奥歯が疼くのは、きっと虫歯のせいだ。
虫歯が大の苦手な俺が、そうでありたいとすら思うのには理由がある。虫歯よりも厄介だと思っている女が、俺のすぐ隣で呑気に寝息になんかたてているからだ。
なぜこんな状況に陥ったかというと。時を遡ること三時間。
次の獲物の偵察にルパンと出ていたが、より綿密な計画を立てるためにルパンだけが現地に残り、俺は単独でアジトに戻った。するとこの女、そう峰不二子が、些か窶(やつ)れたような顔をしてアジトのソファに深く腰かけていたのだ。
いつからそこに居たのかはわからないが、問題はそこではない。今回の獲物のことは一切この女には伝えていないというのに、この場所を嗅ぎ付けているっていうことが問題なのであって。思わず俺は訝しげに眉をひそめて、警戒するように低い声で言った。
「何の用だ。」
「あら、ご挨拶ね。せっかくあなたに逢いに来てあげたっていうのに。」
「ふん、その割りには随分とお疲れのようだな」
ふふ、と鈴が転がるように笑う。どうやら機嫌は良いらしい。機嫌を損ねないうちにお引き取り願いたいものだ。
「次のお目当ては、王宮関係かしら?」
ここ、オーストリアの首都でもあり音楽の都として世界的にも有名なウィーンでは、歴史あるホーフブルク王宮があり観光地としても有名なわけだが、どうやらそこには、ハプスブルク家の居城時代に残された秘宝が眠っているのではないかと、少し前に研究者たちの間で話題になった。だが、世紀の大怪盗ルパン三世がそんなありきたりな話に飛びつくわけがない。この女だってルパンとは長い付き合いなんだから、それくらいのことはわかっているのだろう。それなのに敢えてこうやって聞いてくるもんだから厄介だ。適当にあしらっておかなければ、また面倒臭いことになりかねない。
「さあな」
朝からこの街を練り歩いていたためか脚が重い。それはもう、乳酸が下半身へ停滞しているのがわかるような気がするくらいに。ルパンが帰ってくるまでソファでゆっくり横になろうと思っていたのに、余計な先客が居たもんだから、これでは横になるどころか座れもしない。あからさまな大きな溜息をつき、部屋の奥にある扉に向かって歩いた。この女に関わるとろくなことがない。こんな女のことは放っておいて、奥のベッドルームでゆっくり休むとしよう。
「つれないわね。横取りなんてお行儀の悪いことしないから、教えてくれたっていいのに」
「ケッ、どの口が言う」
「この口よ」
ソファを横切る刹那、ふいに掠めた唇とシャネルの五番が鼻腔を微かに刺激した。駄目だ。これ以上相手にしてはいけない。頭の中で警告音が鳴り響いた。
「色仕掛けならルパンを当てにするんだな」
「ああん、もう」
膨れ面つくってみせてカワイ子チャンぶっても無駄だ。絶対に言ってやるもんかと帽子を深くかぶり直す。良い歳こいた大人が、なんて子供じみたやり取りしてんだよ、と自分でも呆れてしまう。
今回の獲物はひと味違ったもので、出来ることなら自分はあまり関わりたくないものだった。
ウィーンのトルテ、所謂焼き菓子の中でも特に有名なのは、言わずもがなザッハトルテだ。ウィーンを代表する伝統菓子のひとつでもあり、その見た目の美しさと一度食べたら忘れられなくなる味で多くの人々を魅了し続け、世界にその名は広く知れ渡っている。
ウィーン市内にある老舗ホテルザッハーに併設されたカフェで食べられるのがオリジナルとされていて、諸説あるが最古のチョコレートケーキでもありチョコレートケーキの王様とも言われている。
オーストリアの当時の政治家メッテルニヒに仕える、まだ若い見習い料理人フランツ・ザッハーが生み出し、その評判は瞬く間にウィーン中に広まった。
その後フランツの息子がホテルザッハーを開業し、カフェを併設。そこでウィーン中で話題となったこのザッハトルテが提供されるようになったのだ。
そのレシピは極秘もいいところ門外不出であったが、後の世界恐慌の影響もあってホテルは財政難に陥り、仕方なくそのレシピを皇室御用達の菓子工房に売り込んだ。
その菓子工房こそが予てよりライバルであったデメル。ライバル同士それまでは決して交わることの無かったザッハーの息子とデメルの職人の娘が、これを機に結婚することになったわけだが、実は、この話が持ち掛けられるもっと前から、二人は想い合っていたという。
許されぬ恋を隠れてしていた時代に、ザッハーがデメルのためだけに残したレシピがある。完全非公開、幻とも言われたそのレシピには、隠された愛のメッセージと指輪が添えられていて、ただの指輪ではなくザッハーが皇室御用達の宝石職人に作らせたとびきりの指輪だそうだ。
その後、俗に言われる甘い七年戦争が発生し、ザッハーとデメルの間でゴタゴタがあったもんだから、結局その指輪は贈られることがなかったが、今もなおホテルザッハーの隠し地下廊に眠っているらしい。
