べとつきの少ない初夏に吹く風が心地良い昼休みの屋上。季節の割りに高く澄んだオゾンに辛気臭い溜息が溶けてゆく。溜息なんてつくのは自分の柄ではない。小学校の頃からの親友が今自分の隣にいたら、眉間に皺を寄せて肘打ちしながら「らしくねーぞ!」なんて言うのだろう。
いつもなら、気の合う仲間とサッカーしにグラウンドに駆け出している時間。だけど、今日はそんな気分ではないけんいちは、また“らしくない"溜息をつく。屋上からグラウンドを見下ろすと、自分の親友やいつもつるんでいる仲間が制服のままサッカーボールを追いかけている。誰かがやっているサッカーを見ていると、つい「何やってんだよ〜」「そこ!パス!おいおい違うだろ〜」「よし!今だ!」などとごちゃごちゃ言いながら自分の体も疼くのだが、今日は違かった。特にこれといって何も感じないのだ。それどころか、サッカーを“見ている"のではなく、サッカーをしている様子をただボーっと“眺めている"だけだったのだ。
「…何してんだろ、俺。」
溜息なんかついちゃってさ、と悪態をつくように心の中で吐き出した。
別に悩み事なんてないはずなのに。そう、ないはず、なのだ。自分ではそう思っているのに、心と体が別の動きをしている。一体脳ではどんな信号が出ているのだろう、と訳の分からない疑問が浮かんでは思わず苦笑する。
何度もついた溜息が、雲ひとつない夏空に静かに溶けた。
「あら」
背後から少し甲高く、強気な印象の声が聞こえてきた。けんいちはすぐにその声の主が、溜息の原因ともなっている城ヶ崎姫子のものだと分かった。
「よう…城ヶ崎」
「クラスの人気者のあなたが、昼休みにこんなところに独りで何してるのよ」
姫子はこうやってすぐ皮肉を言う。本人はそのつもりはないのだろうけど、その癖のある声のせいか、皮肉を言っているように感じてしまう。きっとそう感じるのも自分だけなのだろうけど、とけんいちはそっぽを向く。
「なんだよ…人気者って。俺だって独りでボーっとしたい時、あんだよ」
「あら、そう」
姫子はけんいちの隣にやって来て、そのままグラウンドを向き屋上の手すりに肘をかけた。けんいちは乱暴にポケットへ手を突っ込んで、グラウンドに背を向けるようにした。
特に話すこともせず、ただ黙ってグラウンドを見つめている姫子。見つめている先が何なのか、少しだけ気になったけど、見たりしない。あいつの視線の先なんて。と唇を尖らせ、その代わりにわざとらしく盛大に溜息をついてやる。
グラウンドから微かに聞こえる生徒達の元気な声よりも、夏空を自由に羽ばたく雀の声の方が、けんいちの耳には響いた。少しだけ、ほんとうに少しだけ。けんいちにとって、居心地の良い沈黙に変わってゆく。
そんな沈黙の中でカチ、という音が聞こえてきた。携帯電話が開く音だ。自分も折りたたみ式だから、見なくても音でそれくらいのことはすぐに分かる。
どうしてか、姫子はこういう時によく携帯を開くのだ。着信があるようでもないし、特にこれといって何かを見ているようでもないのに。沈黙が嫌いなのか、居たたまれないのか、はたまた「城ヶ崎姫子に気を使わせないで。あんたから話しなさいよ」なんて考えた上での行動なのか、けんいちにはさっぱり分からないのだが。どこか居心地の良かった沈黙だったけど、仕方なく自分から破ってやる。
「お前こそ、こんなところに独りで何してんだよ?」
「別に。何となく、外の空気が吸いたかっただけよ」
携帯のディスプレイから目を離さないまま言う姿を肩越しに感じながらけんいちは空を仰いだ。
「へえ…」
「ねぇ」
姫子はパタン、と携帯を閉じて話し始めた。振り向くけんいちと、一瞬だけばちっと視線が交わる。そんな攻撃的な視線を向けなくてもいいのに、と思わずけんいちは辟易する。
「あなた、好きな子、いるんでしょう?」
「すっ…!」
急に何を言い出すのかと思いきや、好きなやつだぁ?どうして女って生き物はすぐ人の恋の話、自分の恋の話をしたくなるんだろうか?けんいちは思いきり怪訝な顔を向ける。
今までどういう恋愛をしてきただの、自分はこういう恋愛時代を送ってきただの、聞いてもいないのに別にわざわざ話す必要性のないことばかり一方的に話される。そしてしまいには、人の恋愛に首も突っ込んでくる。つくづく面倒くさい。
きっと、女っていう生き物はそういうもんなんだろうな、と中学生になってから少しずつ分かってきたような気がしていたが、いざ自分のことを聞かれるとやっぱり煩わしさを感じざるを得ない。
「…どうして、そう思った?」
「どうしてかしらね…なんとなく、かな」
「俗に言う、“女の勘”ってヤツか?」
「そんなところ、かしらね」
そう言ってから、姫子はくすくすと小さく笑った。
─── 何がおかしい。
俺に好きな人がいる?
