制服のスカートが翻る。地面を蹴りあげるように走り出すと、肩につくかつかないかくらいのところで切り揃えられた黒髪が揺れた。
「たまちゃんに言わなきゃ…!」
昔から運動が得意とは言えない方だったが、それでも精一杯足を早める。エアメールを握り締めて。
部活も委員会も今日はたまたまなかったももこは、早めに学校から帰宅し、いつものように何気なく郵便受けの中身を確認した。海外からのものだろうか。他の郵便物より一際目立つ、ひと回り大きな見慣れないエアメールに小首を傾げた。それにはローマ字で自分の名前が宛名書きされており、思わず眉を顰める 。視線を僅かに落とすとその差出人に息が止まった。
「ア…アンドレアっ?!」
急いで自室に入り手紙を開けようとするが、手先が痺れたかのようにうまく動かない。高鳴る胸の鼓動がやけに苦しい。
やっとの思いで開けられた手紙に目をやると、不器用で、それでも丁寧に一文字一文字書かれた彼の字が並んでいた。
内容は然程濃いものではなく、彼の近況と日本の皆は元気にしているか、とのことが書かれていた。慣れない日本語で書いているのだから無理もないだろうが、久しぶりだというのにそれは何ともさっぱりとしたものでももこは拍子抜けしていた。二枚目の最後の一文を読むまでは。
「たまちゃんに言わなきゃ…!」
昔から運動が得意とは言えない方だったが、それでも精一杯足を早める。エアメールを握り締めて。
夏風が舞い上がり、深緑の葉を身にまとった樹々たちは涼しげな音を立てた。今にも食べられそうな入道雲が、もくもくと音を立てて湧いているような気がしてならない。そんな綿菓子のような雲を横目に流して、なおも走るスピードを早める。お菓子やそういった類いのものが大好きな彼女でも、今はそれどころではないらしい。
いつもは一緒に下校しているたまえは、ももこの親友だ。今日は委員会が長引いていて一緒に帰れなかった。そんな彼女に今すぐにでも会ってこのことを伝えるために、ももこは学校へと戻る。地元の高校は走ればすぐそこだ。
「たまちゃん…!!」
「まるちゃん?」
今しがた委員会が終わったのか、下駄箱で靴を履き替えているたまえに、汗だくのももこは息を切らせてしがみついた。目を丸くするたまえは、背中をさすりながら大丈夫?とももこの身を案じる。
「アンドレアが…!」
「アンドレア…?」
十年前のことである。たまえも一瞬誰のことかわからなかったが、すぐに思い出しそれと同時に自身の家にホームステイしてきたシンニーの顔がすぐに思い浮かんだ。
小学三年生のときにやってきた五人の外国人は、花輪の知り合いだ。日本の文化に触れるために、花輪の家ではなくももこたちの家にそれぞれ短期間ホームステイすることになった。そのときにももこの家にやってきたのが、イタリア人のアンドレアであった。訳あって日本に来た彼とは、短くもかけがえのない日々を過ごした。
───「ボクは、マルコが、好きです。」
唐突な告白に困惑した当時のももこは、「イタリア人は女ったらし」などという日本人が持つ偏見をそのまま鵜呑みにするほどで、第一印象は決して良いものではなかった。その言葉の本当の意味を知ったのは少し後であったが、そのときから彼と共に過ごす中でとても大切なことを学んだのだ。
一週間という二人に与えられた時間は無情にもあっという間に過ぎ、いつ叶うかもわからぬ約束を交わし別れの涙を流した。当時の自分には、まだ幼すぎた感情に気付かないまま。
初恋がアンドレアだと気付いたのは、それからだいぶ後のことだった。
幼い頃の淡い想い出として胸の奥に仕舞われた気持ち。今となっては、それが初恋と呼ぶにも幼すぎたのかもしれないのかもしれないけれど。
しかし、それが恋だと気付いたところで、日本とイタリアの離れすぎている距離にはどうにもできず(そもそも連絡先も何も聞かず別れたのだけれど)、結局何もせずに淡い気持ちは時間と共に次第に薄れていった。
それから十年の時を経た今。ももこは、幼馴染みのけんいちが好きだった。いつ好きになったのか、はっきりは覚えていない。気付いたらいつも傍にいて、気付いたら好きだった。
両親の転勤によって小学四年生にあがる直前に東京へ転校したが、中学二年生のときに再び清水に帰ってきた。勿論両親の転勤の関係で。
帰ってきたばかりの頃の彼は少しとっつきにくい雰囲気があったものの、男女問わず誰とでも仲の良いももことはすぐに打ち解け、彼の親友のさとしと、たまえの四人で行動を共に過ごすことが増えた。
いつしかももこは、四人一緒に地元の高校に進学したいと思うようになり、苦手だった勉強を頑張って合格した。推薦で先に受かっていたけんいちに合格の報告をしたときの顔は、今でも忘れられない。思い返してみれば、けんいちを好きになったのはその頃だったのであろうが。
