今日は、放課後に委員会があった。たまえの入っている図書委員は、本棚の整理に思いの外時間がかかってしまい、他の委員会より長引いてしまった。
急いで家に帰り、私服に着替える。その時に、髪の毛が引っかかってしまい、朝にセットした三つ編みが崩れてしまった。ピアノのレッスンが始まる時間が刻一刻と近づいているため、直している時間はない。仕方なく、ほどいてから軽く手ぐしで整えた。
そしてピアノのレッスン用のバッグを持ち、慌ただしく家を飛び出した。
何本もの針が突き刺さるような真冬の風が、白い肌にこれでもかというほど吹きつける。たまえは、寒空の下、手袋してくればよかったな、なんて小さな後悔をしていた。
左手首に着けた腕時計の時間を気にしながら、早足で歩く。
「どうしよう…間に合わないかも…」
溜息なのか深呼吸なのか、自分でもわからないほど深く吐いた息は、白い雲が青空に溶けるように、上空へと吸い込まれていった。
「…穂波?」
背後から聞こえてきた声の方に目を移すたまえ。
「すっ…杉山くん…!」
そこには、自転車にまたがったまま、きょとんとした顔でたまえを見つめるさとしの姿があった。自転車の篭には、サッカーボールが入っていた。きっと彼の親友であるけんいちと、サッカーの約束でもしているのかな、とたまえは思った。
「髪の毛、おろしてるから一瞬誰かと思ったけど、やっぱ穂波だったんだな!」
そう言うと、さとしはきれいに並んだ白い歯を出して笑った。そんな顔を見たたまえの頬は自然に紅潮した。そして恥ずかしそうに視線を泳がす。
「ちょっと、急いでて…」
「何?急いでんの?」
「う、うん…。図書委員会が長引いちゃって…ピアノのレッスンに間に合うか…」
そう言ってまた、たまえは自分の腕時計の時間を気にした。
「よしっ!じゃあ、後ろ、乗ってけよ!」
え、と顔をあげると、そこには自転車の後ろの荷台を親指で指し、ニカっと笑うさとしの顔があった。
「で、でも…これからサッカーしに行くんじゃないの…?」
「だーいじょうぶ!少しくらい待たせたって大野、怒らねーし」
「でも…」
「いーから!早く乗れっての!後ろで道案内、してくれよな!」
強引にたまえが持っていたバッグを奪い、篭に入れる。そして腕を強くひき、後ろの荷台に乗るように促した。
「ご、ごめんね…」
「いーっていーって!んで、どう進めばいいんだ?」
「え…っと、まず、この道をしばらくまっすぐ…で、ふたつめの交差点を右…」
「オーケー。ちょっくらスピード出すから、しっかり掴まっておけよ!」
「う、うん」
杉山の服の裾をちょこん、と掴む。
「そんなんじゃ、振り落とされっぞ!」
「はっ、はいっ」
顔から火が噴き出しそうなくらい、真っ赤になるたまえ。さとしの腰からお腹へと手を廻した。ああ、後ろの席だから杉山くんに顔が見られなくてよかった、と心の底から思った。
「よし、じゃあ行くぞ!」
予告通り、スピードをかなりあげる。きゃ、と小さく声をあげたたまえは、思わずぎゅっと抱き締めてしまった。
「きゃっ!ご、ごめんなさ…!」
「へへっ、穂波みたいな真面目なヤツ、二人乗りなんてしねーもんな」
「うん、初めて」
「安全運転すっから、安心してろ」
「ありがと…」
───本当は大野くん、待ち合わせに遅刻したらちょっと文句言うんだろうな。それなのに杉山くんは、困ってるわたしのことが放っておけないんだろうな。
正義感の強いさとしの優しさに胸が暖かくなるたまえは、思わずその背中に額をこつんと控えめにくっつけた。さっきまでの肌を刺すような風は、さとしによって遮られている。杉山くんは寒くないのかな、とたまえは少し心配した。
ほのかに頬を紅潮させた中学生が二人乗りをしている。こんな姿、誰かに見られて噂になったりしたらどうしよう、なんてたまえは考えたりしていた。
さっきまで考えていた心配事と比べると、なんて幸せな心配事なんだろう、なんて考えるたまえは、困ったような嬉しいような微笑みを浮かべていた。
「しばらくまっすぐ。そしたら煙草屋さんを左…」
「おう」
どこか暖かくて、はにかんだ笑みがこぼれそうなくらい、ふわふわしたような僅かな沈黙があった。
白く吐かれた息だけが道に取り残されていくだけで、不思議と寒くは感じない。その沈黙を先に破ったのは、さとしの方だった。
「…あの、さ」
「え?」
杉山らしくないような、くぐもった声。
「髪の毛…おろしてるの、結構、いいと思うよ。…俺は」
「え…」
思わずさとしを見上げるたまえ。
後ろからはその表情を伺えることはできなかったけれど、その耳は確かに真っ赤で。寒さで霜焼けしているのか、自分の言ったことに恥じているのか、たまえにはわからなかったけれど、とても嬉しかった。
「…ありがとう。…あっ!そこを右です!」
「お、おう…!」
焦っているような、慌てているようなさとしのハンドルさばきは、さっきとはまるで違かった。少々荒いカーブのおかげで態勢を崩しそうになったたまえは、思わずまたぎゅっと力を込めてしまう。
「ご、ごめんね…!」
「いや、俺こそ、ごめん…。……あ…」
杉山の視線の先には“ピアノ教室”の文字。寂しそうに吹く風は、寒々とした音をあげている。
「ここか?」
「うん。ありがとう、杉山くん」
たまえが荷台から降りた。ウェーブがかった栗毛色の髪が揺れる。ワンピースをぱたぱたと叩き服装を整え、もう一度、さとしを見る。たまえの真っ直ぐな笑顔に、思わず紅潮する頬を、慌てて隠すようにマフラーにうずめた。
「なっ、なんてこたねぇよ…!」
ふふ、と妖精のようにころころ笑うたまえを直視できなかった。
「本当にありがとう。それじゃ…」
「おう!ピアノ、頑張れよ!じゃーなっ」
Uターンして、振り返ることなく来た道を戻っていくさとし。さとしが角を曲がるまで見送るたまえ。二人とも、高鳴る心臓の音を押さえるようにしていた。
小さくついた息は、白いまま青空へと溶けていった。
今度は確実に深呼吸だった。
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2008.12.27
2021.04.10加筆修正
Gleis36