辺りが一斉に雨の匂いに包まれるこの瞬間を、姫子は嫌いじゃなかった。
数分前に吹いた少しだけ肌寒く感じた涼しい風は、この夕立の知らせだったのだ。自慢のウェービーヘアに湿気だけを纏わり付かせたその風は、そそくさと姫子から逃げるようにしてすっかり吹き止んでしまっていた。
普段だったら、湿気を含んで絡み合う髪の毛を不機嫌極まりない顔で整える姫子だったが、今日は違った。新調したばかりの折りたたみ傘の出番がやっとやってきたから、姫子の胸は弾んでいたのだ。髪の毛を軽く手櫛で梳かしてから、ひとつ息をつく。
学生鞄の底で、今か今かと出番を待ち焦がれている淡い薄紫色の折りたたみ傘。長年使っていた前の傘が、強風に煽られて骨折れを起こしてしまい、次のものを探していた矢先、この傘に出逢ったのだ。
トレンドのレインコートやレインブーツと一緒に店頭にディスプレイされたその傘は、いとも簡単に姫子の目を惹きつけた。淡い薄紫色の生地に色とりどりの小さな花が散りばめられていて、裾には控えめで上品なレースがあしらわれているこのデザインに、まさに一目惚れだったのだ。ひと目見たときから、この傘を買うのだと姫子の思いは揺るがなかった。傘を買うために母から預かってきたお金に、自分のお小遣いを上乗せして買った。少しだけ背伸びをした値段とデザインかもしれないけれど、姫子はこの傘をとても気に入ったのだ。
しかし、梅雨は随分と前に明けているし、明後日から夏休みだという季節柄もあってか毎日三十度超えの真夏日で雨の気配すらなく、なかなか新しい傘の出番はやってこなかった。
そしてある日突然、こうして出番はやってくる。
犬走りに大きめの黒い水玉模様を無数に作り上げ、夕立は徐々に強さを増してきた。アスファルトが蒸すような独特の夏の雨の匂いが鼻腔を刺激する。
昇降口の軒下で上機嫌に折りたたみ傘を開こうとしたそのとき、背後から「おい」と不躾な声が飛んできた。
振り返らなくてもこの声の主が誰だかすぐ分かる。低くて少しだけ掠れているその声を、ほんの数日前に耳元で聞いた。そのときのことを思い出して自然と耳が熱くなる。
サッカー部の部室で心地の良い夏風が吹き抜けていたあの日、大野けんいちとついに心を通い合わせた。
もうずっと長い間、姫子の不毛な片想いだと思っていたけれど、中学二年生の頃に文化祭実行委員で一緒に仕事をしたのがきっかけで、けんいちは姫子に好意を寄せ始めていたのだ。そして機を見るに敏、話の成り行きもあったかもしれないが、姫子は長年の想いを姫子なりに伝えたのだ。誰かから告白されることばかりだった姫子にとって、自分から想いを伝えたのは初めてのことだった。
挑発的な姫子の態度に煽られるように、けんいちは姫子をきつく抱き締めた。これがけんいちの応えだった。背中に感じる体温と、心臓の弾む音。聞こえてくるのはどちらの心臓の音なのだろう、と冷静になれていたのはそこまでで、それから後のことを姫子ははっきりと覚えていなかった。
大粒の雨が地面を叩きつける。その凄まじい音で、姫子は我に返った。
さっきからやけに煩い胸の鼓動は、早く傘を使いたいという高揚感からなのだから。と自分に言い聞かせてから振り向くと、そこにはやはりけんいちが立っていた。
「雨、すげー強ぇぞ。こんな中帰んのかよ」
「あらいいじゃない」
よくねーよ、と眉間を顰めるけんいち。ゆっくりと姫子に近付き肩を並べ、鈍色(にびいろ)の空を見上げる。
「急いでんの?」
「べつに」
姫子は傘を開こうとした手を止め、つんと唇を尖らせた。
「じゃあ、もうちょっと雨宿りしてけば?」
「は?なんで。」
「なんで…って……」
言葉を濁してしどろもどろしているけんいちに、相変わらずハッキリしない男ね、と喉まで出かけた言葉を慌てて飲み込んだ。
「そういうのは…なんていうか、察しろよな」
「煮えきらない男ね」
せっかく飲み込んだ言葉が、思わず飛び出てきてしまったではないか。
本当は分かっているのに、全部察しているのに。その言葉が欲しくて、つい挑発してしまう。そう、抱き締められたあのときのように。
「お前ってほんと可愛くねぇよな」
「あら。可愛くないなんて、初めて言われたわ」
口角を上げて目を細め得意気な顔をする姫子。けんいちは呆れたような溜息を盛大に吐いた。そして出し切った息を深呼吸でまた肺に取り込み、勢いを増す雨音に負けないくらいの声量で言ってやった。
「俺が!お前と!居たいから!もうちょい雨宿りしてけよって言ってんの」
ぶっきらぼうに放たれたその言葉は、姫子の心臓を跳ね上がらせるには容易だった。
───この男に、こんな歯が浮くような台詞、言えるなんて知らなかった。
遠雷の音も聞こえる。姫子の頭の中でそれはとても煩く響いた。
「…ったく、なんでこんな女王様好きになっちまったんだか…」
小さな本音が思わずけんいちの唇を滑る。聞こえないくらいのその言葉を、肩が触れそうで触れないこの距離にいれば聞き逃すわけがない。
ああ、夢じゃないんだ。あの抱き締められたときの続きが、今ここにあるんだ。姫子の胸の裏側が少しだけくすぐったくなる。
「今更確認すんのも変かもしれねーけどさ、」
こめかみの辺りをぽりぽりと掻き、視線を泳がす。
