「好きです。」
たったそのひとことが言えたら、どんなに楽だろう。
「先生、こんにちは。」
「こんにちはー」
相変わらず、憎い笑顔向けちゃって。誰にだってそうやって愛想良いことぐらい、わかってる。別に、わたしだけじゃないって、わかってるわよ。それくらい。
「トモミちゃん、おシゲちゃん!今日も土井先生の笑顔輝いてたねー!」
「やっぱり先生の中では土井先生が一番でしゅ!」
「あら、そうかしら?わたしは戸部先生の方が好きだなー。っていうか、学園長先生のお孫さんのおシゲちゃんが、そんなこと言っていいのかしら?」
「いーんでしゅ〜♪」
廊下ですれ違うときに生徒が先生に挨拶をするのは礼儀。というか、そもそも人として当たり前のことなんだけどね。
それでもうっかり忘れてしまうことだってある。だって人だもの。ある時、一年い組の担任安藤先生に挨拶し忘れたときは悲惨なものだった。説教だけならまだしも、それに加えて嫌味と自分のクラスの生徒の自慢話。わたし達三人が捉まってしまい、途方に暮れていると、あの先生はやってきた。
わたしは、安藤先生の背後から近付いてくるあの先生と目があった。困ったような、優しい笑顔。
「ああ、これはこれは安藤先生。明日は い組と合同実習の日ですよねえ。どうぞ宜しくお願いします〜。」
「むむっ!これはこれは一年は組の土井先生ではないですか!」
「お手柔らかに願いますよ」
「い組の生徒が手加減なんかしたら、は組の生徒はすぐにギブアップですよ!」
「それはどうでしょうねえ〜実戦に弱い い組ですからね〜」
「なっ!!」
あの先生は、わたし達と安藤先生の間にさり気なく割って入り、わたし達の代わりに安藤先生の相手をしてくれたのだった。
あまりのさり気なさに呆然としているわたし達に「さ、今のうちに」と目配せをしてきて、その合図に気付いたわたし達は、そそくさとその場から逃げることができた。
その一件があってから、わたし達の中ではあの先生は憧れの人となってしまったのである。
いや、わたし達、というと語弊があるわね。正確に言うと、ユキちゃんと、おシゲちゃんのことね。
わたしは、憧れとか、そういうんじゃない。しかも、その一件があってから、とかじゃない。
わたしは、
わたしは────
「あれ、トモミちゃん。ひとり?珍しいね。」
「わ、」
心臓が跳ねるというのはこういうことを言うのか。驚いた。あの先生が図書室に居るなんて。
午後の演習もなく、自由に使える放課後の時間。ユキちゃんは委員会。おシゲちゃんはしんべヱとデート。何も予定のないわたしは、以前から読もう読もうと思っていた本を探しに図書室に来ていた。
図書室は閑散としていて、わたしと図書委員長の中在家先輩以外居ないと思ってた。中在家先輩は物静かなお方だし、図書室はとても静かだった。まあ、もしうるさくしようものなら、中在家先輩は血相を変えて(正確に言えば不気味に笑って)怒るのだろうけど。
柔らかな午後の陽射しが、窓からそそぐ。中在家先輩が、読む本の頁を捲る。わたしが歩くたび、畳が軋む。
この静かな空間に、こんなふうに微かな音の粒がこぼれていった。
そんな心地の良い空間に、まさかあの先生が居たなんて。
「土井先生。いらしてたんですか」
「私も本が好きなんでね。今日の仕事は終わったし、ゆっくり本でも読もうかと思って」
そう言ってにっこりと微笑む。いつもの、誰にでも向ける笑顔。自分の頬が蒸気してくるのがわかった。慌てて視線を逸らして、少し皮肉を込めて言ってやった。
「先生がいらしてたの、気付きませんでした。さすがですね。足音ひとつないんだもの。」
「あはは、そうかなぁ?」
いい大人のくせに褒められて嬉しいのか、どこか幼さを感じさせる笑顔をこちらに向ける。尚更直視できない。ますます赤みを増すわたしの頬。
先生は、「顔赤いよ。大丈夫?もうすぐ文月だし、ちょっと暑いかな」だなんて呑気なことを言い出すもんだから、さすがにわたしは口を噤んでしまった。
そんなわたしを余所に、顎に手を当てて本を探し出した。
ほんっと、なんにもわかってない。このひと。
「お、あったあった」
背中から聞こえてきたその声に、いちいち反応してしまう自分が恨めしい。本を借りてさっさとここから出て行ってしまうのか。この後お茶でもどう、なんて誘ってくれないだろうか。
そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得ないのに、馬鹿げたことを考えてしまう自分が、つくづく嫌いだ。
「じゃあね、トモミちゃん」
ほら。またそうやって。
目を細めて柔らかく笑って。
わたしの心を勝手に浚っていってしまうあなたが、もっときらい。
置いていかれた空っぽの身体だけが宙に浮いてるみたい。宙に浮いた身体は、無意識にあなたを追いかける。自分の心を取り戻すために、あなたを追いかけるわけじゃない。だけど、自分でもどうして追いかけてるのか、よくわからないの。
「せんせい、」
気付いたら、図書室を飛び出して、廊下であなたを呼び止めてた。
あなたは振り向く。生徒皆に向ける、平等な優しい笑顔のまま。
───好きです。
たったそのひとことが言えたら、どんなに楽だろう。
…ああ、だめだ。やっぱり言えないや。
「…今度、土井先生お勧めの本、教えて下さい。」
「ああ、もちろんだよ。」
そうやってにっこりと笑うあなたが、ほんとうは、だいすきなんです。
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2014.06.06
Gleis36