耳を、澄ませてみた。
───聞こえる…
聞こえるよ…───。
『菜の花しぐれ』
春の匂いを漂わす日曜日の昼下がり。巴川沿いの土手は、家族連れや犬の散歩しながらジョギングをする人たちで賑わっている。わたしも仕事が休みだったから、リフレッシュがてらここにやってきた。
他の花々より幾分早く咲いた菜の花たち。黄色と黄緑色からなるそれは、土手に よりいっそうの彩りをもたらしていた。
その菜の花畑が一望できる位置に座り、鞄から読みかけの本を取り出す。本を開くと同時にすぐ、栞が挟まっているページが開かれた。本の内容そっちのけで「懐かしいな」なんて独り言を呟いてみたり。
そう、栞と菜の花畑を眺めながら───。
*****
「きゃっ…!」
小学三年生のニ月。スケート教室が行われた。そこまで運動神経も良いわけではないわたしは、さっそく派手に転んでしまっていた。友人の姫子は何回かスケートをやったことがあるらしく、すいすいと いとも容易くわたしの先を行く。
「いたた…姫子待って…」
「大丈夫か?」
後ろから聞こえた声の主は、クラスメイトの杉山くんだった。
正直言って、わたしは彼が少し苦手だった。正義感があると皆は口を揃えて言うけれど、わたしには言葉遣いの悪い乱暴者にしか見えなかった。
「笹山って案外どんくせえのな」
真っ直ぐな彼のその言葉に、わたしは少しだけムッとした。
「だって初めてなんだもん…」
「そっか、じゃあちょっとオレが教えてやるよ」
え、と顔を上げると白い歯を見せて二カッと笑う彼がいた。わたしが冷たい氷の上に座ったまま唖然と彼を見上げていると「何やってんだよ、ホラ」と手を差し出して。
「…えっ!ちょっ…!?」
そのまま無理矢理手を引かれ、急に手を離されわたしは案の定体勢を崩してしまい、転んでしまった。
「痛ぁい…」
「ワリィワリィ!全然滑れなかったんだな」
「だから初めてだって…」
「よし、じゃあ立つところからだな!」
「え…わたしなんか構わなくていいよ、杉山くんだって大野くんと遊びたいんじゃ…」
「気にすんなって!大野のヤツもどっか行っちまって、オレも暇だったし」
「ほんとに…?」
わたしが覗き込むように問い掛けると、彼は笑顔で「おう!」と言った。
立つところから始めて、ゆっくりと少しずつ前に進むように、繰り返し練習しているうちに手摺越しなら何とか滑れるようになった。彼は嫌な顔ひとつせず、ずっとわたしの練習に付き合ってくれた。アドバイスしてくれたり「そうそうそんな感じ!」とか「いいぞ笹山!」なんて声を掛けながら。
続けているうちに、両手を引かれながらであれば滑れるようになった。一通りリンクを一周してから軽く休憩を入れた。
「…ごめんな」
「えっ?」
「さっき、笹山のこと、どんくさいなんて言ってよ」
「い、いいって!気にしてなかったし」
「そっか、なら良かった」
急に何を言い出すのかと思った。それにしても、と彼は話を続ける。
「笹山、飲込み早えな!」
「…そ、そんなことないよっ!杉山くんの教え方が上手いんだよ」
「いや、笹山が飲込み早えんだよ、すげぇよ!」
そう言って、彼は眩しいほどの笑顔を見せる。その瞬間、わたしの胸は跳ね上がった。やっとの思いで言うことができたのは、言葉尻が消えそうなくらいの「ありがとう」だけだった。
休憩を終えて、もう一度リンクを一周するときは、さっきとは比べ物にならないくらいドキドキしていた。体中の熱が一気に顔に集まる感覚。握られた手が少し震えて。言葉が溢れるのに声にならない苦しさ。
今更だけど、一目惚れ、だった。きっと、これがわたしの初恋だった。
彼に想いを寄せてから約一ヶ月の月日が経った。彼を見ると早まる鼓動のせいで胸が苦しくなったり、顔だけじゃなく耳まで赤らめたりしているばかりで、姫子にすら相談できずにいた。
そんなある日、草花のスケッチをする野外授業があった。巴川に、春めいてきた暖かい風が吹く。あの日も、菜の花畑は海のように広がっていたんだ。時雨のようにさわさわと音をたてながら。
そんな菜の花たちを横目に、わたしの目は無意識に彼の姿を探している。
「アハハハハハ!はまじの絵、面白いじょ〜!」
「あっ!!よせっ、山田!」
山田がはまじのスケッチブックを取り上げ、笑いながら走り出した。
「アハハハハ、アハハハハ!みんな見るじょ〜!はまじの変な絵だじょ〜!」
「やめろよ山田〜!」
