「100万ドルの夜景か…」
マンハッタンの煌めく夜景を見つめながらあのひとがそう呟いたのを、私は聞こえないふりをして耳に受け止めていた。
いつもだったら、ルパンの目を盗んでこそこそと会うのに、今日はどうしてだか大胆だった。
*****
今を遡ること九時間。
昼時になるとアジトでランチを作らされ、挙げ句片付けまでやらされているのは、もはやいつもの光景だ。本人も満更ではないみたいだし、かくいう私もルパン達もあのひとが作る料理は好きだった。
今日のメニューは小洒落たワンプレートランチで(小洒落た、と言ってもボリュームはなかなかのものだし、何よりも見た目のセンスが良いのだ)、その辺の下手な店よりよっぽど美味しい。
洗い物を終えると、これまたテキパキと手際よくキッチンを綺麗に拭きあげ、お世辞にも似合っているとは言い難いエプロンを慣れた手付きで外す。いつもならこの後必ず食後の珈琲を淹れてくれるのだが、どうやら今日は違うようだ。あのひとしか使わないミルが、棚で寂しそうにしている。
「次元〜。アナタの淹れる食後の美味し〜い珈琲はまだぁ?」
ウォール・ストリート・ジャーナルを片手に女性のような口調であのひとに甘えるルパン。私はその光景を何気なく見るふりをして、あのひとの横顔をちらと盗み見る。時計を気にしながら何やらいそいそと外出の準備を始めているあのひとと、ほんの僅かなその一瞬に、目が合った。それとなく視線を逸らした私はソファへと移動し、午前中に読み始めたばかりの本を手に取る。
私達が秘め事を重ねる間柄になってからは、ここでもう一度目が合えば"外で会おう"という所謂逢瀬の合図になる。
付き合いたての若いカップルじゃああるまいし、少し目が合っただけで胸が高鳴ることはない。しかし暫くの期間二人きりで会えていないと、さすがに喉の奥が熱くなることがある。今がまさにそれであった。ルパンに気付かれないように何度か私から視線を送るが見てみぬふりでもしているのか、再びあのひとと目が合うことはなかった。
仕方がなく落とした視線の先にある読みかけの本の内容が、全く頭に入ってこない。想いの熱でふらついて軽い眩暈を起こしそうだ。私はいつからこんなにもあのひとに溺れてしまったのだろうか。
「悪りぃな、ルパン。今日は ちいと急いでるもんでな。自分で淹れてくれ」
その言葉に一瞬目を丸くし、落胆の色を隠せずにいるルパンは、ちぇ〜と大袈裟に口先を尖らせる。ルパンだけではない。私もあのひとが淹れてくれる珈琲が好きだった。
酸味よりコクを求めるあのひとは、豆の挽き具合といい、沸かしたお湯の温度といい、珈琲の淹れ方はまさに巧みなものであった。料理の腕といい、そういうところばかり器用なんだから、と常々思わされる。
だがそれも今日は飲めないとは。一体何の用事があるというのだ。ふん、と僅かに鼻を鳴らして本の続きを読もうと視線を戻したそのときだった。身なりを整え終えたあのひとがソファの前にやって来て、スラックスのピスポケットからくしゃくしゃになった二枚の紙きれを出して私に声をかけたのだ。
「おい不二子。ちょっと付き合え」
「…何よ?」
急に話し掛けられて心臓が小さく跳ねる。顔の前にぶっきらぼうに差し出されたそれが何かのチケットだということに気が付く。咄嗟に出した声は少しだけ掠れていた。やっと、目が合った。
「ウィーンフィルのコンサートのチケットがたまたま手に入ったんだ。こういうのは男独りじゃ観に行きづれぇんだよ。どうせ暇だろ?」
思わず私は はあ?と情けない声をあげてしまった。
ウィーンフィルと聞いて思い出した。そういえばあのひとはクラシック好きだったということを。
私だってクラシックコンサートくらい仕事の付き合いで行ったことはある。カフェやレストランで流れている曲は、賑やかなポップスよりもクラシックの方を好むくらいだ。
しかし、モーツァルトやベートーヴェン等の所謂著名な作曲家以外の名前を聞いてもピンとこないし(仕事のときは下調べくらいはするが)、曲名だけ言われても余程有名なものでない限りはさっぱりわからない(実際に曲を聴けばどこかで耳にしたことのある曲だということくらいはわかるが)。それでも、クラシックが嫌いなわけではないからコンサートに付き合うことくらいはできる。
「暇って何よ!今日は買い物にでも行こうと思ってたのよ!」
幸い化粧もヘアスタイルも直す必要はなさそうだし、今つけているアクセサリーも、コンサートにぴったりな控えめなものだった。
