夏風がサッカー部の部室の中を通り抜ける。あと一週間もすれば夏休みという季節だ。そんな真夏日なものだから暑苦しい陽射しが直に射しこむ部室にとっては、ふいに通り抜ける夏風すらもなかなか心地の良いものだった。
「あのさ」
そんな心地の良い空間なのに、けんいちは心底かったるそうに口を開く。
「なんで、お前はここにいるわけ?」
「何か問題でもあるの?」
「いや、問題があるとかないとかそういうんじゃなくて」
「そういうんじゃなくて?」
姫子が至って普通に澄ました顔で問うと、けんいちは返答に詰まり呆れたように溜息をついた。
「…別にいいけどさ」
「ならいいでしょ、ここにいても」
特に見るものもないし、メールや着信が来ているわけでもないけれど、姫子は無意味に携帯を開いた。会話がなくなったりどうしていいか分からなくなったりすると、こうやって携帯を無意味に開く癖がある。姫子のその行動をどこまで察してるのか分からないけれど、そんなときは決まって必ずけんいちの方から話し始めるのだ。女の気持ちなんてこれっぽっちも理解できていないあいつがわたしの気持ちなんて察しているわけない、と心のどこかで思っている姫子であったが、そんなふうにされるとちょっとだけ期待してしまうのもまた然り。
「なあ」
「何?」
姫子は、けんいちに背を向けるようにして部室にあるベンチに座っていた。耳に届く、ユニフォームの生地がこすれる音。その音に反応するように、少しだけ胸の鼓動が速くなったのは…きっと気のせいね、と自分自身を落ち着かせる。
「お前さ、俺なんかに構うの、やめろよな」
着替えながら話を続けるけんいち。スポーツバッグのファスナーの音が部室に響く。さすがに中学三年生ともなると、PUMAのロゴも擦り切れてかなりボロボロだが、それでもこのバッグはけんいちのお気に入りだった。
「あら、何で?」
「お前のファンとやらがめんどくせぇんだよ」
「あなたが今言ったこと、そのままあなたに返すわ」
「あ?」
パタン、とロッカーが閉まる音がしたのを確認してから、姫子は背を向けていたけんいちの方を向く。薄暗い部室では夏服の白シャツは眩しいくらいだった。
「あなたのファンとやらも、結構面倒くさいのよ?」
はぁ?と眉間に皺を寄せるけんいち。
───ほら、やっぱり。
女の気持ち、全く分かっていないじゃない。
深呼吸なのか溜息なのか分からない息を吐いて、大きな瞳を真っ直ぐとけんいちに向ける。
「面倒くさくならないようにしちゃえばいいじゃない」
けんいちは、漫画でいうところのクエスチョンマークを頭上に沢山並べたような様相をしていた。
「いちいち突っ込まれないようにすればいい、ってことよ」
口を半分開けて、ポカンとているけんいち。その間抜けな顔をファンの子達が見たらなんて言うのだろう。
───せっかくのいい男が台無しじゃない。
「なんて顔してんのよ」
くすくすと笑う姫子に背を向けてロッカーの鍵を締めた。
「だって、意味分かんねーし」
苛立っているのか、少し乱暴な音が部室に響く。
「ふーん?意味、分からないんだ。」
「分かんねーよ」
「学年トップの成績の頭でも?」
「おま…!おちょくるのもいい加減……」
「好きなんだから、付き合っちゃえばいい、ってことよ」
───このわたしに、ここまで言わせておいて、ほんと何なのこの男。どうしてこんな男、好きになってしまったの?自分でも笑っちゃうくらいよ。
けんいちはロッカーの鍵を締めた後に勢いよく姫子の方を振り向いた。今まで見たこともないような、目を丸くして驚いているような顔をして。
───やっぱり、気付いてなかったのね、この鈍ちん。
「お前、今…好きって言った…?」
そんなけんいちが可愛いとすら思えてしまう姫子は、自分でも重症だわと呆れるくらいで、思わず妙な笑いが零れた。そして敢えて平静を装う姫子の口は開く。
「…? 言った。悪い?」
静まり返る部室にまた夏風が通り抜ける。今度は頬を切るような強さで、髪の毛も攫われてゆく。やっぱりこの夏風は心地が良い。
無意味に開いていた携帯をやっと閉じて、姫子はベンチから立ち上がった。
じゃあね、とだけ短く告げて、綺麗にウェーブがかかった栗毛を揺らして出口に向かう。そしてドアノブに手をかけたそのとき。
「…馬鹿野郎。そんなこと言ってると、本気にすんぞ?」
ドアノブにかけた姫子の白い手に、重なる日に焼けた大きな手。それは、回しかけたドアノブを戻すくらいの微かな力がこもっていた。
耳元から聞こえた真剣な声。少し掠れていて、低めのあの声。以前からずっと、この声をこんなふうに至近距離で聞きたかった。そんなふうに思ってたなんて、誰にも言えない。勿論、あいつにも。高鳴る鼓動を抑えるようにして、姫子はまた挑発するように言った。
「…本気に、してみなさいよ」
その瞬間、抱き締められた。
きつく、きつく。
───舞い上がってないわよ、あいつごときになんて。だけど、心臓の音がどんどん速くなっていくの。
ばかみたい。こんなやつの、どこがいいのかしらね。
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2008.11.01
2021.04.24加筆修正
Gleis36