「俺らって、付き合ってんだよな?」
その頬は染まっていて、それはまさに漫画に描かれたような典型的な照れ方だった。そんな様相のけんいちに思わず姫子は噴き出した。
「そうに決まってるじゃない。つくづく朴念仁ね、あなたって人は」
ころころと鈴が転がるように笑う姫子。けんいちは少しだけむっとするが、あまりに姫子が可笑しそうにするもんだから、けんいちもつられて笑ってしまった。
まだ雨は止みそうにないものの、先刻より雨脚は確実に弱まっている。気が付けば、雲間から僅かに光が漏れていた。
「あなたのせいで、雨、あがっちゃいそうじゃないの」
嬉しさと恥ずかしさの裏返しで、また可愛げのないことを言ってしまった自分を呪いたかった。
「あがっちゃいけねーのかよ」
───あなたと居たくないからじゃない。傘を使いたいからなの。
そうやって、ちゃんと自分の本当の気持ちを言葉にしないと伝わらない。素直にならないと、誤解されてしまう。もしもそうなれば、その先が見えなくなるのではないかと思ったら、急に怖くなった。
「……傘。」
「傘?」
「…新調したばかりで、早く使いたいのよ」
珍しく素直に本音を言うしおらしい姫子に、けんいちは些かぎょっとした。元より、何かと突っ掛かってくるような口ぶりの姫子だったから、そうでないと何だかけんいちも調子が狂ってしまうのだ。
姫子の手元で待ちくたびれている傘を見たけんいちは、にっと白い歯を見せて笑った。
「なんだ。そういうことか。早く言えよな」
え、と顔をあげたときには、けんいちはもう昇降口の軒下から一歩出ようとしていた。
「早く行こうぜ」
「でもあなた、傘ないじゃない」
「こうすりゃいいだろ」
ぐいと引き寄せられる腕。勢いで犬走りまで出てしまい雨に当たる。制服が少しだけ濡れて、慌てて傘を開いた。
「ちょっと。いきなり何するのよ」
「付き合ってんなら、これくらいいーだろ」
傘をさす姫子の手に、ふいに重なったけんいちの手。持つよ、と言われてびっくりして素直に渡してしまった。初めておろしたお気に入りの傘が、まさかこんなにも呆気なく自分以外の人間にさされてしまうとは。それが自分の愛するひとならば、それもまあ悪くはないのだろうと姫子は小さく笑みを零す。
早くも露先から滴る雨粒で、雨の強さを思い知る。
───よかった、まだ止みそうにない。
今しがた昇降口で肩を並べていたときよりも更に近いこの距離は、傘のおかげでより一層二人だけの空間になったようだった。姫子は、顔に熱が集まる感覚が自分でも分かった。紅く染まる頬をけんいちに見られないようにと慌ててそっぽを向く。
「……狭いわね」
「ほんっと、可愛くねーな」
そう言いながら笑うけんいちに肩を抱き寄せられた。早まる鼓動はどうにもおさまらず、もうずっと心臓は忙しないままだ。
校門を出ると通い慣れた通学路に水溜りが沢山できていた。傘を使いたいことばかり考えていたから、ローファーが濡れるなんてことまで頭が回っていなかった。それでも水溜りを避ける二人の足取りは軽い。
お気に入りの傘と、隣には愛するひと。少しずつ白くなってゆく空に、僅かな光の粒が反射する大きな水溜りと、緑のネットフェンス。世界はこんなにも色彩で溢れている。アスファルトの切れ間に咲く花は、久しぶりの新鮮な水に喜んでいるようだった。
「……あ」
小さく声をあげると、隣から「雨、あがるな」と低く響く声が姫子の耳に届いた。
「そうね…」
「………。」
音も無く静かにやんでゆく雨。歩きながら耳を傾けてもやっぱり分からない。夕立とは儚いものだ。
抱き寄せられていた肩はほどかれ、熱が逃げてゆく。姫子の胸には寂寥感が拡がる。雨があがって喜んでいるのは、恐らく蝉だけなのだろう。夕立前と同じように、高らかに声をあげ始める。この声を聞くだけで、一気に暑苦しく感じてしまう。
「傘。入れてくれてありがとな」
水気を軽く飛ばし几帳面に畳まれ渡されたそれを見つめ、どういたしましてと言う姫子。こんなにも待ちぼうけをくらったのに、あまりに呆気なく短い出番だったな、と傘の気持ちになって肩を落とす。
「……その傘。お前に似合ってんな」
今まで聞いたことのないくらい嘘みたいに優しい声が降ってきた。その声を聞いて姫子はやっと気付くのだ。お気に入りの傘が使えなくて淋しいのではなく、小さな傘の中でけんいちと身を寄せられないのが淋しかったということに。
「あら。有難う。意外と見る目、あるのね」
無理してでも笑顔を作って顔をあげる。脆くて今にも壊れてしまいそうな、淋しげな姫子のその笑顔。それを見たけんいちは、堪らず姫子の頭を自分の胸に引き寄せた。
「あたりめーだろ。」
「…このわたしを、選んだものね」
「…ほんと、可愛くねーやつ」
───困ったように笑うその顔も、好き。なんて、やっぱり言えないけれど。
なんだか悔しくて、引き寄せられた顔をふいに見上げて悪戯にその唇を奪ってやる。鳩が豆鉄砲をくらったような、そんなけんいちの情けない顔に、姫子はまた噴き出した。
───また夕立が降ったら、そのときも。
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2021.06.06
Gleis36