「この道…こんなに広かったっけ。」
細く長く色濃く地面に映し出された自分の影。ゆらゆらとわざと踏むようにして歩くそこはいつもの帰り道。辺りはオレンジに満ちていて、自分が向かっている方向は既にうっすらと青暗くなっていた。
自宅から学校に向かうとき必ず通るこの道は、商店街のように賑やかというわけでもなく、だからと言って閑散とした道、というわけでもない。何の変哲もない、いたって普通の地元の道だ。
この道は、幼稚園の通園バスの通り道でもある。“かすかべ防衛隊”と称して、よくこの道をパトロールの真似事をしながら誇らしげに五人並んで歩いたりもした。この道を歩いていると、かけがえのない日々を過ごした幼い頃の想い出が、時にこうして胸に溢れてくる。
彼らとは、小学校までは同じ場所に通っていた。幼稚園の頃ほど一緒に過ごすことは それこそなくなったものの、朝の登校だけは五人並んでよくこの道を歩いていた。
それは、“かすかべ防衛隊”の一員でもある 風間トオルが私立中学校へ進学してからも続いていた。
県内でも有名な進学校に進んだ彼は、日々の勉強が大変らしく、試験前でなくても参考書や単語帳片手に毎朝この道を歩いていた。自分たちが通う市立の中学校より少し離れた場所にその進学校はあったため、彼の登校時間が大きく変わることはなかったようだ。
そんな彼の背中を追う自分と、眠そうなボーちゃん。笑顔で挨拶するマサオくんに、小走りで皆に追いつくしんちゃん。
別に決まった時間に待ち合わせとかしているわけではないが、自然とこの道で皆と合流し、ふざけ合いながら登校していた。
それが ぱたりと途絶えたのは、五人が別々の高校に進学した年の春からだった。
自分は大宮にある女子高に通い、ボーちゃんは両親の転勤の関係で東京へ引っ越してしまい、高校も東京の普通科に通っていた。マサオくんは地元の工業科の高校に通い、しんちゃんは野球部の特待生として習志野の高校に進学してしまった。
そして彼はというと、エスカレーター式の私立中学だったため、附属の高校で相も変わらず勉強に明け暮れる日々を送っているようだ。
「皆、どうしてるかしら…」
溜息と一緒に言葉が零れた。
右手に持っていたスマホの画面へ視線を落とすと、お気に入りのウサギの待ち受けが目に飛び込んできた。時刻は午後五時半過ぎ。着信、通知は特に無し。早いところ家に帰らねば。部活が無い日にあまり遅くなると母が心配する。
スマホを鞄に戻そうとしたそのとき。手から滑り、がしゃん、と音を立てて地面に落ちた。歩いていた方向とは逆の方向に跳ねるように落ちてしまったため、振り向いて拾う。幸い画面が割れることはなかったが、ウサギのイラストが描かれているお気に入りのスマホケースに目立つ傷がついてしまった。
「あーあ…」
軽く手で払ってみるが、やっぱり目立つ。「何やってんだろ…」と、ぼやいて盛大に溜息をつく。
「あ。」
ふと見上げた空に、星がひとつ光っていることに気が付いた。とても明るくて、真っ直ぐに光っている。今向いている方向は、歩いていた方向とは逆だから、スマホを落とさなかったら気付かなかっただろう。
季節はもうすぐで春になるというのに空気はとても澄んでいていて、こんなに美しい一番星は見たことない。これはスマホケースについた傷の代償なのか。ここまで綺麗な一番星が見られるきっかけを与えてくれたなら、こんな傷ひとつくらい、まあいいか。とすら思えてしまう。
「ねえねえ、皆見てっ!一番星よ…」
振り向いてそこまで言いかけてから、青暗い方向のその道に誰もいないことに今更気付く。
それぞれの道を進んでいる今。この道を五人並んで歩くことはない。
こんな日が、いつかは訪れると覚悟はしていたものの、こうして独りぽつんと取り残されたかのようにこの道を歩いていると やはり心淋しい。じんわりと目の奥が熱くなるのが、自分でもわかった。「…そうよね。」と、自分で自分に言い聞かせるように頷き、踵を返しもとゆく道をまた歩き出す。
───頭ではわかっているのに。
ポタ、と滴がひとつ、アスファルトに染みを作ったそのとき。
「この時期の西の空に光る一番星は、おそらく金星だろうね。宵の明星ってやつだね。」