あんたに何がわかる。
俺には… ────
「素直に、なったらどうなの?」
「はぁ?」
姫子はけんいちの顔を覗き込むような態勢になった。今度は確実に、かっちりと音が鳴っているような、それはもうしっかりと目が合った。
「(なんだよ、その上から目線。)」
覗き込まれているのに、上から見下ろされているような居心地の悪い感覚にいたたまれなくなり、思わずけんいちは目を逸らした。
けんいちが中学二年生になって、東京から清水へ帰ってきたばかりの頃。姫子と美男美女カップルだなんて噂になったことがあった。誰がこんなやつ、とそのときは全否定した。
それから時は経ち二学期も後半に差し掛かる時期の大イベント、文化祭。くじ引きで負けて文化祭実行委員をやらされたけんいちと、同じくハズレくじを引いた姫子は一緒に仕事をするはめになった。
最初のうちはこんなやつと…と肩を落としていたけんいちだったが、派手な見た目の割りに真面目で、意外と正義感が強い姫子を見ていて、そういえば昔からこいつはそういうやつだったなと今更ながらに思い出したのだ。女王様気質で独裁になるかと危惧していたが、全くそんなことにもならなかったのだ。むしろ男女関わらずクラスメイトからの信頼も厚く、クラスの出し物もすぐに決まり、役割分担も計画を立てるのも、皆の意見を聞きながらうまく取りまとめてくれて、とても仕事がしやすかった。
ほどなくして文化祭は無事に終わり、その後の片付けも委員会報告も済んでから、「あなたと一緒に仕事ができてよかったわ」と清々しい挨拶と握手を交わしたとき、姫子と一緒に仕事をすることがもう無いのか、とけんいちの心には寂寥感が芽生えていた。
ただの女王様だと思っていたのに、姫子の意外な人柄を知ったけんいち。この頃からずっと、姫子のことが気になり自然と目で追うようになっていたのだ。
中学三年生になってからは委員会が被ることもなく、特にこれといった特別な何かが二人の間にあった訳ではないが、こうしてたまに会話を交わすことは最近増えた気がする。そのせいもあっての、この溜息の多さな訳なのだが。
「いねーよ、んなもん…」
適当に返事を誤魔化すと姫子はふぅんと唇を尖らせた。
「な、なんだよ」
「まあいいわ。見てなさい、絶対に言わせてやるんだから。」
目を細めて口角を上げる。確かに姫子は美女だ。誰が見てもそう言う。でも顔だけじゃない。姫子の良さは、たったいっときと言えど一緒に仕事をしたけんいちにはよく分かる。
「俺は…」
「もういいわ。」
けんいちの言葉を遮る姫子の声はどこまでも真っ直ぐで、凛としていた。自分から聞いておいて何だよ、と眉を顰めるけんいちだった。
「今はきっと、そのときじゃないの。あなたが言ってくれるときが、わたしも言うときだから。」
それは、つまり。
─── 俺がこいつのこと、これから好きになるってことが見抜かれてるってことか?
結局こいつはどこまでも女王様なんだな、と思わず苦笑する。
しん、と静まり返る屋上。詰め襟の隙間をすり抜ける風は、先刻までは心地良いほどだったはずなのに、今は少しだけ暑く感じる。気がつけばもうすぐ衣替えの季節だ。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。その音を聞くと、姫子はじゃあねとだけ告げて潔く踵を返し去って行った。けんいちはチャイムが鳴ったことも忘れ、呆然とそこにただ立ちすくみ、また空を仰いだ。
「俺が言うときが、あいつも言うときだから、か……」
姫子に言われた言葉を復唱するように零す。屋上に吹く風の向きが僅かに変わった気がした。
「やっぱ、柄にもねぇよな…」
無意識に唇を滑ってゆく言葉は、雲ひとつない澄んだ夏空に、また溶けていった。
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2008.11.01
2021.04.11加筆修正
Gleis36