とまあ何とも甘ったるい逸話付きの今回のお宝は、キザでロマンチストなルパンがいかにも好きそうな獲物である。「まさかこのお宝を、不二子に贈るとかじゃねえだろうな」と思わず聞いてしまったほどだ。もしそうであったら、今回の仕事は蹴ってやるつもりだった。ただでさえ、スイーツを見たり甘ったるいチョコレートの匂いを嗅ぐだけで、ほったらかしにしている虫歯が疼くというのに。
「……チョコレートとアプリコットの匂い。ザッハトルテね」
ぎくりとした。偵察がてらカフェでザッハトルテを食べたときの匂いが残っていたのか。
ケーキに添えられたシュラークオーバース(無糖のホイップクリーム)がよく合う随分とこってりとした味だったし、芳醇なカカオの香りだけでなく、スポンジの間に挟まれたアプリコットジャムの絶妙な酸味も効いているからか、ただのチョコレートとは違った独特の香りだった。だからこの女にもすぐわかったのだろう。
「ウィーンだしな。記念に食っとこうと思ってよ」
「あなたの柄じゃないわね」
「スイーツ男子って言葉、日本では結構流行ってるらしいぜ?」
適当な誤魔化しをしてみるが、この女には無駄か。ふうん?と目を細めて口角を上げる。狙いを定めた女豹のような顔つきだ。
「…何が言いたい」
「こっちもこっちで忙しくってね。疲れちゃったし何だか甘いものを食べたくなっちゃったわ」
「なかなかのもんだったぜ。この時間なら待たずに店に入れんじゃねえか」
「私が食べたいのはそっちじゃないわ」
「ほう、お前はデメル派か」
「んもう、意地悪ね!」
わざととぼけるようにして、おちょくってみる。すると、眉をひそめてヒールをつかつかと鳴らしながら俺に近寄ってきた。いよいよ機嫌が悪くなったか。
「……あなたしかいないわ。」
「おいおい、さっきも言ったが俺に色仕掛けは通用しねぇぞ?」
「そんなんじゃないわ。ほんとうに、あなたが欲しいの。」
首に巻き付けられる白くてしなやかな腕。熱く交わる視線。俺の耳元で甘く響く声。熱を帯びたようなとろけた瞳と、僅かに微笑む口元。どうやら機嫌が悪いわけではないらしい。
「ねえ」
「なんだ」
「私の口の中も、とろけさせてよ」
「口だけでいいのか?」
悪戯に笑ってみせると、その言葉を待ち侘びていたかのように俺の胸にもたれ掛かってきた。それを受け止め、腰に手をまわし、熱い口づけを交わす。吐息までもが溶けてしまうような。
この女はいつもそうだ。なぜだか、疲れているときほど、こんなふうに甘えてくるのだ。そしてその度にこうして応えてしまう俺も、しょうもねぇ男だなぁと、自分でも心底呆れてしまう。
腰が砕けたように力が抜け、ソファに引きずり込まれる。首に回された腕は、俺の身体のラインを上から下へと順になぞるようにして移動しながら絡みつく。そのなまめかしい手つきに思わず喉が熱くなる。その手を些か乱暴に取り、そのまま押し倒してやろうかと思った矢先。
「……おい」
「………」
「不二子、」
「………」
俺の呼びかけに反応はなく、聞こえてくるのは微かな寝息。その安らかで気持ち良さそうなことといったら何のって。無茶な仕事でもしてよっぽど疲れていたのか。この女がここまで無防備な姿を晒すのも珍しい。
「ケッ、自分から誘っておいて何だよ…」
これぞまさに蛇の生殺し。肩にもたれ掛かってくる重みに、思わず負けてしまいそうなくらい自分も脱力してしまった。小さな舌打ちと深い溜息をつくと、同時にアプリコットがほのかに香った。
ふと、奥歯に鈍い痛みを感じた。ほったらかしにしていた虫歯が今頃疼き出したか。今日の偵察で食べたザッハトルテのせいか、それとも。
「………次元…」
小さく呼ばれた自分の名。なんだ、と聞き返しても返答はなく、それが寝言だということに気付くのはそのあたたかな体温を感じてからだった。
ゆっくりと忍び寄る風が、季節の変わり目を示している。窓の外から流れ込んでくるその風は、心地好く頬を撫でた。身体にある余熱が溶けてゆくようだった。
そんなこんなで時間が経って今に至るわけだが、どうにも身体が動かない。こんな女振り払ってしまえばいいのに、と今までも幾度となく思ってきたことか。
こうして結局、この関係をやめることができないのはおろか、前にも増して想いが募ってしまう俺は、つくづく重症だ。
ああ、この女はほんとうに。
虫歯よりも厄介で、痛くて、苦しくて。
見つめるその先には、気持ち良さそうに寝息をたてている、ザッハトルテのように甘く美しい女。人の気も知らねぇでよくもまあ。
「……どうしてくれんだ、歯医者で治せるもんじゃねーのによ」
吐き捨てるように嘆き、その額にキスを落とした。
--------------------
2019.06.06
サイト開設15周年記念企画小説
アンケートにて1位だったジゲフジで書かせて頂きました。ご協力誠に有難う御座いました。
皆様には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
Gleis36