コンサートにドレスコードは特に無いとされているが、みっともない格好で行くわけにはいかない。ましてや世界三大オーケストラで有名な、あのウィーンフィルとくれば、それなりの身なりをしなくてはならない。
獲物の偵察や仕事の後だとパンツスタイルが多いが、今日はオフでしかも五番街に軒を連ねる一流ブランドの路面店やデパートで気ままにショッピングでもしようかと思っていたため、服もたまたまジェイ・メンデルのノーブルなホワイトドレスを着ていた。こちらも着替える必要はなさそうだ。
軽やかな素材から透けるレッグラインと胸元は、自慢のボディを引き立てつつも決して下品になるようなデザインではない。セクシーでありながら女性らしいクラシカルな気品を保ち、エレガントな印象を与えてくれるこのブランドは私のお気に入りだった。ふわりと風に揺れる飴色のウェーブヘアとの相性だって抜群だ。
あのひとからの思わぬ誘いに、私は内心浮かれていた。ルパンが察してしまうことだけは何としてでも避けなくてはならない。苛立ちを振り撒く演技をしながら、軽い足取りで自分の部屋へ行き靴を選び直す。コンサートにミュールはさすがにまずい。
「つーワケだから、不二子借りてくぞ、ルパン。」
「え、ちょ?次元ちゃん?」
靴を履き替え部屋から戻る。フェラガモのカルラならヒールの音もホールで響き過ぎないだろう。敢えてロッソレッドを選んでエッジィさを加えてみる。
「人を物みたいに言わないでよね」
「へっ?!不二子ちゃん?!」
ぱちくりと瞬きをしながら私とあのひとの顔を交互に見るルパンは、どうやらこの唐突な要求と状況を飲み込めていないようだ。
「ちょっと!待ちなさいよ!」
無言でアジトを出るあのひとを追い掛けるようにして、最後にストールをふわりと羽織り、靴に合わせてイタリアで買ったメタリックレザーのクラッチバック片手にアジトを飛び出した。
休日と言えど晴れた日の昼下がりとくれば、イエローキャブを拾うのも容易だった。アジトがある裏路地から少し歩いて大きな通りに出ればすぐに拾える。あのひとが手短に「カーネギー・ホールまで」と伝えると運転手はすぐに車を走らせた。
窓越しに千切れてゆくビビッドカラーに あふれた賑やかな街並み。今回なぜ私達がニューヨークマンハッタンに降り立ったのかというと。
ハリー・ウィンストン未発表のジュエリーが気になる、と私が軽い気持ちで言ったことがきっかけだった。それを耳にしたルパンはマンハッタンの五番街に構える本店を偵察したいと言い出し、私を含む一行は暫くウェスト・ハーレムに身を潜めることにした。
ジュエリーは男から贈られてこそ輝きを増すものだと思っている私は、今回手伝うような真似はしないつもりだったが、ルパンが横取りしてトンズラでもしないように様子を伺うためにも行動を共にする(まあルパンのことだから愛する私のためにちゃんと仕事をするのだろうけど)。
ルパンと常に行動を共にするあのひとは「まーたあの女なんかのために…」などと呆れながら溜め息混じりの愚痴を溢していた。
そういえば、どこで今回のチケットを手に入れたのだろうか。ルパンのように他に女がいるとも思えないし、気になるところだがここは聞かないでおこう。余計なことを考えていると、嫉妬という感情に心が蝕(むしば)まれてしまうから。
ホールに着いてプログラムを眺めているあのひとの横顔を見つめる。ウィーンフィルの公演がまさかこのタイミングでこっちでやるなんてな、とあのひとにしては珍しく声を弾ませていた。音の響きが他所とは全く違うらしく、一度このホールにも来てみたかったらしい。
「何よ。私とのデートの口実作りじゃないのね?」
「あったりめーだ。ベルリンフィルと同じくらい好きなんだ」
「目の前の絶世の美女よりも、オーケストラなのね?」
「はっ、勝手に自惚れてらぁ」
今日の演目はブルックナー作曲交響曲第8番。全くもって知らない曲だ。さすがに演奏中寝たりはしないものの、退屈してしまうかもしれない。あのひとが隣に居なければ生涯聴くこともないであろう曲だ。
チケットに指定された席に座ってからの会話はあまりない。きっとあのひとなりに胸弾まされ気持ちが高揚しているのだろう。ステージ上に並べられた椅子や指揮台を、普段なら滅多に見ることのない生き生きとした目で見つめている。
それにしてもなかなかの席ではないか。普通に買ったら結構な額なのであろう。ただでさえウィーンフィルのチケットは高くて取りにくいのに、本当にどこで手に入れたのだろうか。