何となく、鼻にかかるこの声。わたしは嫌いじゃない。そう、昔からよく知っている。ちょっぴりキザで、プライドが高くって。頭も良くて、顔は悪くないけど、マザコンなのが残念なあのひと───。
振り向くとそこにはやはり。地元の学生なら誰もが憧れる、私立の進学校の制服を着ている、彼───風間トオルが立っていた。
「風間…くん……?」
夕陽に逆光していてはっきりと見えなかったけれど、目を細めると「やあ」と軽く手を上げ彼が微笑んだのがわかった。優しく笑うその顔は、自分が知る幼い頃の彼と何ひとつ変わらない。変わったと言えば、自分より頭ひとつ分高くなった身長と、少し低くなった声。
「泣いてるの?ネネちゃん。」
「泣いてなんか…いないわよっ!ていうかどうしてここに風間くんがいるのよっ」
つい昔の癖が出て、強い口調で捲し立ててしまう。そんなことは彼も慣れっこなのだろうけど。
「どうして…って、この道、帰り道だもん」
何言ってるの?ネネちゃん。と困ったような笑みを溢す。ちょっぴりませたその顔も、全部昔のままで。何だか胸がきゅっと苦しくなる。
「…あ、そっか……」
久しぶりの再会で気が動転していたのか、的外れな事を言ってしまった自分が恥ずかしくなって俯いてしまう。
「ネネちゃん。」
ふいに呼ばれた自分の名。胸が高鳴る。
“かすかべ防衛隊”の男の子四人以外の異性から下の名前で呼ばれることがないので、久々に男の人の声でこんなに自分の名を呼ばれると、違和感すら感じてしまう。
「な、何?」
「あの一番星が、どうしてあんなに真っ直ぐに光っているか知ってる?」
「真っ直ぐ?」
急に何を言い出すのかと思いきや。彼は星を見つめたままゆっくりと話し出した。
「うん。他の星と比べて光が揺れていないでしょ?」
ホラ、と言って指差した先には、いつの間にか現れていた星たちがあった。中学の理科の授業で教わった覚えのある形。そう、それは有名なオリオン座。
彼の言う、“光が揺れている”というのは一体どういう意味なのだろうか。先程の一番星とオリオン座の星を交互に見比べて目を凝らしてみる。
「あ…」
思わず小さな声をあげるわたしに、彼は「ね?」と優しく微笑んだ。
確かに、オリオン座の星たちはゆらゆらきらきらと瞬いているのに比べて、自分が見つけた一番星の光は瞬くことなく真っ直ぐに光が届いている。
「夜空に星座を作っている星たちは、自分で光を放っている恒星っていうんだよ。恒星は遠すぎて大気の揺らぎとかで光が揺れちゃうんだ。それと違って惑星は自分から光を放てない。太陽の光を反射していて、距離も近いから大気の揺らぎも影響せずに、ああして真っ直ぐに光が届くんだよ」
「へえ〜…」
理科の先生より教え方が上手いな、なんて頭の片隅で考えながら、目は星空に釘付けだった。
「ほら、月がいい例だよ」
「ああ!」
太陽の光を浴びて美しく光る満月を思い出し、ぽんと手を叩いた。確かにわたしたちが生きる地球に一番近い天体───月の光は、揺らぐことなく真っ直ぐに届いている。
距離が近いと言ったって、こんなちっぽけな人間からしたら惑星も恒星も月ですらも遠い存在だというのに。光の揺らぎというものは、遥かな距離を物語っているというのだ。
「すごい風間くん!学校の先生よりわかりやすいね!中学校のときにこの話聞けてたらなあ」
思わず感嘆の声をあげると、彼はまた優しく笑った。
「あ……やだ…あたしったら…」
思いの外大きな声を出していたことに今さら気付き、急に何だか恥ずかしくなって俯く。「まあ月は惑星と違って衛星なんだけどね」と肩越しに聞こえてくる彼の声。耳が熱い。
冷静に考えてみれば、男の子とと二人並んで歩いていることも恥ずかしくなってきた。相手は幼馴染みとはいえ、やはり年頃の男女。近所の誰かに見られて変な噂でも立ってしまったら彼が迷惑するのではないか、などと次々と考え込んでしまう。
「どうしたの?ネネちゃん?」
黙りこんでいる自分に、彼が覗き込みながら話しかけてきた。
「えっ?!…あ、いや……」
「どうしたのさ?」
黒目がちな大きな瞳。二重瞼に、通った鼻筋。昔から常々思ってはいたことだが、なるほどこれはなかなかの整った顔の持ち主だ。覗き込んできた顔があまりに近かったため、うわ、と声を漏らして少し後ずさると、彼は不思議そうに見つめていた。