「えっ?!日本に?!」
追伸のように書き足された最後の一文は、来月から日本へ引っ越して来るという内容だったのだ。アンドレアからの手紙を見せながらそのことを伝えると、さすがにたまえも驚いたようだ。
専門学校を経て、本格的にカメラの道に進むことを決意したアンドレア。世界でも名高い日本人プロカメラマンの元で本格的に勉強することになった彼は、活動拠点を自国イタリアから日本へ移すことにした。清水から遠く離れた東京へ引っ越してくるらしいが、イタリアと日本の距離に比べたら可愛いものだ。
「最初はさ、日本に遊びに行きます〜とか書いてあるのかなって思ってたんだけどさあ、二度見してあたしゃびっくりしたよ」
「うん。いきなり引っ越し、だもんね」
あの日、お別れの前日に行った、巴川の灯籠流し。そのときに願ったことが、叶うなんて。繋いだ手の感触が今更になって鮮明に思い出される。
自分はけんいちのことが好きなはずなのに、胸の奥で波打つ鼓動を抑えられない自分に焦った。汗が額に滲む。これは暑さのせいなのか、それとも。
好きなひとができた。いつだったか、そう打ち明けたときの親友の顔と言ったら。まるで未確認生物を見付けたかのように目を丸くし、直後吹き出した。付き合いの長いさとしだからこそ、の反応なのだろうが、意を決して打ち明けたけんいちとしては快いものではない。思わずむくれた顔が中学三年生になりたてとは思えないくらい子供じみていた。
今頃気付いたのかよとさとしに笑われる。さとしは当の本人よりとっくの先に察していたらしく、そんな彼にけんいちは何も言い返せず言葉を詰まらせた。
それから今の今までずっと、想いを伝えられないけんいち。好きと気付いたからといってどうすればいいのか自分でもわからず、花輪がももこを自宅のパーティーに誘うのを、教室の片隅で苛つきながら見ているくらいしかできない自分にまた苛々する。ずっとそんな日々を過ごしていた。
そして先刻。下駄箱越しにももことたまえの話を聞いてしまったけんいち。部活のユニフォームやら弁当箱が乱雑に詰め込まれた重い通学鞄を思わず落としてしまう。鞄と簀(すのこ)がぶつかり、どさっと大きな音が響く。気付かれたかと身構えたが、二人はそれどころではないのか構わず話を続けている。
彼の心は穏やかではなかった。アンドレアが来る。日本に遊びに、じゃなく。東京と言えど、引っ越してくるんだ。汗がこめかみから伝い、顎まで一筋の跡を残す。心臓はどくどくと嫌な音を立てている。
「まじかよ…」
ももことアンドレアの間に確かな絆があることくらい、当時の自分にもわかっていた。何があったか詳しくは知らないが、アンドレアたちが帰る頃のももこの態度は最初の頃とは明らかに違かった。暢気に彼とサッカーなどしている場合ではなかった。当時ももこに好意なんて欠片も寄せていなかった自分を、今更になって責めても仕方がないのだろうけど。
だからといって。ももことアンドレアが想い合っているなんていう確証もない。これは自分の漠たる不安でしかないのだ。
「強力なライバルの登場、だなー」
後ろから聞き慣れた声がして、僅かに肩をびくつかせた。振り返るとそこにはやはりさとしが居た。
「…聞いてたのかよ」
「まーな」
その声はどこか愉しげで。目を細めて白い歯を出している。いつからさとしがいたのか気が付かなかった。
「ある意味、花輪とかカメラ野郎より、手強いかもなぁ?」
にししと笑う彼の顔を睨み返す。そんなけんいちの顔を見てさとしは「お〜、こわっ」などとおどけてみせた。
一通り話し込んで気がすんだのか、ももことたまえは知らぬ間に帰っていたらしい。見付からなくてよかったと胸を撫で下ろす。今の自分のみっともない顔は見られたくない。
これからサッカー部の部室へ向かうところだった二人は肩を並べて歩く。犬走を歩く足取りがこんなに重く感じたのは初めてだ。コンクリートからの照り返しが目に痛く、そのとき自分が下を向いて歩いていることに気が付いた。
間もなくプールの授業が始まる季節だ。生徒会の役員たちが念入りに掃除をしているのを横目に流して、更衣室の隣にある部室へ向かう。
既にプールの水が入れ替えられていて、その水面(みなも)は太陽の光を思い切り浴びてプリズムを作っている。キラキラと光るそれに目を細めて、水道の蛇口をひねった。
「強力なライバル、か…」
耳の近くで鳴いているような気がするほど蝉の声が煩い。蝉時雨と呼ぶにはまだ早いというのに。無意識に溢れたその言葉は、蝉の声に掻き消されるほど情けないものであった。
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2017.03.01〜2017.10.28 拍手にて掲載
Gleis36