市ヶ谷駅のホームに降り立つ前から、どうにも心臓の音が煩い。
千葉方面行きの黄色い帯の電車。彼女は絶対にこの電車に乗っているはずがない。そんなことは分かりきっているのに、無意識にその姿を探してしまっている自分の行動が全く以って理解できなくて尚更焦った。
日曜日の朝八時前の市ヶ谷駅は、サラリーマンよりもオレと同じくらいの年代の学生の方が多い。まだ朝早い時間だということもあってか、観光客の姿も疎(まば)らだ。
もう何度聞いたのかわからない耳慣れた発車ベルがホームをこだまして、電車は徐々にスピードを上げて去っていく。視界の隅で千切れる黄色に朝陽が反射して、オレは思わず目を細めた。
ホームから離れる電車が巻き上げた風圧が、追い風のようになって頼りないオレの背中を勢いよく押す。この時間帯のホームにいる学生の大半はオレと同じ院生だから、目的地はただひとつ。都営地下鉄の乗り換え専用階段を降りず、出口と書かれた山吹色の案内表示のある階段へと真っ直ぐ向かう。その流れに乗るようにオレは足早に歩き出した。
視線を泳がせるようにして彼女の姿がないことを確認すると、そっと胸を撫で下ろした。
今のオレの状態は明らかに正常ではない。人はみなこれを、そわそわしている。と表現するのだろう。自分でもそんなこと、とうに分かっている。だけど、どうしても。先週起きた出来事が頭から離れないのだ。
「(…昨日、あいつの学校は文化祭だったんだよな。)」
彼女───奈瀬明日美のクラスでは、メイド喫茶を出し物としてやると言っていた。
何を思ったのか、オレはその話を聞いている最中に彼女のメイド姿を想像し、そしてあろうことかその姿を「悪くないな」などとうっかり溢してしまったものだから言い逃れに窮してしまったのだ。
変に思われまいと焦って弁解するものの、彼女は得意気にフフンと鼻を鳴らし「可愛い明日美ちゃんのメイド服姿を拝みにいらっしゃい!」なんて言い残して颯爽とオレの目の前から去っていった。
とまあ、ここまでが先週起きた出来事で。
あのとき僅かに芽生えた整理のつかない気持ちに、自分でも動揺していた。それは一夜明けて凡庸な日常に戻ってからも、忙しない左胸を落ち着かせる暇さえなかった。
カレンダーを見つめて土曜日までの日数を無意識に数えたり、念の為彼女の通う学校への交通手段を調べたり、行ってどうすんだよと何度も首を振ってみたり。
そんなことをしているうちに彼女の言うその日がやってきたわけだが、結局オレは文化祭に行けなかった。部屋着にしているジャージからちゃんと着替えたというのに、家から一歩も出られなかったのだ。
鼻先を微かに掠めたのは、ほろ苦い香り。市ヶ谷駅前の交差点のすぐ傍にある小洒落たカフェから香ってくることくらい、容易く特定できた。歩くスピードを緩めて、ガラス越しに店内をそれとなく覗いてみる。
「やっぱまだ伊角さん来てないか」
いつもならだいたいこのカフェの窓側のカウンター席で珈琲を飲んでいる伊角さんだが、今日はオレの方がだいぶ早く着いたからその姿はなかった。
どこからか舞ってきた枯葉を踏む音と感触に、思わず足を止め街路樹を見上げる。静かに移ろいでいく季節が、確かにそこにあった。
ものの数分で目的地である日本棋院に到着した。
時計に目をやれば、やっぱりいつもの時間よりだいぶ早い。一組はまだほんの数人しか来ていない。無意識にあの栗色の髪を探している自分に、今日の手合いのことに集中しろ!と、慌てて首を振って頬をぺちんと軽く叩いた。
大部屋に入ると畳の香りが鼻腔を刺激する。そうだ、この香りだ。この藺草(いぐさ)の独特な香りを感じるたび、背筋がしゃんと伸びるのだ。
なるべく縁(へり)を踏まないようにして部屋の奥へと進む。すると個性的な髪型と丸い眼鏡を視線の先で捉えた。