山田は、はまじが描いたお世辞にも上手いとは言えない絵を、皆に見せびらかせながら大声張り上げて笑っていた。それを聞き付けた関口やブー太郎たちが便乗してはまじを囃し立てる。すると、はまじもとうとう怒ったらしく、山田たちを追いかけ始めた。春風に揺らめく菜の花たちは、駆け回る彼らの足によって踏み潰されてしまったのだ。
「あーあ…どうすんのよ、この菜の花たち」
「可哀相ね…」
このときわたしと姫子は少し離れた所からその光景を見ていたのだが、正義感の強い姫子は男子たちの軽佻な行動を許せなくて、男子たちに近付いて行き、踏み潰されてしまった菜の花たちが可哀相じゃない!と口にした。
「あなたたち!この折れてしまった菜の花たちをどうするつもりなの?酷過ぎるわ!」
「ゲッ…城ヶ崎…」
口々に言い訳をする男子たち。そんな男子たちにとうとう姫子は説教を始める。わたしは茎の根元から折れてしまった菜の花たちを見下ろして途方に暮れていた。
そのときだった。大野くんと…彼が来たんだ。
「何やってんだよお前ら」
「大野!酷いのよ、はまじたちが菜の花を…」
「こりゃひでぇな」
「どうにかならないかしら…」
そうだ!と彼は声を上げた。
「これさ、栞とかにできねぇかな?うちのねーちゃんがやってるの見たことあるぜ!」
「押し花ね!」
「このままほったらかしてここで枯れるのを待つよりも、押し花っての?それにしてやった方が花も喜ぶだろ」
彼はわたしの方を向き、白い歯を見せて笑った。そしてわたしの胸はまた高鳴る。
どうして…
どうして…、そんなふうにわたしの心を簡単にさらっていってしまうの…?
きっと、これは彼にしかできないこと。
でもそれはわたしだけじゃないの。
そのことに気付いたのは、もうだいぶ後のことだった───。
「ねぇ、姫子」
「なあに?」
「これ、この前の菜の花を押し花にして作った栞なんだけど…姫子にあげるわ」
「あら!ありがとう!さすがかず子ね、綺麗に作るじゃない」
あの時の菜の花を摘み採って、綺麗な部分を押し花にし、さらにそれを栞にする。小さなリボンも施し、我ながら出来栄えはなかなかのものだった。
そのときのわたしは、無意識に四枚作っていた。自分の分と、姫子の分と、彼の分。それと、彼だけだと変に思われると思って、彼の親友の分も。
「あら、あと二枚あるじゃない」
「う、うん…」
わたしがしどろもどろしていると、姫子は勘付いたのか、目を細めてふーん、と鼻を鳴らした。
「…杉山、ね」
「えっ…」
違う、と否定しようとしたら、姫子は「やっぱり。そうだと思ったわ」と一人で納得しだした。それでも否定しようとしたけど、どうやら完全に見抜かれてたみたいだ。やっぱり姫子には敵わない、とわたしも苦笑するしかなかった。
「ほら、今ならアイツ独りよ。頑張ってらっしゃい」
背中をポンと叩かれると同時に、身体そのものが心臓になったかのように鼓動が高鳴る。大野くんの分は姫子に任せて、わたしは彼に歩み寄った。
「…す、杉山くん」
「お?笹山じゃん。なんか用か?」
「あのこれ…」
不思議そうにわたしを見つめている彼は、わたしがおずおずと渡した栞を凝視する。
「えっと…、この前の野外授業で…踏み潰されちゃった菜の花たちなんだけど…押し花にしたら結構な量になっちゃって…。それで…杉山くんが提案してくれたし、お礼にって思って…」
「オレの分まで作ってくれたのか?」
精一杯、こくん、と頷く。そして恐る恐る顔を上げて、上目遣いで彼の表情を伺う。すると彼の瞳がキラキラと輝いているのがわかった。
「すっげぇな!笹山が作ったのかよ、これ!ありがとなっ」
とびきりの笑顔を見せる彼を見て、また胸が苦しくなった。正直、男の子が押し花の栞なんか貰って喜ぶなんて思ってもみなかった。だけど、あまりにも彼が喜ぶものだから嬉しくて仕方がなかった。
それから彼とわたしは、少しずつ、少しずつ、確実に距離を縮めていった。
前よりも目が合うようになった気がするし、休み時間によく喋るようになったり、放課後一緒に帰ろうと彼の方から誘ってくれたり。大野くんと喧嘩しているときは相談を受けたりもした。四年生になっても同じクラスになれたらいいな、なんて言葉を聞いた時は、死んでもいいと思うほど嬉しかった。
些細な事に一喜一憂し、このときのわたしは、完全に舞い上がっていて、周りが何も見えてなかったんだと思う。まだ幼かったわたしには、相思相愛なんていう言葉の意味は分からなかったけど、簡単に言えばわたしは彼と両想いだと思い込んでいたんだ。
