名前で呼びあったとき、楽しいことが動き出す気がした。
梅雨の時期特有の、じっとりとした空気に包まれた教室の片隅で、泉光子郎は深い溜め息をついていた。
「なんだって僕が...」
光子郎の溜め息の理由はどうやらこの鬱陶しい梅雨のせいではないらしい。
彼が手にしているのは子供会のサマーキャンプの知らせ。昼休みの終わり際にやってきた八神太一からもらった(正確に言えば押し付けられた)ものだ。
太一とは同じ地域のマンションに住んでいて、ひとつ学年が上のサッカークラブの先輩である。もともと人付き合いが苦手な光子郎であったが、太一はそんな光子郎が唯一心を許せる相手でもあった。
しかし、若干強引なところもあり、今こうして光子郎の溜め息の原因を作ったのも、紛れもなくこの太一のせいであった。
「あっ!泉くん、夏休みのサマーキャンプ行くの?!」
「うわ!」
雨音だけが響いていた放課後の教室。生徒も皆帰った後であったし、誰もいないとばかり思い込んでいた光子郎は心臓が跳び跳ねるくらい驚いた。
「ごめんね、驚かせちゃったね」
「な、なんだ...太刀川さんでしたか...」
すらりとした華奢な体型に愛らしい顔つきの彼女は、学年一美少女と言われている太刀川ミミ。
人付き合いが苦手で理論的な性格の光子郎とは真逆の性格のミミは、思ったことはすぐに口に出す直感的な性格で、天真爛漫尚且つ人懐っこい。そのためミミの周りには男女問わず大勢の友達でいつも溢れている。あまりに自分と違い過ぎる性格のミミのことは、苦手というよりも自分と違う次元の人なんだ、というふうにしか思っていなかった。
「なんだ、とは何よぉ!」
「す、すみません」
唇を尖らせて眉間に皺を寄せる顔は、あからさまに不機嫌な模様。ぎくりとした光子郎はすかさず謝った。すると、何事もなかったかのようにころりと声(こわ)色を変えてミミは笑顔を見せた。
「それより!ねぇ、泉くんもそれ、行くのよね?」
きらきらと目を輝かしているミミは指をさした。
「え?ああ…これですか...」
視線を落とした先にはサマーキャンプの文字。思わずまた溜め息を溢してしまいそうになる。
「クラブの先輩に無理矢理誘われて...断ったんですけど、もう申し込んでしまったようです」
溜め息混じりに話す光子郎に、ミミは何も悪びれもなく聞いた。
「泉くん、サマーキャンプ行くの嫌なの?」
え、と顔を上げると、目の前のミミは小首を傾げて目を丸くしていた。光子郎は上手い言い訳が思い付かず、曖昧な相槌しか打てなかった。
「あたしは嬉しいけどな〜!だって泉くんとは今までずっと同じクラスなのに全然喋ったことないんだもの。たくさんお喋りできる、良い機会だわ!」
ルンルン気分と言ったところか。辺りにはまるで音符マークでも飛んでいるんじゃないかと思わせるほど、ミミは心の底から楽しそうに声を弾ませていた。
(僕なんかと話したって面白くないのに…)
こういうのが一番苦手だというのに。光子郎はミミに聞こえないよう小さく溜め息を溢す。
「あっ!ねぇ!あたし、良いこと思い付いちゃった!」
「なんですか...」
「仲良くなるための第一歩、ってことで〜、お互いに名前で呼びあいましょ!」
「えぇっ?!」
思わず大きな声を出してしまった光子郎。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。勿論、ミミは光子郎のこんな声を聞いたことがあるわけもなく、思わぬ一面を見れたことに少し驚いたようだ。そして目の前で固まっている光子郎の顔を見て、ミミは思わず吹き出してしまった。
「な、なんですか...」
「あはははっ...ごめんね!ふふっ、でも、あたし、光子郎くんがそんな大きな声を出すの初めて聞いたし、光子郎くんもそんな声出すんだなーって思って」
“光子郎くん”。
二度呼ばれた自分の名。母親以外の異性から呼ばれたのは初めてだった。
けれど不思議なことに、ミミの言葉の中に出てきた自分の名は、あたかも前からそう呼ばれていたのではないかと思わせるくらい、ごく自然な流れで耳に入ってきた。
光子郎は、喉の奥がくすぐったいような、変な気分だった。
「...ぼ、僕だってこれくらいの声、出しますよ」
少しむくれ、目を逸らして吐き捨てるようにそう言った。
「そうよね!でもあたし、光子郎くんのそういうとこ、これからどんどん知っていきたいんだあ!」