「おはよう和谷」
「おー、越智!おはよ。」
「どうしたのさ。キョロキョロしちゃって」
眉間に皺を寄せ不思議そうにこちらを見ている。彼女の姿を探しているなんて、口が裂けても言えるわけがない。
「し、てねえよ!」
「ふーん。あ、ボクと一局打たない?」
「おう。いいぜ!」
早く着いた人がだいたいの準備をすませ、そのまま独りで詰碁をしたり誰かと対局したり、はたまた仲の良い人同士で雑談したり、午前の手合いが始まるまでの朝の少ない時間をどう過ごすかは人それぞれだ。こんなに早く来たのは久しぶりだしたまには有意義な時間を過ごそう、と気持ちを切り替えた。
越智には珍しく早碁なのは、きっと朝の少ない時間だからだろう。ここ最近の越智は絶好調だった。自分だってこの前師匠に褒められたところもあるんだ、負けていられるか。
序盤の勢いはあったのだが、肩に力が入ってしまっていたからか、オレの些細な見落としに越智は一気に切り込んできて、オレはあっさりと負けてしまったのだ。
今みたいに時間潰しのような対局や、公式戦、院生研修───どんな対局であろうが、「ありません」と言うときは喉の奥が熱くなるし、掌には爪の跡が残るくらいにいつだって悔しい。下唇を噛み、絞り出すように有難うございました、と言った。
「越智、絶好調ね!それにしても和谷、どうしたのよ?らしくない碁、打っちゃって。」
お互いに丁寧にお辞儀をしてから顔を上げた刹那、背後から降ってきた声にオレの心臓は飛び跳ねた。勢いよく振り向くと、そこには彼女と伊角さんが立っていたのだ。そして今、まさに彼女とかっちりと目が合ってしまった。
「なっ…奈瀬?!伊角さんも!いつの間に…」
「おはよ。終盤あたりから伊角くんと見させて頂きました」
「お、おう…はよ」
慌てて顔を背けて視線を逸らす。何とも締まりのない挨拶をしてしまって自分で自分に悪態をつきたくなった。
確かに今の一局は、オレらしくない。そんなこと、当の本人が一番分かっている。まさかそんな情けない対局を、今一番会いたくないやつに見られるなんて。
「おはよう和谷。今朝は早かったんだね」
「おはよう伊角さん。なんだか早く起きちゃってさ」
誰かさんと朝一で顔を合わせたくなかったから早く来た、なんて言えるわけもなく、早起きしたからなどと適当に誤魔化した。
ジャラジャラと控えめな音を立てて碁石が碁笥にしまわれていく。誰にも聞こえないくらいの小さな溜息をついて席を立とうとした矢先のことだった。
「てゆうか和谷ぁ!なんで昨日来なかったのよぉ!」
触れて欲しくない話題を、しかもなんでよりによってこんな場所で出してきたのか。一気に跳ね上がる心拍数。じわりと手に汗が滲む。落ち着け、適当にあしらうんだ。
「はあ?!あれって本気だったのかよ?」
「当たり前でしょ!好評だったんだから」
「なんの話〜?」
好評だったのかよ、と突っ込みたかったのに言葉にならないくらいに掠れて小さくなってしまったオレの声は、彼女の背後からひょっこり顔を出したフクの元気な声に掻き消されてしまった。
「昨日うちの学校、文化祭だったのよ」
「へえ〜。何やったの?」
「メイド喫茶。」
「えっ!じゃあ奈瀬メイド服着たの〜?!」
ついさっき到着したのか、少し息を切らせた進藤が割って入ってくる。
「着たわよ。結構好評だったのよ」
「写真とかあるの?」
「あるわよ」
「見せて見せて〜!」
すっかり会話のペースを進藤とフクに持っていかれ、話し掛けられたはずのオレは輪の中でぽつんとひとり置いていかれた。
彼女は徐ろに携帯を取り出し、何をするかと思いきや、当日撮ってもらった写真か何かを皆に見せ始めたではないか。進藤達は携帯の画面を覗き込んでは、やいのやいのと盛り上がり始めている。