「なあ笹山」
「なあに?」
お前って好きなヤツいんの?と、いたって普通に聞いてきた彼。わたしはそのとき心底驚いて赤面してしまい、さらに吃(ども)ってしまった。
わたしの好きな人はあなたですとか、好きな人なんていないとか、何て言えばいいのかわからずにしどろもどろしていると。
「オレには見込みはあるかもってことかなあ?」なんて彼が何食わぬ顔しながら言うものだから、わたしは思わず心にもないことを言ってしまった。
「なっ…何言ってんのよ!好きな人なんて、いるわけないじゃない!第一、いたとしても、杉山くんなんかじゃないわっ」
声を荒げながらそこまで一呼吸で言うと、みるみるうちに彼の顔から表情が消えてゆくのがわかった。
わたしはなんて馬鹿なことを言ってしまったのだろう、と心底後悔した。今すぐにでも、弁解したい気持ちだった。だけど、言葉が見つからない。
表情をなくした彼が無理にでも笑顔を作ろうとしながら言った。
「そっ…か、そう…だよな!オレってば変なこと言って、ごめんな!」
「あっ…違うの、今のは…!」
彼はわたしに一瞥もくれずに踵を返した。
「じゃあなっ」
颯爽と駆けてゆく彼の背中を見つめるそのときのわたしは、まるで呼吸の仕方を忘れたかのように胸が苦しくて堪らなかった。
それから、彼はわたしに話し掛けてくれるどころか、目すら合わせてくれなくなった。
わたしだけが密かに想いを寄せるだけで。どんなに目で彼を追いかけても、あの時みたいにもう目が合うこともない。
そしていつしか、彼の目にはわたしじゃなくて、あの子が映っていたんだ───。
*****
あれから数年経ったけれど、やっぱりわたしは彼のことを諦めきれないままでいた。我ながら未練がましいと苦笑するほどだ。
小学校を卒業し、中学生になった。これまでも、何人かの男子に告白されたりもした。だけどその度に、脳裏に焼き付いた彼の笑顔を思い出すばかりで。結局、誰とも付き合えないままでいた。
気付いたら、窓の外にある桜の木の蕾が膨らんできていて、中学二年生の生活も終わりに近付いてきていた。
そんな頃。さくらさんに、少し早めの春が訪れていた。わたしがその噂を耳にした頃、姫子はやけに元気がなかった。元気がない、というか、何か思い詰めているようで、その目は遥か遠くを見ているようだった。
「…姫子」
「あらかず子。どうしたのよ、浮かない顔して。」
「それはあなたの方じゃない。どうしたのよ?最近…」
本当は、わかっていたんだ。
彼女が大野くんを好きだった、ってこと。さくらさんと大野くんが付き合い始めたのを知ったから元気がない、ってこと。以前「好きな人いるの?」と彼女に問い質したとき、「永沢が気になる」だなんて言っていたけれど、それが嘘だった、ってこと。大野くんが好きって、彼女自身も認めたくなかった、ってこと。
全部、わかってた。
「…何の、ことよ」
「…大野くんのこと」
彼女は目を真ん丸にして驚いた。わたしが気付かないとでも思ったのかしら。あなたとの付き合い、長いんだから。
わたしが柔らかく微笑んであげると、彼女は目を伏せるようにして心もとない表情を刻み、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐように気持ちを打ち明けていった。
「…やっぱり、敵わないわね、かず子には」
「付き合い、長いもの」
「…大野が、好き」
「うん」
「ううん、…好き、だった」
「…うん」
そのときの彼女を、自分と同い年の女の子とは思えないほど、綺麗だと感じたのを鮮明に覚えている。もともと綺麗な顔立ちの女の子だけれど、中学校に上がってからはさらに綺麗になった。女の子は恋をするっていうだけで、こんなにも変われるなんて、と改めて実感した。
教室の一角で、彼女は密かに想いを打ち明ける。その視線の先は、昼休みのグラウンドでサッカーボールを追いかけている彼を、確かに捉えていた。
彼女が零す言葉一つ一つを、大切に聞く。静かに相槌をうつことしかできなかったけれど。
「…あのね、姫子」
「?」
「…わたしも、もうずっと忘れられない人が、いるの」
「杉山でしょ?」
いとも簡単に、彼女は言う。少し驚いたけれど、すぐに納得した。ああやっぱり。わたしたちは似てるんだ、って。