「あ、いや…ほら!こんなところに二人で歩いていると、誰かに見られちゃって…でもってそこから変な噂がたったら風間くん迷惑するんじゃないかなあって思って…それで…」
慌てて話しているためか、自然と早口になっていく。
「変な噂?僕と?ネネちゃんが?」
「う、うん…」
言葉に詰まってまた俯いてしまう。すると、あろうことか彼はお腹を抱えて声を上げて笑い出したではないか。
「……プッ…あははははっ!」
「え?!ちょ、あたしは風間くんに…」
「あはははははっ…ごめんごめんっ!だってネネちゃん、すごく真剣な顔して考え込んでいると思ったら…なんだ、そんなこと。」
「そんなことって…!あたしはただ…!」
「迷惑なんかじゃないよ」
「えっ…」
急にトーンが落ちる彼の声に、思わず心臓が跳ねた。肩を並べて歩いていたのに、彼は急に足を止め、俯きがちに話し始める。
「僕には…別に、彼女とかいないし。誰かに見られたって、噂になったって、僕は平気さ」
「平気って……」
「……あ。でもネネちゃんにとっては迷惑かな?」
“彼女がいない”。“迷惑じゃない”。
彼の言葉が何度も頭の中を谺(こだま)する。
それと同時に、湧き水のようにこみ上がってくる、彼への想い。別々の中学に行くとわかってから初めて気づいた、あの時の淡い気持ち。
自分のことを真っ直ぐに見つめる彼から目を逸らせずにいた。
「…あたしも……」
高鳴る胸を抑え、声にならない声を精一杯振り絞って言う。
「迷惑なんかじゃ、ない、けど……」
千切れてしまうような細い声を、優しく紡ぐように彼は続ける。
「僕は、さ」
「…へ?」
「ずっと前から、ネネちゃんの光を浴びてきたから、僕は輝いていられたんだよ」
「……?」
「ネネちゃんは、僕の太陽なんだ。」
彼の言葉の意味がいまいち読み取れない。彼の顔を見たまま呆然とする。
「それって……」
「えーっと、だから、その…」
ぱちくり、という擬態語が思わず浮かんできてしまうような瞬きをしながらその言葉の続きを待っていると、さすがの彼も口ごもってきた。
「あーもうっ!僕は、ネネちゃんのことが、ずっと好きだった、ってことだよ!」
「えっ?!ええええええええっ?!」
唐突に飛び出てくる真っ直ぐな言葉。その告白に、思わず気が動転する。
「もっ、もう!風間くんったら、遠回しに言うから全然わからなかったじゃないっ!相変わらずキザなんだからっ…」
ぶつぶつと唇を尖らせながら文句を言う。黙ってしまうと、この胸の音が彼に聞こえてしまいそうな気がして、じっとしていられなかった。だが、それを遮るように彼はわたしの名を呼んだ。
「ネネちゃん。」
「はっ、はいっ」
彼の真っ直ぐな瞳から、目を逸らせなかった。改まって呼ばれる自分の名。それに反応する自分の声は、明らかに上ずっている。
「僕は、ネネちゃんの気持ちが知りたい。」
くらくらする。ああ、わたしは夢を見ているの?そんなことすら思えてしまう。
「あ…あたしも……たぶん…ずっと、好きだった…。風間くんのこと…」
無意識に唇を滑っていく言葉たち。でもそれは本心で。
「好きだったの…たぶん、ずっと前から。」
「そっ…か、うん、よかった」と低く頷き、柔らかい笑みを溢す彼。
いつの間にか辺りのオレンジは消えていて、薄暗くなってきたため表情がはっきり見えない。けれど、きっと彼の顔も真っ赤だ。
そっと手を取られる。幼稚園の頃は手を繋いでもこんなに胸が高鳴ることはなかったのに、今は全身が心臓になったかのようにどくどくと音を立てているみたいだ。
「…へんな感じだね。」
「昔はこんなふうに手を繋ぐの、しょっちゅうだったのにね」
はにかむ彼の手は少しだけ汗ばんでいて。緊張してたのかな、なんて思うとなんだかこそばゆい気持ちになる。
数秒交えた視線はあたたかい。ふふ、と笑い、一番星に背を向けてゆっくりと歩き出す。
周りの星たちに負けないくらい真っ直ぐに光る、宵の明星。もうすぐ宵が過ぎてしまう。そうすると、あの一番星も見えなくなるのだろうけど。見えなくなっても、きっとわたしたちなら、だいじょうぶ。
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2017.10.29〜2018.05.14 拍手にて掲載
Gleis36