鈴が鳴るような笑い声。再度呼ばれた自分の名。光子郎は、そんなミミの声や笑顔に一瞬見とれてしまいそうになり、ぶんぶんと頭を横に振り我に反った。
「僕は別に太刀川さんのこ「ミミ、ね!」
光子郎の言葉を遮るようにしてミミは自分の名を呼ばせるよう言った。
「あ...いや......その.........」
ミミがじりじりと詰め寄る。じっと見つめられ、光子郎は自分の顔が熱くなっていくのがわかった。
眉間に皺が寄っているものの、怒ってはいない。大きな亜麻色の瞳は、髪の毛の色より幾分濃く見える。通った鼻筋に、真っ白い肌。形の良い唇。確かにこれは学年一の美少女と呼ばれるに相応しい顔立ちだ。下手な安っぽいアイドルなんかよりよっぽど可愛らしい顔をしている。
こんなに近くで女の子に(ましてやミミのような美少女に)見つめられたのは初めてで、思わず光子郎は息を止めてしまっていたが、すぐに限界だと気付いたのか、降参だ、そう光子郎は胸の中で呟いた。
「ミ......ミミ、さん.........」
精一杯声を振り絞るようにして発せられたミミの名。名前を呼ぶのに一杯いっぱいで、クラスの皆のように、ちゃん付けなんて恥ずかしいことはできなかったし、そもそも自分の柄ではない。
「ミミさん…って...ふふふ、光子郎くんらしいね!まあ、よしとしましょう!」
名前を呼ぶのに精一杯で、結局何を話していたのか忘れてしまったではないか。と光子郎は今まで止めていた息を全て吐き出すように溜め息をついた。
上機嫌に笑っているミミを横目に、一体なぜ自分がこんな目に遭っているのだろうかと光子郎は肩を落とす。
「もうちょっとで夏休みね!あ〜ん、早くキャンプにならないかなあ。今から待ち遠しいわ〜」
独り言のようにそう言いながらロッカーの方へ向かう。今更ながら、ミミは折り畳み傘を忘れて取りに来たことを思い出したようだ。鼻歌混じりに自分のロッカーからピンク色の小さな折り畳み傘を取り出した。確かに今朝は雨が降っていなかった。専ら、天気予報で午後から雨になることを知っていた自分は普通の傘を持ってきていたが。
「あっ、光子郎くんはまだ帰らないの?もし帰るなら一緒に帰ろ!」
人付き合いが苦手な光子郎は、ここまで散々ミミに振り回されて疲れきっていた。恥ずかしさもあって、これ以上ミミといるのは何だか心が持ちそうもなかったのもあって、その誘いは断ることにした。
「いえ、僕はまだ用事がありますので...」
「ふぅん?そっか。じゃあまた明日ね」
ひらひらと手を振りながら笑顔で去っていくミミ。光子郎は、ぼんやりとその後ろ姿を眺めていた。
今日何度目の溜め息だろうか。しかし、先程とは何かが違かった。溜め息を漏らした口元が、なぜだか緩んでいる自分に気付いて、慌てて頭を振る。
「サマーキャンプ、か......」
来週には梅雨は明ける模様でしょう。そう声を弾ませていた天気予報士は嘘をついているのではないかと思うくらい、地面に打ち付けるような強い雨が外で降っている。その様子をぼんやりと眺めながら、光子郎は重たく感じる腰をようやっと持ち上げ、教室を出たのだった。
外から聞こえてくる雨音と、自分の心音だけが、やたらと煩く感じるのは、やはりミミのせいなのだろうか。彼女にとっては、他のクラスメイトと接する時と同じようなことなのだろうが、光子郎にとっては心掻き乱されるようなことであった。
「明日から、なんて呼べばいいんですか...」
思わず溢してしまったその言葉は、勿論今ここにいないミミに向けられたもので。
もし、ミミがいたらすかさず「ミミよ!」とまた顔を近付けて怒鳴られそうだな、と光子郎は困ったような笑みを浮かべる。
(……まったく、勝手な人なんですから…)
気分は最悪なはずなのに。自分でもどうしてだかわからないが、鬱陶しい梅雨空とは正反対の、晴天のような爽やかな気分だった。
このときの二人はまだ知らない。
そのサマーキャンプで未知なる体験をするということを。
そしてその先にある、ふたりの気持ちに変化が訪れるということすらも。
ただ、このとき。そう、名前で呼びあったとき、楽しいことが動き出す気がした。それだけは確かだった。
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2018.05.15〜2020.12.26 拍手にて掲載
Gleis36