昔の自分からしたら、有り得ないかもしれない。
でも。
君がそうして笑ってくれると、本当に嬉しいんだ。
*****
「くそっ…!」
ボウルが金属音を鳴らしながら床に落ちる。そして、誰も居ない厨房に静寂が広がった。ああ、耳が痛い。
また、認めてもらえなかった。何度やっても、同じだった。どんなに良いアイディアが浮かんでも、イメージ通りの味が出せない。
自分はプロでも一人前でも何でもない。だから、これはスランプとは言えないのだ。悔しいが、この現実から顔を背けることはできない。
ふと時計を見ると、もう夜の十一時を回っていた。
「今日はもうやめにしよう」
何度その言葉を言ってきたか。独りパリに来てからは、ずっとこんな調子だ。
試作品の味見をするくらいで、ろくに食事もとらないまま日々が過ぎてゆく。昔の自分からしたら有り得ないかもしれないけれど、食べる気がしなかった。ましてや、自分の作った料理なんて、喉を通ることすら拒んでいるかのようだった。そんな毎日が続くもんだから、案の定体重はみるみるうちに減っていった。
痩せた、というか、窶(やつ)れたと言った方が正しいのか。鏡に映る自分の姿を、ただただ呆然と眺めていた。昔の自分に見せてやりたいくらいだな、なんて薄ら笑いすら零れる。
『ふとし へ』
自室に戻り、料理の本が散乱している机の上に、時計を外して置く。ふと、目に入ったのは、一ヶ月程前に届いた母からのエアメール。何度も手紙を読み返すような性ではなかったが、なぜだか無意識に手が伸びていた。
『あなたがパリに修行に行くと言い出して日本を発ってから、もう一年半以上経つのね。全然連絡寄越さないけど、元気にしてるの?お母さん達は元気よ。
この前、お父さんなんて清水神社のお祭りの御神輿担いだのよ。張り切るもんだから、次の日筋肉痛が酷くてヒーヒー言ってたのよ。笑っちゃうわよね。
小学生の時、ふとしが景品のお菓子欲しさに、まるちゃん達と御神輿担いでたのを少し思い出しました。
そういえば、………』
“まるちゃん”。
ああ、そんなやつ、いたなあ。
そこまで読んで、便箋を封筒の中にしまった。そして今度は、その手紙を机の引き出しの中にちゃんとしまっておいた。
“さくらももこ”。
妙にババ臭くて、お節介で。でも誰からも好かれていた、憎めねえやつ。よく給食のプリンが余ると、じゃんけんで勝負したっけ。おかっぱ頭と、赤いスカートが脳裏を過った。
まだ、大野と続いてるんだろうか。やっとくっついたかと思ったら、一度別れた、みたいな噂を専門学校に通って間もない頃、どこかで耳にしたが。
ま、俺には関係ないことだけどな。
いつか、きっと。
一流のパティシエになったら。あいつに、最高のプリンでも食わしてやるか。
いつに…なるんだろうな。
夜は深くなってゆく。
窓から滑り込んでくる風に、今更ながら秋の終わりを感じた。なんて、余裕がないんだろうか。満月を見上げ、小さく溜め息を吐(つ)いた。
*****
俺には関係ないことだと、思ってたのに。
まさか、こんな日がくるなんて、あのときは考えてもみないことだった。
あれから何年経ったのだろうか。
*****
やっと師匠に認められ、二十四歳の春に日本に帰国したのは覚えている。久しぶりの母国の風の匂いに、戸惑いすら感じた。
中規模ホテルに就職し調理場に入った俺は、初めのうちはそれこそ皿洗いだけだったものの、そのうち前菜、スープ、メインなどと任されていった。そして、自分が極めたいと思っていたスイーツも任されるようになったのだ。
ただがむしゃらに毎日は過ぎていった。
二十六歳の夏。
都会の蝉は苦しそうに、でも必死に鳴いていた頃だった。帝国ホテルの調理場担当として転職し、さらに腕を磨いていった。
この頃だったかな。自分の店を持ちたい、と思ったのは。
ホテルで働きながら、経営学も少しずつ学び、今まで貯めてきたお金を叩(はた)いて、二十八歳の春、ついに俺は自分の店を持った。
*****
「それでは、皆さん、カメラの準備は宜しいですか?!初めての共同作業、ケーキ入刀です!」
丸尾のやつ、相変わらず、司会とかそういう類いのものが好きなんだな。
俺が徹夜で作ったウェディングケーキ。二人は幸せそうな顔で、それに入刀する。その瞬間、カメラのフラッシュがチカチカと至るところで瞬いた。
「この素晴らしいウェディングケーキは、なんと!彼らの同級生の、小杉シェフの作品で御座います!激痩せしてカッコ良くなった小杉くん!ささっ、こちらへどうぞ!」
おいおい何だよ、その言い方は。てか、無茶ぶりすんなよな。打ち合わせとちげえじゃねーか。
ライトが一気に俺の元へ集まる。
こういうの苦手なんだよなあ…。
「この度はご結婚おめでとうございます。そして、お二人のウェディングケーキを私の手で作り上げることが出来て、大変光栄に思います。
おい、さくら!小学生の頃、給食の余りのプリンのじゃんけん、よくやったよな。いくつになっても、プリンとかケーキに目がないお前のために、最高の味に仕上げてやったから、味わって食えよ!」
会場からクスクスと小さな笑い声があがる。あいつは顔を真っ赤にしていた。
「こ、小杉のやつ!恥ずかしい事言わないでよ〜」
「…大野。」
真っ直ぐ、大野を見つめる。隣には真っ白な衣装を身に纏ったあいつの姿。
───ああ。
本当に、今更だ。
好きだったんだ。あいつが。
いつも食い意地張ってたあいつ。
残り物のじゃんけん勝負をしたあいつ。そのくせ嫌いなもんも、いっちょまえにあってさ。そんなあいつの残した物を食べたこともあった。
何かと気にかけてくれたあいつ。俺が体調を崩したんじゃないかと、本気で心配してくれたあいつ。今思えば、俺がまともに女子と話せたのは、あいつくらいなんじゃないか。
話しやすかった。
そして、惹かれてた。悔しいけど、心のどこかで、惹かれてた。
だけど。
一人前のパティシエになるまで、そしてケーキ屋を開くまで、自分の事に必死過ぎて、何も見えていなかったんだ。
今の俺は、お前の目にどう映ってるか?
「さくらを……頼む。」
「…あたりめーだ。」
…けっ。
相変わらず憎らしいくらい、良い男だな。俺なんかに言われなくても分かってるよな、そんなこと。一緒に過ごしてきた時間が、今しがた自分の本当の気持ちに気付いた俺なんかとは比べ物にならないんだから。
自然と笑みが零れる。
「さくら…いや、大野ももこさん、けんいちさん、この度は本当におめでとうございます。」
二人に向かってゆっくり一礼した時に、水滴が真っ赤な絨毯にぽたりと落ち、小さな染みを作った。この時、自分が泣いていたことに初めて気が付いた。
「へっ…、かっこわりいな、俺。」
零れた言葉は、隣に立っていた丸尾にも、誰にも聞こえることはなく。
顔を上げた時に、幸せそうな二人を見たら、きっとまた瞳の奥が熱くなってしまうから。
だから、少しだけ、目を伏せて。
拍手を背にして、眩しいライトが当たる場所を立ち去った。
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2011.08.12
Gleis36