「へえ。似合ってるじゃん」
「ありがと、伊角くん!」
「ふーん。馬子にも衣装ってやつ?」
「越智、アンタねぇ〜素直にカワイイって言いなさいよ!」
伊角さんに越智まで写真を見ているというのに。どうしてオレは、さりげなく見て冗談や皮肉を言って笑い飛ばせないのだろうか。遠巻きに見ながらハハ…と間の抜けた渇いた笑い声をあげて誤魔化すことで精一杯だった。
「行ってみたかったなあ。和谷、知ってたなら誘ってくれよ」
そうか。伊角さん達も誘えば行きやすかったのか。はなからその考えはなかった。
「そうよお。皆で来てくれてもよかったのに!」
柔らかく微笑みながら、些か残念そうにしている伊角さんと、その横で口を尖らせむくれている彼女。
いつもなら彼女の頭は囲碁ばかりで学校行事なんか蔑ろにしているくせに、何だってまた今回は見てもらうことばかりこんなにも拘るのだ。文化祭の準備だって面倒だと最初は溜息ついていたくせに。
「あいにくオレはそんな暇じゃねーっつぅの!」
その日一日中、自室の扉の前でうだうだしていたやつが何を言うか。全く、自分で自分に突っ込んでしまったではないか。
それにしても、なぜオレは伊角さん達を誘っていくことを思いつかなかったのだろう。先週起きた出来事からは、そんな簡単なことすら思いつかないくらい明らかに正常ではない思考回路だったというわけなのか。
「(……うん?ちょっと待てよ…?)」
───彼女のメイド姿を、誰にも見せたくなかった…?まさか、心のどこかでは、自分だけのものにしたかった…───?
「ばっ…!!ちげえっての!」
一瞬頭を過(よ)ぎった訳の分からない気持ちに、心底自分で驚いた。顔に熱が集まっていく感覚が分かり、はっとしてブンブンと激しく首を振り、我を取り戻そうとする。それと同時に声もあげてしまっていた。
「うわ!なんだよ和谷、びっくりさせんなよな!」
「わ、わりぃ…」
すぐ隣にいた進藤は怪訝な顔つきで「へんなの。」と付け足した。お前だってよくデカい声で独り言言ってんじゃねぇか、と喉まで上がってきた言葉をオレは慌てて飲み込んだ。
「そろそろ時間だね。和谷、午後も勝たせてもらうから。」
「ニャロウ越智!今度はぜってー負けねぇ!」
そろそろ午前の手合いが始まる時間だ。オレと越智の碁盤の周りに集まっていた面々は「じゃあ」と声を掛け合いながら散り、各々の対局相手の席につき始めた。
結局オレは、彼女のメイド姿の写真を見損ねてしまった。もうあの話題に戻ることもないだろうし、少しでもいいから見ておけばよかったな、などと小さな後悔をしていた。ここまで後悔する必要もないのに、一体何がしたいんだオレは。この得体の知れない感情はどこから湧いてくるのだろうか。
猫背がちの背中をピッと伸ばし、深呼吸をして藺草の香りを肺にたっぷりと送り込む。午前の手合いに向けて気持ちを切り替えようとしたそのとき。
「……いくじなし。」
「っ?!」
背後から、控えめに、でも確実に放たれた言葉。それは紛れもなく彼女の声だった。まだ騒ついている部屋でも、真っ直ぐとオレの耳まで届いたのだ。
振り向くと彼女と視線が空中でぶつかった。怒ったような、でもどこか淋しそうなその目はすぐに逸らされて、彼女の前にある碁盤に向けられた。伏せ目がちの目元では、長い睫毛に影を落としている。
「(今のは、一体───。)」
身体中が騒めき立つ。胸の奥底へとじわりじわりと滲んできた甘さに頭さえ抱える。
結局気持ちが切り替えられないまま、その後の対局内容が散々なものになってしまったのはいうまでもない。
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2020.12.27
Gleis36