あのひとのトレードマークでもある鍔広(つばびろ)の帽子も、さすがに会場に入る前に脱いでいる。こういうときのマナーに抜かりはないのが あのひとらしいところだ。ベッドの中でしか見られないその顔を、こうして外で見ると何だか愛おしくなってる。クスクスと笑っていると、あのひとは ふんと鼻を鳴らして恥じらいを露にしていた。
*****
「なあ、不二子」
「……何よ?」
「どうして100万ドルの夜景だなんて言うか知ってるか?」
今日のコンサートの余韻に浸りながらワインを味わっていて、あのひとからの唐突なその質問に私はすぐ応えられなかった。
カーネギー・ホールからこの店に入るまでは徒歩だった。夕方以降はイエローキャブもなかなか拾えないし、コンサート終了直後ともなれば尚更だ。然程距離もあったわけではないし、他愛もない会話を交わしながら店まで歩くことにした。
歩いている最中も、珍しく饒舌なあのひとの声色は終始弾んでいて、上機嫌そのものだった。ホワイエから出た後にすぐ被ってしまった帽子でよく見えない表情からも、その機嫌の良さが伺えるほどに。
ブルックナー交響曲第8番は、クラシックをあまり知らない私にとっては なかなかの重たい曲であった。
その作品だけで演奏会が成立してしまうほどのボリュームある大曲で、その壮大さと神秘性、圧倒的なスケールの大きさから、数多の交響曲の頂点に君臨するといっても過言ではない、クラシック音楽史上においても屈指の名曲だとかってあのひとが説明してくれた。
確かに、クラシックに関して無知に等しいような私ですら、重たいと感じたのに不思議ともう一度聴きたくなるような、神秘的な魅力がどこかにあった。中でも最終楽章は耳に残る旋律が特徴的で、その中のほんの一部のメロディーが今でも耳にまとわりつくように響いている。
「知らないわよ。そんなことより100万ドル欲しいわね」
高層ビルに縁取られたセントラル・パークを眼下に望むラグジュアリーホテル。高層階に位置するこのレストランからは、マンハッタンの極上の夜景を楽しむことができる。
クラシックコンサートの余韻に浸り、夜景を楽しみながら最高級のディナーを味わうなんて、あのひとにしては珍しく最高のデート内容であった。五番街で買い物を出来なかったことなんてどうでもいい気分にさせられる。
こんな大胆なデートは初めてかもしれない。嬉しさの裏返しに、つい可愛いげの無いひねくれたことを言ってしまう。
「ふん、お前はそういう女だったな」
あのひとは小さく吐き捨てるようにそう言って、メインディッシュのフォアグラのソテーを少々乱暴に頬張った。
モダンアートのようなミッドタウンの摩天楼に緑の彩りを添えるセントラル・パークが一望できるこのレストラン。その景色を一目見たいとここへ訪れる観光客もいるが、常に雑誌の話題に取り上げられるほど有名なシェフのセンスが光るコース料理と、壁を埋め尽くすようにディスプレイされた圧巻のワインコレクションが売りのこのレストランは、富裕層が主な客層のようだ。前菜から何から舌を唸らせる料理ばかりで、見た目だけではないのもポイントが高い。
「その夜景は100万ドルもかかる電気代から出来てるって昔の日本人が言い出したらしいぜ?」
「はあ?」
今はすっかり陽も落ちて緑の彩りを見れないが、セントラル・パークと摩天楼の美しいコントラストに、柄にもなく酔いしれてしまいそうだ。
そんな最高のシチュエーションの中で愛でも囁いてくれるのかと思いきや、この男は一体何を言い出すのやら。思わず情けない声をあげてしまった。
「ロマンもへったくれも無えよな」
「見た目に似合わずあなたはロマンチストだものね」
ロマンチストの割にこういうときに気の利いた言葉も言えないみたいだけどね、と喉まで出かかった言葉をワインで流すように飲み込む。
電気代が100万ドルかかるだなんて、今の私には全くもってどうでもいい。だいたい、どれくらい昔の人が言ったか知らないが、現代だったら100万ドルなんかじゃ済まされないだろう。それなのに、未だに100万ドルの夜景だなんて言って、実に滑稽でならない。
「一言余計なんだよ、お前って女は」
「あら。本当のことじゃない」
「その見た目に、お前は惹かれてんじゃねぇのかよ?」
メインディッシュの最後の一口を飲み込んだあのひとは、目を細め口角を上げて言う。どこか得意気なその表情に何だか腹が立つ。
「笑わせないで。あなたなんかよりハンサムな人、いくらでもいるわ」
違う。腹が立っているんじゃない。
核心を衝かれたような、心を見透かされているような、そんな気がして居たたまれなかったんだ。つんと顎を突き出すようにして顔を背けた。
「…それでも俺がいいんだろ?」
