市ヶ谷駅の駅舎を出れば冷たい風が頬を刺す。柔らかな肌触りのポールスミスのマフラーに首をうずめ、背中を丸めて歩き出す。そういえば、今朝の天気予報では、数年ぶりの大寒波が訪れるのだとか気象予報士が大袈裟に言っていたのを、今になって思い出した。あながちそれも嘘ではないのだろうなと思わせる寒さだ。些か乱暴にポケットへ突っ込まれた手の先で、昨日の研究会で伊角さんから貰ったのど飴を捕らえた。
駅の周辺ではクリスマスが近いからか街路樹に施されたイルミネーションが煌めく。名スポットといわれるほどではないものの、道行く人はみなその煌めきの中でどこか浮き足立っているようだった。そんな空気に乗せられてか、自分もどこか軽い足取りで、マフラーの送り主である彼女の顔を思い出していた。
「今度、あいつとどっかのイルミネーションでも見に行くかな…」
白い息と共に吐かれたその言葉は、誰にも聞かれることもなく冷たい空へと溶けていった。
数分で着いた日本棋院。正面玄関の扉がいつもより重く感じるのは、風圧差が生じるほど外の風が強いのかもしれない。その冷たい風に思わず肩を震わせた。
真っ直ぐエレベーターへ向かうと、そこには同じ門下でよく見知った仲である背中があった。
「よ!進藤本因坊!」
振り返った進藤は相も変わらず「和谷ぁ!」と明るい声を上げ、人懐っこい笑顔を見せて寄ってくる。三十路も目前だというのにクソガキっぷりも抜け切れず、これでもタイトルホルダーなのだから驚きだ。
進藤ヒカルが本因坊位を奪取し九段となったのは、半年前のことだった。確かに進藤はどこか底知れぬ才能があったから、遅かれ早かれこうなるだろうとは、今や公認となった彼のライバルである塔矢アキラを筆頭に誰もが予想していた。
桑原前本因坊も、進藤のプロ入り当初、いやそれ以前から只者ではないと評し、その彼が自分の挑戦者となりいずれは本因坊位を奪われるのだろうともいつぞやか零していた。そして何よりも進藤の本因坊秀策に対するただならぬ拘りが糧となり、あの桑原前本因坊の長期に渡る防衛を断ち切ったのだろう。
「この前の取材でもそうやって呼ばれたけど、なんかまだ慣れねえな、その呼び方。」
苦笑混じりに照れた顔はやっぱりどこか子供じみて見える。
「まあ、前の"桑原本因坊"が長過ぎたもんだから、オレら自身も未だにそっちで馴染んでいるんだろうな」
今や進藤ヒカルのトレードマークにもなった扇子を持つ方の手で鼻先をいじり、ハハっと乾いた声をあげて機嫌良さげに笑っていた。
エレベーターが到着し二人でほぼ同時に乗り込むと、ほんの僅かな静寂となった。
「……ずっと、防衛してやるさ」
進藤らしくない、ひどく低く響くその声に、思わず「え、」と顔をあげる。すると進藤は、手に握りしめている扇子に視線を落としていて、その表情はさっきの笑っていたそれとは打って変わってどこか淋しげだった。
「…この先誰が本因坊の挑戦者になろうが、本因坊の名前だけは、絶対に誰にも渡すもんか」
───そうだった。こいつは本因坊、そうだ、特に本因坊秀策のことになると、ただ尊敬や崇拝しているとかそういうものとはまた違った、特別な拘りがあるような素振り見せるのだ。そんなときは決まっていつも、トレードマークの扇子を真っ直ぐとそして静かに見つめて、淋しげな表情をするのだ。どこか遠くを見ているような、何だか泣き出しそうにも見てとれる。一瞬のことなのに、そういうときの進藤はどこか危なげな印象さえ漂わせている。
「勿論、和谷が挑戦者になってもな!」
ぱっと顔を上げた進藤の顔は、もういつものクソガキだった。「ニャロウ、見てろよ!」と院生時代に戻ったようなやり取りをして笑い合う。
「そういえば進藤。藤崎さんとの結婚式、いつになったんだっけ?」
彼には藤崎あかりという幼馴染の彼女がいた。もう随分と長い付き合いなのだとか。彼女もまた囲碁を嗜むそうだが、初心者レベルからちっとも成長しないんだと進藤は小馬鹿にしながらも、結局いつの間にか惚気け話になっているのをたまに聞かされる。
オレの彼女とひょんな事から仲良くなり、都合さえ合えばお茶をしながらガールズトークに花を咲かせているらしいのだが、そのときに結婚も秒読みという話を彼女伝てに聞いていた。
「あー…来年あたり?」
「あたり?って…進藤オマエなぁ、オレに聞くなよな」
呆れて小突いてやるが、考えてみれば確かに進藤の手合数は多く、式の日程も見通しつけられないのだろう。
「和谷は?この前の記録係、奈瀬だったけど、和谷のことなんも言ってこなかったぜ?」
オレの彼女───奈瀬明日美は、オレ達が入段してから二年後にプロ棋士となった。彼女がプロ試験に合格する少し前くらいから付き合い始めたオレ達も、結婚秒読みの彼らほどではないがそれなりの長い付き合いだ。彼女もまた、それを待っているのは一緒に居ても嫌というほど伝わってくるし、自分でもそろそろとは思ってはいるのだが、どうにも決心がつかなくて言い出せずにいたのだった。
「まあ…な。きっかけって、重要かなってさ」
「あー…わかるぜ、その気持ち」
進藤が本因坊のタイトルを奪取してからその決意をしたのと比べてしまうのも妙な話だが、オレも何か大きな目標を達成し背中を押して欲しいのかもしれない。
ガコン、とエレベーターが止まる音がした。建物自体古いものだからか、エレベーターの動作音もいちいち大きい。扉が開き、進藤と肩を並べて同じ階で降りる。オレは降りたその先にある研究会のために用意された部屋を真っ直ぐ見つめ、決心した。
「…よし。オレ、次昇段したら言うわ」
「マジ?!そっか。うん、頑張れよ!」
「おう!ってかオマエも忙しいんだろうけどさ、ちゃんと藤崎さんと連絡取って日程はっきりさせろよ!こっちだって予定空けとかなきゃなんだから、早めに教えろよな」
「わかってるってー」
ケラケラと笑いながら少し前を歩く進藤に、本当にわかってんのかコイツは。と思わず突っ込みたくなった。
靴を脱ぎ、部屋に入る前にコートを脱ぎとマフラーを外す。前回の昇段祝いで彼女から贈られたこのポールスミスのマフラー。思わずそれを持つ手に力が入る。
次の大手合は来週の木曜日だ。昇段がかかった大切な対局、絶対に負けてやるもんか。
昇段を決めて、そしてベタでいい。イルミネーションでも見ながら彼女に言ってやるんだ。結婚しよう、と────。
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2020.12.27〜2021.05.04 拍手にて掲載
Gleis36