ねぇどうして、
あの頃のわたしは、
あんなにも、うまく笑えなかったのかな。
ごめんね。
嬉しかったはずなのに。
素直になれなくて。
今、どんな気持ちですか───?
どうしてか、決まっていつも、この巴川沿いの畦道を歩いてしまう自分がここにいる。最寄りの清水駅から実家までは結構な距離があるというのに。
いつだったか。
紅く染まる頬がわからなくなるくらい、辺りは柔らかな橙に包まれていて。あなたと肩を並べて歩いた、淡い年頃のわたし。
いつだったか。
あの子と手を繋いで歌いながら帰るのが日課になっていて、かけがえのない日々を送っていたあの頃のわたし。
いつだったか。
あなたとも、あの子とも出会う前。
「お父さんのおよめさんになる!」と言って父から離れようとしなかった、幼かった頃のわたし。
そんなわたしが、この世に産声をあげたときからずっと。いつだって、たくさんの愛情をわたしにそそいでくれた。
「ただいま。」
「あら、お帰りなさい。連絡してくれれば迎えに行ったのに」
「ううん、大丈夫。地元を歩くの、好きだから。」
「あらそう?」
ふふふ、と微笑みながら母は台所の方へと歩いていった。今夜はシチューだろうか。甘いぬくもりと、良い香りが鼻先を掠める。
「お父さんは?」
「まだ帰って来てないわよ。今日はちょっと遅くなるみたい。」
「そっか。じゃああの本、お父さんの部屋から借りてきていいかな?」
「ええ」
母は、背中を向けたまま返事をする。包丁が規則正しいリズムを刻み、手際よく夕飯の支度を進めていた。
高校卒業までの長い年月を過ごした自室は、今はもうほとんど空っぽになってしまっている。何も乗っていない勉強机の上に荷物とコートを置き、父の書斎へと向かう。読みたかった本を父から借りる約束をしていたのだ。
父の書斎の扉を開けると、懐かしい匂いと風景が広がった。久々に、この部屋に足を踏み入れた気がする。しかし、いつぶりなのかはもう思い出せない。
“たまえメモリー”と称されたアルバムがずらりと並んだ父の書斎。勿論普通の本もあるけれど、本棚の半分以上はその“たまえメモリー”で埋まっていた。
「お父さん…」
“たまえメモリー1”を手に取り、一頁目を開く。すると、少し色褪せた写真とコメントが添えられていた。
生まれたばかりの自分。生年月日と生まれた時間までもが、丁寧に書かれていた。
『1965年6月18日 午後5時21分 たまえ誕生。可愛らしい小さな天使が、僕らの元に舞い降りてきました。』
そこからずらりと並ぶ赤ちゃんの頃の写真。十頁程めくると、わたしが1歳の頃の写真が並ぶ。
そのまた十数頁後には、幼稚園の入園式のときの、3歳のわたしまでとんでいた。
小学校の入学式くらいまでは、各行事ごとに写真におさめていたが、それがいきなり増え出したのはわたしが8歳になったばかりの頃だったことは、今でもはっきり覚えている。父がカメラにこだわり始めたのはこの頃だった。
何かと理由をつけては「記念に一枚…」と言いシャッターを押す父に、わたしは嫌気がさし、母と一緒になって呆れ、時には怒りもした。
“たまえメモリー2”からはほぼその頃からの写真ばかり。
嬉しそうに自慢のライカを首から下げ、ファインダーを覗く父の顔を思い出す一方で、写真の中のわたしはというと、そのほぼ全てが怒った顔ばかりだ。
『5月20日 たまえが初めてクッキーを焼いた日。美味しかったなあ。』
『6月6日 梅雨入りして不機嫌そうなたまえ。僕も梅雨はあまり好きじゃない。』
『7月25日 夏休みが始まって、まるちゃんと夏祭りに行った。たまえはまるちゃんと一緒だと本当に楽しそうだなあ。』
『8月15日 軽井沢へ、二泊三日の家族旅行。バーベキューそっちのけでたまえを撮ってたら、たまえに怒られてしまった。』
『9月3日 福引きをするたまえ。ハズレで何だか悔しそう。』
『10月27日 夕飯のおかずをつまみ食いするたまえを撮ったら、怒られてしまった。食欲の秋だから、お腹が空いたのかな?』
『11月30日 町内会にて。落ち葉拾いをするたまえ。お父さんも写真ばかり撮ってないで掃除して!と怒られてしまった。』
『12月25日 家でクリスマスパーティーをやった。サンタさんからのプレゼントに喜ぶたまえ。』
『1月1日 お正月のたまえ。晴れ着姿がとても似合っていて可愛い。』
『2月14日 たまえからバレンタインのチョコをもらった!とても嬉しい!もったいなくて食べれない!』
『3月3日 桃の節句。まるちゃんと雛人形の前で記念に一枚。』
どれもこれも。
怒っている顔の、わたし。
《お父さん、いい加減にして!》
《もうっ!お父さん!恥ずかしいからやめてったら!》
《何でこんなとこまで撮るのよ!》
《お父さんなんか嫌い!》
今にもそんなふうに言ってきそうな、怒った顔のわたしの写真で溢れている。そんな写真にも、父は丁寧にコメントをつけていた。
「ごめ……」
ぱた、ぱた、と。
涙がアルバムの頁に落ちている音が、自分の耳に入る頃には、もう止められなかった。
「ごめん、ね…、お父さ…ん……」
どうして。
もっと、笑ってあげられなかったんだろう。
ねぇ、どうして。
もっと、可愛い娘でいることもできなかったんだろう。
「っ…ごめ、んなさい…っ…」
お父さん、お父さん。
ごめんなさい。
でもたまに、本当にたまにだけど。
自分でも驚くほど、良い笑顔が撮れている。
その笑顔の先にいるのは、あの子だったり、大切なあのひとだったり。そして、お母さん、お父さんだったり。
一瞬だってシャッターチャンスを逃さない。
それが、わたしの父だから。
「お父さん。」
涙を拭いて。
「来週には、一番良い笑顔でいるから、」
アルバムを閉じて。
「たくさん、たくさん、わたしを撮ってね。」
人生で一番、輝ける日。
「たまえー!さとしくんから電話よー!」
もうすぐ、わたしは“杉山たまえ”になります。
お母さん。
そして、お父さん。
ここまで育ててくれて、本当にありがとう。
わたし、幸せになるからね。
絶対、幸せになるからね。
だからお父さん。
最高の一枚を、“たまえメモリー”の一番最後の頁に、残しておいてね。
「今行くー!」
そして、いつの間にか薄暗くなってしまっていた父の書斎を後にした。
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2011.02.10
2021.04.10加筆修正
Gleis36