大野くんが中学校に上がってから清水に戻ってきたとき、姫子と美男美女カップルだなんてからかわれ、少しだけ期待させられるような時期があったこと。
彼がわたしに思わせぶりな態度をとってきたこと。
ふとしたことで、相手に想いを伝えられないまま終わってしまったこと。
気付いた頃には、彼らの目にはわたしたちじゃない、あの子たちが映っていたこと。
自惚れているわけじゃ、ないと思う。両想いだと思われる時期が、わたしたちには確かにあった。何もかもが、わたしたちは似ていた。
「…やっぱり。気付いてたのね」
「当たり前じゃない。付き合い長いもの」
「それ、さっきわたしが言った台詞と同じ」
思わず顔を見合わせて二人で苦笑した。そんなわたしたちの元に、春先のくすぐったいような風が吹き、髪の毛を優しくさらっていった。
その日の帰り道。わたしは少し遠回りをして、巴川沿いの土手から帰った。
なぜかというと、わたしがいつも通る道に、彼と、あの子がいたから。
彼の目にあの子が映っていたことは、もうずっと前からわかってた。
昔から変わらない誰にでも優しく気立てが良い性格、可愛らしい声と柔らかい笑顔。中学生になってからは、あの子のトレードマークでもあった眼鏡をコンタクトに変えて、髪型もおさげから緩いウェーブがかったロングヘアに。
そう。あの子も恋をしていた。彼に。
だからあの子も綺麗になっていったんだ。
あの子も、わたしと同じように、小学校の頃から彼に想いを寄せていたのも、全部、わかってた。
いつしか彼とあの子は自然に付き合うようになった。
本当は知ってた。
でも、認めたくなくて、現実から逃れたくて、知らないふりをしていた。俯き唇を噛む。涙が滲んで、わたしの前を歩くぎこちない二つの背中が、夕日のオレンジにじんわり溶けていくように見えた気がした。
そうしているうちに、気付いたら土手へと足が自然に動いていて。
今年もまた、菜の花が咲く季節がきていた。耳を澄ますと、やっぱり時雨のようにさわさわと音をたてている。
制服のまま腰を下ろし、涙が枯れるまで菜の花の海を眺めていた。
*****
あれから十年近く経って、わたしは地方公務員として地元の図書館で働いている。
彼は今、東京で宇宙飛行士になるための訓練をしながら働いている。勿論側にはあの子がいて。
もうあの時のように、ぎこちない二つの背中を目の当たりにすることはないけれど、目の奥にはあの光景が焼き付いて消えない。
そんな二人も、もうすぐ結婚式を挙げるということを、風の噂で耳にした。
「…わたしのことなんか、忘れちゃったよね」
あの時の菜の花を押し花にして作った大切な栞も、もうわたししか持ってないよね。
きっと、そうに決まってる。
菜の花が風に揺れる音で掻き消されてしまうくらい小さな声が零れ落ちる。前に進めないでいるのは、どうやらわたしだけみたいね。
「…菜の花…しぐれ」
菜の花の海はどこまでも黄色くて黄緑で。
時雨のような音をたてて。
耳を、澄ませてみると聞こえるその音は、柔らかい風と共にわたしの元へとやってくる。
今思い返してみれば、わたしが涙を流すときは、必ずと言ってもいいほど、この菜の花しぐれを耳にする。わたしを励ましてくれてるのかしらね。
どれくらいの時間が経っただろうか。気付くと辺りは一面オレンジに包まれていて。菜の花の黄色にも、夕焼けのオレンジ色のフィルターが覆われ、柔らかく風に揺れていた。
昼下がりには、家族連れや犬の散歩をしている人たちで賑わっていたのが嘘のように、今ここには自分しかいない。わたしだけがここに取り残されたかのように、ただ独りでこの菜の花しぐれを聞いていた。
オレンジが徐々に郡青へとグラデーションしてゆく。春とはいえ、太陽が沈む頃になるとさすがに肌寒い。
自然に溢れてしまった涙を拭い、全くページが進まなかった本に菜の花の栞を挟む。音をたてずにそっと本を閉じ、鞄にしまった。
立ち上がり、ひとつ、深呼吸をする。そして、上も下も見ずに、真直ぐ前を見て歩き出した。
───もう、忘れなきゃ。
わたしも、前に進まなきゃ。
…だけど。
この季節の、この場所に訪れるときだけ、彼を思い出してもいいよね。
この菜の花しぐれを耳にするときだけは────。
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2010.06.18
Gleis36