実際のところ、あのひとよりもハンサムな男は掃いて捨てるほどいるし、その男どもを虜にすることだって簡単なことだ。それなのに、何だってこんな男を本気で愛してしまったのだろうか。
「………」
「…可愛いやつ。」
喉を鳴らすように低く笑うその声も。
ワイングラスを支える長い指も。
少し癖のある、黒い髪の毛も。
こうして帽子を外しているときに見れる、私だけに向けられた熱い眼差しも。
何もかも、愛しくてたまらない。
なんだか、悔しい。
「…からかわないでよ」
溜め息混じりに窓の外の夜景を見つめて言う。この極上の夜景も、もう どうでもいい。
今日聴いたあの曲が───最終楽章のほんの一部のメロディーが、耳鳴りのように流れている。店内に流れるピアノの音を掻き消すくらい、大きな音で。
「…からかってねぇよ」
ぽつりと聞こえたその言葉はとても低くて。
え、と顔を上げてあのひとの表情を見ると、心なしか頬は赤らんでいた。日頃からワインよりもアルコール度数の高いバーボンを好んで飲むようなあのひとが、この程度で酔うはずがない。
「…不二子」
「何よ」
「わかってんだろ」
「わからないわよ」
「嘘つけ、わかってるくせに。」
「言って。」
「ケッ、これだから女は面倒くせぇ」
「ねぇ、次元。言って。」
あのひとの目を真っ直ぐと見つめる。あのひとはグラスに残っているワインを一気に飲み干して小さく咳払いをした。
「……この上の部屋、取ってる」
「随分と準備がいいのね?」
ふふん、と勝ち誇ったように言うと、あのひとは目を逸らし耳を真っ赤にした。
「暫く会えなかったんだ。これくらいの準備くらい、してもいいだろ」
あのひとの言葉一つひとつに耳元が疼く。自分だけでなく、あのひともそんなふうに思ってくれていたと思うだけで喉の奥が熱くなる。
「明日の朝、どうやってアジトに戻るつもり?」
こんなに大胆な朝帰りは未だ嘗(かつ)て無い。相当危ない賭け事をしているときのように、全身がざわざわと波立つ。ルパンにどう言い訳するつもりなのだろうか。
こんなことがあった後でも、ルパンは私のためにジュエリーを盗み出してくれるのだろうかと、ふと、自分の腹の中の奥底にある淀んだ部分が呟いた気がした。気まぐれに溢した自分の我儘に小さな後悔すら覚えた。
「…ヤツには…適当に言えばいいさ」
ひどく低く響くその声に、わざと声色を明るめて「それもそうね」と浅く頷き、私も残りのワインを飲み干した。
*****
あのひと───次元大介に出逢えたそのときに、私の終わりはもう既に見えていたのだ。
火照った身体を緩やかに冷やすのは、ベッドの外のぬるい空気。全ての照明を消した室内から窓の外へ目を向けると、いつの間にか靄(もや)が懸かっていた。これでは100万ドルの夜景とやらも台無しだ。
あのひとが取っておいてくれたこのスウィートルームは、ディナーを食べたレストランよりもさらに高層階のため、空気が澄んでいれば景色もさぞ美しいのであろう。だが、靄のような曖昧な関係である私達にはこっちの方がお似合いなのだろうと私は密かに息を吐く。
隣で規則的な寝息をたてているあのひとを見つめて、その胸に耳を寄せ体温に触れる。心地の良いリズムに身を委ね このまま眠りについてしまうと、すぐに朝が来てそのとき私はきっと後悔するのだろう。
涙が一筋頬を伝う。時を止めて愛し合って、全身があのひとで満たされてゆく。その度に、私の胸の端は抉(えぐ)れて落ちるのだ。
あのひとの背中に滑り込ませた手が熱を帯びる。胸の上に乗せていたもう片方の手を握り返されて、あのひとを起こしてしまったことに気付く。
「あ…起こしちゃった……?」
うっすらと開いた目元は微笑んでいるようにも見える。何も言わず抱き締められた。首筋に落ちてきたキスがくすぐったくて、小さく息を漏らす。いっそのこと、眠れなくなるくらい困らせて欲しい。
「…不二子、」
小さく名を呼ばれた後に、愛してると耳元で囁かれた。
「……私もよ、次元。」
大きくて骨ばった手に頬を包まれ、そのまま親指でそっと涙を拭われた。あのひとのあたたかな唇が私の冷たい唇に重なる。解(ほつ)れてしまわないように、私はもう一度だけ言葉を紡ぐ。
「私も…、愛してるわ。」
靄に沈む100万ドルの夜景は、まるで幻のようだった。朝、目が醒めたときに何もかもが幻になってしまわないように、この夜景とあのひとの全てを瞼の裏に焼き付ける。
そしてまた、震える唇であのひとを捉えたのだった。
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2017.12.14
Gleis36