏のことも、今でもはっきり覚えている。
部活帰りのさとしと、委員会を終えたたまえが一緒に帰ってしまった放課後。たまちゃん取られたー、などと毎度のことながらぶつくさ言いながら口を尖らせていたももこ。じゃあ一緒に帰ろうと誘ったけんいちの心臓は、本当は破裂しそうだったのだ。
いつかのときの、あの夕凪のような。じっとりと汗ばむ背中と高鳴る鼓動。
少し前を歩くももこは、先刻買ってあげた(正確にはじゃんけんに負けたから買わされた)アイスを頬張り、とても軽い足取りでそれはいかにもご機嫌、といった様子で。自分のアイスが溶けかかっているのも忘れていたけんいちは、唐突に口を開いた。
「なあ。おれら、つきあお。」
訳もわからずに、ただ平仮名だけを並べたような、そんな告白だった。振り向いたももこの目はまん丸だった…はずだ。逆光でよく見えなかったけれど。
ポタリ、と溶けたアイスが熱いアスファルトに小さな丸い染みを作った。うん、と小さく頷いたももこの頬は夕陽と同じ色をしていた。
また、山からの風が吹き始めた。
切り取られたようなその瞬間を、けんいちは一生、忘れることはなかった。
もう、とんでもない過去の事のように思えるが、まだ たかだか一年とそこら前のことだ。
「大野くんの言う昔は、全然昔じゃないよー」
「い、いいだろ!別に。」
「春霞、たなびく山の、花桜。見れどもあかぬ、君にもあるかな。」
「なに言ってんだよ。」
「えー大野くん、知らないのー?ふふふっ」
(まさか、こいつにこんなふうに言われる日が来るとは。)
大野けんいちは不貞腐れたようにむすっとした。
「古今和歌集だよー」
そう言いながらころころと笑うももこはどこか嬉しそうで。
(そうか。さくらは古文が好きだったな。)
理系の自分にはその意味がさっぱりわからなかった。試験に出てくる範囲以外のものは知ろうとも思わないし、ましてやわざわざ自分から千首以上ある和歌から抜粋して調べたりするなんて以ての外だ。
肩越しに見るももこはやっぱり嬉しそうな顔をしていて。好きなものを嬉しそうに話すももこの顔を見つめ、ああやっぱり自分はこいつのことが好きなんだなあと改めて実感するのだ。
この先の巴川にかかる橋を渡ってちょっとしたら、ももこの家はすぐそこだ。まだ離れたくないな、そうけんいちは思うのであった。
「昔、ってさ、あたしたちにとっての昔はすぐそこだけど、この歌を詠った人たちの昔は、あたしたちにとってのずーっとずぅーっと昔になるんだよね。」
「え、あ、ああ。そうだな。」
急に何を言い出すのやら。
でも、そうなのかもしれない。
自分にとっての昔なんて、宇宙の一生からしたら、ほんの瞬き一回ほどにしかならないのかもしれない。いや、もしかしたらそれ以下かもしれない。そんなふうに思うけんいちだった。
ふと見上げてみると、桜の蕾が膨らんでいて、今にも花を咲かせそうだった。例年より早い開花となりそうです、と朝のニュースでアナウンサーが声を弾ませていたのを思い出した。
ももこの手を握る力が、少し強くなる。
「春霞のたなびいている山に桜咲く花を見て飽きることがないように、君にいくら逢っても、君のことをいくら見ていても、決して飽きませんよ。」
「はあ?」
「さっきの和歌の意味。」
「見飽きることのないって…」
少し呆れたように言ったら、ももこがそれを遮るように口を挟んだ。
「どんなに一緒にいても、満足できないくらい好き!ってこと!」
「なっ…!」
「東京だろうが何だろうが、どこに行っても、ずっと一緒だよ。大野くん。」
「さ、くら…」
きゅっと握り返されたももこの手は若干汗ばんでいて、頬も少し紅潮していて。
そんな彼女が愛おしくて、愛おしくて。
巴川にかかる橋の ど真ん中であったが、けんいちは、気が付いたらももこのことをきつくきつく抱き締めていた。
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2014.07.31
Gleis36